S大学名誉教授、唐島恒存の日記より。
S大学名誉教授、唐島恒存の日記より。
平成二十五年三月十九日(火曜日) 晴れ
今日は講義のあと、研究室に戻って中村君に借りた本を四冊抱えて彼の研究室へ返しに行く。惜しいことだ。私も欲しい本だったのだが。もう今年割り当てられた予算の大方を使ったので、欲しい本も購入を見合わせなくてはならぬ。
中村君の研究室は日当たりがよい。椅子もふかふかで…よそう。
自分の研究室には戻る用事もないので、家へ戻る。その前に平田万年筆病院へ預けていた万年筆を取りに行く。
平田さん不在、長男が応対す。結婚披露宴の招待状を頂いていたが、郵送をしようか手渡ししようか思案していたところ、忘れるようならばいっそお送りすると口約束で店を出る。いい青年だが、技術や知識は父上に及ばない。
五時二十分頃、帰宅。定子、留守。陶子が書斎に茶を持ってきた。定子は稽古の後、華道のお仲間と遅くなるの由。
茉莉絵は部活動。
机の真ん中の長引き出しに平田貞之君の披露宴招待状が入っているので、取り出す。おや。招待状の封筒の下に、一万円を下した銀行の封筒があったはずだが。その中に金がある。封筒ごと無くなっている。しばし、引き出しの中や小引き出し三つと本棚を探す。陶子からの贈り物の無印…なんといったか、プラスチックの小物入れの中も探した。見当たらぬ。
台所へ入る。定子が帰ってきた。両手に花材やデパートの袋を抱えている。
「おい、私の留守中に書斎に入ったか?」
「いいえ」
「失くし物をした」
「何をですの」
「いや…平田君の披露宴に、と思っておった金をな、一緒に引き出しに入れていたのだが…」
「お金が無くなっているのですか」
「そうだ」
「いくらです」
「いくらかは、いいじゃないか」
「…よくお探しですか。貴方のお部屋はご自分で掃除するからって立ち入らせないでしょう」
がさがさがさ。花材を包んだ新聞紙を乱暴に開いた。ジャムの空き瓶を流しの上から取る。
派手に水音をさせて、連翹、小手毬草、カーネーションなどを手早く生け込む。
定子の顔つきが険しくなった。
「もう一度よくお探しになったら」
黙って書斎に戻る。憤然として、引き出しの中の書類、定規、筆記類などを出して探す。
狭い家なので定子のきんきんした声がここまで響いてくる。陶子に声高に何か言っているようだ。
しばらくして、陶子が入ってくる。
「お父様、お失くし物が?」
「ああ…誰もここには入るまいから、おかしな事だが」
「いつから無いのです」
「うん…。平田君の招待状が届いたのが…金曜日だったな」
「そうでした。十一時の便で届いていたのですが、夕方お帰りになった時にお渡ししました」
「そうだった。それで散歩がてら、ATMに行って下したのだ。」
「まあ。お祝いなら、三万円ほどですね、小さくはない金額ですわ」
私は返事に窮した。まさか、一万円とは言えぬ。
「その日に招待状と同じ引き出しに入れて、それ以来金を入れた封筒を確かめておらぬのだ」
「もう少しお探しになって、見つからなかったら警察にお届けに?」
「警察だって。引き出しの周辺や部屋は特に荒らされていなかったのだ、外部の人間が侵入した形跡はないのだ」
陶子の顔色が白くなった。
「お父様。どういう意味ですの」
「いや…」
私は陶子の高い鼻梁に大きな目が心持ち、内側に寄ったような気がした。
「お父様。お母様もご機嫌がお悪くなって…何か、家族の誰かをお疑いですの」
「そうは言わないが…」
陶子が黙りこくって書斎机を見つめている。
「いや、いい。お前達には関係の無いことだ。母さんには私から言っておく」
陶子は無言で書斎を出て行った。
後味が悪い。
この日、定子は食事中一言も話さない。恒夫が「お父さん、いくら無くなったんです」とか、しつこく聞くので閉口した。
茉莉絵が「おじいちゃん、ご祝儀袋にさあ、忘れたふりして何も入れないってのはどうよ?」などと馬鹿な事を言う。
「何です、行儀の悪い」と陶子に窘められる。
「ああ、いるらしいよ。そういう人。うちの課の谷川課長のお母さんが亡くなった時に、親戚の誰かが寄越した不祝儀の封筒に何も入ってなかったんだって。まさか、入れ忘れたんでしょう、とも聞けなくて困ったらしいよ」
「ほらね、おじいちゃん、あるんだって、そういうの」
「やめんか。そんな事冗談でも言うな。仕方ないさ。出てこないなら、また別に用立てするまでだ」
定子が鯛の煮付けを半分も残して、「ご馳走さま」と言って自分の茶碗を流しに持っていった。
陶子が茉莉絵を肘でつついて、目は定子の動きを追っている。
筍飯、若布と椎茸の吸い物、トマトと玉ねぎのサラダ。好きな献立だが、食べた気がしない。