障買ふ人の事
今日の紅茶は少々苦い。砂糖を控えているらしい。私は、話があるんだと彼女に切り出した。私が小さな頃からこうしてお茶を出してくれるお姉ちゃん。誰よりも私を安心させてくれる彼女。私が現在何の心配事もなく、何の不満もなくいられるのは紛れもなく彼女のおかげなのである。
だから、しっかり話して、謝らなければならない。
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お姉ちゃんが私の夢に出てくるようになったのは、私が随分と小さな頃であったと記憶している。明確に何時だったかというのは流石に判然としないが、少なくとも小学二年生の時分には既に私の日常のサイクルの中に彼女と会うことが組み込まれていたと思う。
何処か白い場所で、二人でテーブルを囲み、お茶を飲む。私はお姉ちゃんに沢山話しかけるが、お姉ちゃんの方は柔和に笑うばかりで何も言わない。言っているのかも知れないが、起きれば自分が彼女に何を言ったのかさえ覚えていない。しかし、お姉ちゃんと話したという事実はしっかりと記憶されている。不思議なものだった。
私は別段空想家というほど浪漫に溢れた人間ではないし、それは子供の頃も同じだった。そんな私が、空想の人物を作り上げてしまうというのも不思議といえば不思議である。経験不足も甚だしい子供に果たしてそれだけの空想力があるのかというのも問題としてある。まあ、その不思議に関してはある程度解が出ているのだが、しかしそれを認められるほど、私は往生際のいい人間ではない。冷たい論理に同調するには、私は彼女との絆を深め過ぎた。
私は姉が欲しかった。物心ついた頃からこの欲求はあった。友人とその姉が仲睦まじいのを見て、とても羨ましく思ったのを覚えている。私には庇護されたかった。愛されたかった。別に母から愛されていなかったというのではない。ただ、母は子供とのコミュニケーションが苦手な性質があった。堅物であったのである。だから私は素直に母の愛を感じ取ることが出来なかったし、守られているという自覚も持てずにいた。故の姉である。母性を持ち、自分を庇護してくれる存在が欲しかった。一般的な姉というのが果たして弟を庇護するものなのかというのは友人たちの経験談を聞く限りでは、疑問であるが、幼少の私は疑問に思わなかった。それが姉という肉親のあるべき姿なのだと確信していた。
私がお姉ちゃんを作り出したのはそんな理由からだったのかもしれない。
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「『夢買ふ人の事』って話がありましたね」
女ノ都くんは言う。彼は私の経営する喫茶店でアルバイトをしている大学生である。先々月、突然働かせてくれと私の店を訪ねてきた。特に人手に困っているというわけではなかったけれど、あって困るものでもないので雇うことにした。それに、今の時代に直接アルバイトを申し出てくるような学生も珍しいではないか。確かに少しばかり変なところもある女ノ都くんではあるが、真面目過ぎず、それなりに働いてくれるから、随分助かっている。
土曜日の閉店時間、私は女ノ都くんにコーヒーを出して自分の夢の話を彼に聞かせていた。お姉ちゃんの話は謎が多いので話のネタになるのである。
「宇治拾遺集だね。私も大学生の頃、読まされたよ。まあ、読まされただけあって内容は朧げなのだけれど」
「迂闊に夢を話すと取られちゃうよって話です。まあ、僕は店長のお姉さんを取る気はないですから、夢を取るってのはこの際無関係です。僕が『夢買ふ人の事』を挙げた理由は、『自分のことを話す』という点と『取る』という点です」
自分のことを話すというのは判るとしても、取るというのはどういうことだろう。私はお姉ちゃんを誰かに取られたことはないし、お姉ちゃんから何かを奪ったこともない。
女ノ都くんにそれを伝える。
「『取』っているのはお姉さんの方ですよ。店長は取られる側です」
「むむ……どういうこと?」
「ほら、店長って色んなことに大らかでしょう? 昨日だって嫌な客にも全然臆することなく、相手をした後も何事もなかったかのように振る舞ってたじゃないですか。僕にはあんな横暴を許すことは出来ません。まあ、僕の接客経験が浅いから無視出来ないんだって言われたらそれまでなんですけどね。でも、店長って全てが円満な感じがするんですよ。何と言うか、ノンストレスで生きているような。心外かもしれませんが、印象としてはそんな感じです」
まあ確かに言われてみれば、私はあまり苛立ったり、腹を立てたりしない質である。本当にストレスがないのかと言われれば、そんなこともないのだが、確かにストレスに対する耐性は強い方だ。
「そうだね。家庭も円満だし、店の方も順調だ。ストレスもないってわけじゃないが、一晩寝ればほとんど忘れてるよ」
「そこです。店長のお姉さんってのは、店長のストレスを取っているのではないでしょうか。夢の中で話すのは店長だけ。お姉さんは聞き役に徹しているというのはそういうことでは? 夢ってのは脳の整理だと言われますし、店長の場合、そういった形で上手くストレスを消化しているんじゃないですかね」
消化。昇華ではなく消化か。言葉のニュアンス的に、女ノ都くんは消化と言ったのだと思う。
「アニマとか、そんな感じなんじゃないですかね。心理学はよく知りませんけど」
そうなのだとすれば、何だか申し訳ないような気持ちになる。私は自分の心痛をお姉ちゃんに押し付けていることになるのだから。
*
こんな夢を見た。
家内が家の中を歩き回っている。うろうろとうろうろと。しばらくそんな家内の奇行を見守っていると、椅子に座っている息子に妹が出来た。それは齢三十にもなろうかという老齢の猫だった。その光景は私の日常であり、私はそれに嫌気がさしていた。嫌気が頂点に達すると、私の家はぎゅうぎゅうと縮み始めた。そして遂に辺りは白い霧に覆われ、私は直ぐに上下左右を消失した。
霧の中には丸いテーブルと丸い椅子が置いてあった。椅子は二脚。
私が丸い椅子の一脚に腰をかけると、テーブルの向かい側に女性の姿が現れた。
お姉ちゃんだった。
「やあ。こんばんは」
私が挨拶をすると、お姉ちゃんはにっこりと口元を緩ませ、目尻を下げた。同時に卓上に紅茶とスコーンが現れる。お姉ちゃんは何時だってお茶を煎れるのが早い。私も見習いたい限りである。
紅茶に口をつける。苦かった。今日は砂糖を控えめにしているらしい。苦い話をするのには誂え向きの味である。
「話があるんだ」
お姉ちゃんはゆっくりと頷いた。
「あのね、もう――いいから。もう、夢に出て、私の話を聞いてくれる必要はないから。辛い役目を引き受けてくれなくてもいいから。私はお姉ちゃんが大切だから、自分のことは自分でやるよ。ごめんね。今までありがとう」
私は今夜伝えるべきことを伝える。
お姉ちゃんは笑顔のまま、ゆっくりと椅子から立ち上がった。そうして私の横を通り、後ろに周ると、私の頭を優しく撫でてくれた。
瞬間、沢山の夢が私の目の前に現れた。
――私は老婆に追われ、何枚もの障子をくぐり抜けながら逃げている。
――私はブレーキの利かぬ車に乗車しながら慌てふためいている。
――私は魔法少女に金銭を要求され、困惑している。
――私は誰かと戦い、その末に死んでいる。
頭の中には様々な障りが、心痛が、心労が渦巻き、それらがぐるぐると回る。口の中には紅茶のほろ苦さがあり、舌の先でそれを感じ取りながら私は意識を失った。
そうして朝を迎える。