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ひきずり!

 私には見える。彼女が見える。姫崎さんが怒っているのが見える。

 あの河川敷からこちらを見ている姫崎さんが見える。彼女はぼろぼろの体で、だらりと肩の力を抜いてあそこに立っている。ゾンビのようだった。いや、彼女はゾンビだ。死んだはずなのに、あそこにいる。死して尚、私を見ている。彼女は私が憎いに違いない。当たり前だ。私は彼女を見捨てたのだから。


 *



 私が通っている高校はあまり名の通っていない公立高校だ。しかし、かと言って偏差値が低いのかと言われれば、そんなこともない。端的に言って、普通だ。どこまでも普通。平凡な学校だ。そんな高校だから抱えている問題も平凡だ。不登校、苛め、成績不振者の退学。とても平凡だ。しかし、そんな平凡のなんと恐ろしいことか。それは人の一生を破壊するには充分な脅威だ。成績不振は仕方がない。自己責任というやつだ。しかし、不登校は、苛めは、責任の所在が当人にない場合がある。

 姫崎さんに責任はなかった。問題もなかった。教室の隅っこで本を読んでいるだけの彼女に何の罪があろうか。

 姫崎さんは透明だった。しかし、姫川さんは、そうは思わなかったようである。姫崎さんと似た姓を持つ彼女は、姫崎さんが気に入らなかった。話しかけても俯いてしまう彼女が癇に障ったようだった。

 姫川さんは姫崎さんを苛め始めた。最初は嫌味を言ったり、机を小突いたりといった小さなものだった。姫崎さんは耐えていた。しかし、それがよくなかった。私は姫崎さんが、トイレに引きずり込まれていくのを何度か目撃している。段々と苛めはエスカレートしていき、遂には虐待にまで発展していったのだ。私は何も出来なかった。見ていたのに、認識していたのに、何も出来なかった。私だけではない。クラスの皆がそうだった。恐らく、担任だって気付いていたはずだ。気付かないはずがない。姫崎さんは顔に大きな痣を作っていたのだから。その痣が何故出来たものなのか察することが出来ないほど、私は鈍感ではなかったし、クラスの皆もそうであっただろう。彼女は活発に動き回るような女の子ではなかったのだ。偶然出来た痣だなんて、誰がそんな言葉を信じよう。しかし、それでも、誰も助けようとしなかった。異様である。

 学校という空間は治外法権だ。どんな法律も適応されない。全てのルールが有名無実。人を不当に貶めたところで何の裁きも受けない。人を簡単に見捨たところで何の感慨も覚えない。

 私も同じだ。私だって姫崎さんを見捨てた。決定的なまでに見捨てた。決定的だった。本当に。

 姫川さんとその取り巻きは間違いなく悪で主犯だけれど、その次に悪辣なのは、担任教師かこの私だろう。何故といえば、私は姫崎さんが苛めから逃れることの出来るチャンスを不意にした人間だからである。

 ある雨の日の放課後のことである。私はその日の授業で判らなかったところを先生に聞きにいった。何とか問題を理解し、人気のない廊下を歩きながらさあ帰ろうと思った矢先である。悲鳴が聞こえた。何事かと思い、声のした方へと足を向けた。

 そこは男子トイレの前だった。数人の男子生徒と姫川さんの一味、そして彼らに乱暴に腕を掴まれている姫崎さんがそこにはいた。姫崎さんは助けてと叫んだが、直ぐに口を塞がれてしまう。

 私は硬直してしまった。これから何が起きるのか、簡単に想像がついた。

 絶句する私の目と姫崎さんの悲痛な目が交差する。彼女は泣いていた。当たり前だ。女にとって一番恐ろしく、そして一番惨めであることをこれからされようとしているのである。泣いて当然。彼女の目は助けを求めていた。しかし、姫崎さんの視線を追ってきた視線があった。姫川さんの目線だった。彼女は蛇のような笑顔で私を威嚇した。

 ——判ってるよな?

 姫川さんの目はそう言っていた。私は頷くことも、頭を振ることも出来なかった。恐ろしかったのだ。あそこにいるのは人間ではないのだと思った。姫崎さん以外は、みんなみんな、幽霊よりも恐ろしく、悪魔よりも悪虐で、殺人鬼よりも無慈悲な、この世のものではない何かに見えた。

 姫崎さんが呻く。呻き声が癇に障ったのか、姫川さんが殴る。すっかり諦め切ってしまった姫崎さんは、成す術なく男子トイレへと引き摺られていった。

 ズルズルと、ズルズルと。

 このとき、私は一目散に職員室へ走るべきだった。しかし、そうはしなかった。また見て見ぬ振りをした。あまりに怖かった。幽霊よりも不気味で、悪魔よりも暴虐で、殺人鬼よりも冷酷な、あの一個の悪意の集団が。

 もし私が職員室へ駆け込んだなら、間違いなく問題になっていただろう。問題に出来たであろう。

 自分で言うのもなんだが、私は教師ウケがいい。真面目だけが取り柄であるから、そんな私の話を先生方は根拠のない嘘であるとはしなかっただろう。少なくともトイレを調べるくらいはしてくれたはずだ。簡単なことだった。しかし、私は過剰に恐れていた。もしかしたら、あの悪意の集団は何か謀略をめぐらせて、私を貶めるかもしれない。そんな恐怖があった。だから、項垂れて、そのまま帰路についた。私は助けられたかもしれない人間を見捨てたのだ。


 *



 ゴールデンウィークが明けてしばらくすると、姫崎さんは学校に来なくなった。当たり前だった。あんなことがあって、学校に来れる方がどうかしている。いや、姫崎さんはもうどうにかなっているのかもしれない。どうにかなってしまったからこそ学校に来ないのかもしれない。

 それが確信出来たときにはもう何もかもが遅かった。姫崎さんはどうにかなってしまった。学校の近くの河川敷で、溺死体となった姫崎さんが発見されたのが、六月の初め頃だったと記憶している。間違いなく自殺だった。皆が確信していた。そして皆が後悔していた。姫崎さんが亡くなったと伝えられたときの教室の雰囲気は尋常ならざるものだった。教室全体が怖気に包まれていた。

 泣く者はいなかった。あのクラスの中で、姫崎さんの死を悼む資格のある人物など存在しなかったのだから当然だ。クラス全員一致団結し、ただ黙って姫崎さんの死を飲み込んだだけだった。

 誰も泣かなかった。誰も泣かなかったが、笑っている者は存在した。姫川さんだった。私は見逃さなかった。あの魔女のような女が、にやりと笑う瞬間を。姫崎さんの死が告げられた一瞬の間、私はもしかしたら姫川さんも後悔しているかもしれないと思い、彼女の席へと目をやったのだ。そうしたら見えたのだ。人の死を、あまりに悲惨な死を、喜んでいる者が見えたのだ。

 もう駄目だった。私は姫川さんを人間として見れない。本で読んだどんな殺人鬼よりも彼女は恐ろしかった。鬼どころではない。あんなのは存在してはいけない存在だったんだ。産まれてきたのが何かの間違いだったんだと本気でそう思った。

 そうして、そんなお伽噺にも語られぬような恐ろしい存在は、あっという間にクラスから姿を消した。六月六日、姫川静香の遺体が、学校の近くの河川敷で発見された。溺死体ではなかったらしい。数百メートルに渡って引き摺られたのだとか。はっきりしたことは判らない。というのも私も人づてでそれを聞いたから確証が持てないのだ。先生は多くを語りたがらなかった。故に皆はそれを、普通じゃない死に方をしたのだと受け取ったのだ。姫川さんの死は噂になって流れ始めた。

 ——橋の上でトラックに引き摺られて、何かの拍子で河川敷に投げ出されたらしい。

 ——河川敷に住むホームレスに、ひき肉にされたらしい。


 ——姫崎が恨みを晴らす為に、姫川を引き摺ったらしい。


 もう何が何やらといった感じだ。私はトラック説を信じていた。これが一番説明がつきそうだからだ。大体、姫崎さんに失礼だとは思わないのだろうか。確かにタイミング的には担任教師が体調不良で寝込むほどに悪いが、だからと言って故人を蔑ろにしていいはずがない。私は憤りを感じたが、それも何だか虚しくなった。彼女を見捨てた私が何を善人ぶっているのだろうと思った。


 *



「ははん。なるほど。だから君には見えるのか」

 男はそう言って頭の悪そうな笑みを浮かべた。

 一体何が面白いのだろうか。今の話に笑いどころなど皆無であったというのに。

「でも、僕には何にも見えないなあ。増水寸前の川の流れしかこの目には映らないよ」

 男には姫崎さんが見えていない。ならば何故私の目には映るのだ。あの化物は、何故私の目にだけ映るのだ。

「まあしかしだ——僕はそれが君の幻覚なんだとは思わないよ。取るに足らない罪悪感が原因で幽霊に出逢ってしまうというのは稀にではあるが、実際に起こることさ」

 幽霊。馬鹿馬鹿しい。とは思うものの、確かに私には見えているのだ。そう易々と否定出来たものでもない。

「私には——見える」

「見える? 違うよ。出逢ったんだよ」

 男は私を小馬鹿にするように笑った。

「幽霊の実在は証明出来ない。不在もまた証明不可能だ。だからいるいないの問題ではない。また、見える見えないという問題でもない。幽霊を偶然見たところで、それは枯れ尾花であることがほとんどだからだ。だから、出逢うか否かなんだよ。君は出逢ったんだ。だから認識出来る。僕は出逢っていない。だから認識出来ない」

 それこそ馬鹿馬鹿しい。実在しなければ出逢うことは出来ないし、見えなければ認識出来ないのだから。

「君は真面目だねえ。今時三つ編み眼鏡の女子高生なんて絶滅危惧種だよ。そして、幽霊に出逢ってしまう人間もまた、絶滅危惧種だ。現代人はなかなか妖怪や幽霊と出逢えない。社会のあり方が全体主義から個人主義に移行してしまったからね。通時的な決定システムは人間社会のことを考えて物事を決めるものだった。しかし、共時的な決定システムは個人の意見を尊重して物事を決める。例えば、昔は家の存続に重きを置いて職業を決定していたけれど、今は自由だろ? そういうことさ。こんなんだから人は妖怪や幽霊が空想上のものだと気付いてしまったんだね。全が一だとは思わないから、他人の体験談を鵜呑みにしない。そりゃあ幽霊も信じられなくなる」

 だから——

「だから何ですか」

「だから君は真面目なんだということさ。だから君は幽霊と出逢えたということさ。つまり、真面目な人間は幽霊と出逢えるということさ。君は学級という団体の中にいて、全体を慮ることの出来る人間だ。だからクラスメイトであろうと見捨てることが出来たし、それに対して罪悪感を抱き、全を取るべきであったか個を取るべきであったかで悶々とすることが出来る。君は皆の意見に耳を貸す。そして苛めっ子の死因をトラックによる事故死とした。しかし、頭の隅っこの方では、苛められっ子の幽霊説のことも考えてしまう。否定仕切れていない。だから出逢ってしまう。いやはや真面目も真面目だ。感服しちゃうね。普通は苛められていた子のことなんて忘れちゃうし、自分とは関係ないと切り捨てることが出来るもんだよ。加害者じゃないんだしね。僕だって、昔苛められてたヤツのことなんてどうも思っちゃいない」

 見捨てておきながら、それに対して何も感じないとは。非人間的。同じ人間だとは思えない。

「薄情ですね」

「そうでもないよ。いや、そうなのかもしれないけれど、ならば薄情というのは案外現代においては普通の、全く普通の概念であるのかも知れないね」

 普通。普通でないのが私。絶滅危惧種の人間。

 姫崎さんは私を見ている。私だけを見ている。隣にいるこの男には一瞥もくれない。

 私が認識されている。普通でない私が認識されている。

 私も彼女を認識している。

「ま、だからさ、気にするだけ損だよ。さっさと帰って趣味にでも打ち込んだ方が建設的さ。こんな所でずっと雨に打たれているのも馬鹿馬鹿しいだろう」

 あれを目にして帰れというのか。あれに見られて帰れというのか。

 男は姫崎さんから目を離さない私を見て、見透かしたようににやりと笑ってみせた。

「大人しく帰る気はないのか。じゃあさ、君はどうしたいの?」

 どう。何をどうしたい。私は一体全体どうしたいのだというのだろう。姫崎さんは死んでいて、何をどうしたところで元には戻らない。後悔を引き摺ることに何の意味があろうか。

 しかし、それでも私は何かをしたかった。何かをどうにかしたかった。この後悔をどうにかしたかった。

「謝りたい」

 ぽつりと言葉が溢れた。

 謝りたい。助ける義務を放棄したことを謝りたい。それが筋だと思うから。あれが幻影であっても、そこにあるのなら、私はあれと接するべきである。

 ——出逢っているのだから。

「やっぱりね。そう言うと思っていたよ。流石は真面目ちゃん。無駄無駄。やめときなよ。謝って済むなら警察はいらないんだ。現実に警察沙汰になってしまったんだから謝ったところで何にもならない。取り返しはつかない」

 私は男を無視して河川敷へ続く階段へと足を向ける。

「はは。無視かあ。ま、君がそうしたいならそうすればいいさ。気をつけてね。君は今から逆鱗に触れようとしてるんだから」

 そうなのかもしれない。でも私は謝らなければならないと思うのだ。全てのことに意味が隠されているのだとしたら、この出逢いの意味は、彼女に謝罪することだと思うのだ。

 階段を降り切って河川敷へと足をつけた。川はもの凄い音をたてながら、竜のうねりを体現している。

 しかし、そんな竜の胴も、彼女を目の前にすれば霞んで見える。彼女は、姫崎さんは、怒っていた。爛れた顔から怨念を感じる。

 ジッと私を認識する姫崎さん。ジッと動くことが出来ずにいる私。

 どれだけの時間が流れただろう。一分、十分、一時間、一日、一ヶ月、一年、一生。きっとそれだけの時間が流れたに違いなかった。言い切る自信はないけれど、事実だけはそこにあるように、きっと違いなかった。

 私はその時間の中で、必死に生きていた。頑張っていた。たった一言の為に際限のない努力をしていた。そうして、やっと私の口は、舌は、喉は、機能し始める。

「ごめ——」

 言いかけたとき、景色が回った。川からその向こうに見える私の通う学校、そして空の順に私の視界が強制的に回された。

 背中に衝撃が走る。一瞬呼吸が止まった。直ぐに呼吸は戻るが、驚愕は続く。

 ——何が起こったのだ。

 思考をまとめながら首を上げると、姫崎さんが目の前に立っていた。私の左足を持ち上げながら、そこに立っていた。自分は最初からそこにいたのだと言わんばかりに、当たり前のように、彼女は私を見ていた。

 そして、今まで動きを見せなかった彼女が、唐突に動き始めた。ぐるりと体を捻り、私の左足を持ったままに走り出した。

 当然私は引き摺られる。砂利だらけの地面は私の制服を削る。抵抗出来ない。姫崎さんは意味不明の叫び声をあげ、怒りのままに走っていた。

 制服に続いて肉が削られる。きっと姫川さんは姫崎さんに引き摺られて死んだのだろう。そうして私も同じように死ぬ。

 いや、違う。姫川さんはやはりトラックに引き摺られたのだ。あの女が、反省などするはずがない。彼女が姫崎さんの死に対して罪悪感を覚えていたなんて変事はあり得ない。だから姫川さんは姫崎さんを認識出来ないはずなのだ。きっと、姫川さんが死んだのは、ただの必然だったに違いない。死んで然るべきであったから死んだだけ。

 私は姫川さんとは違う。こうして報いを受けて死ぬことが出来る。

 がりがりがりと、私の体は削られる。霞む視界をしっかり凝らせば、辛うじて姫崎さんの姿を捉えることが出来る。

 彼女は泣いていた。叫び声をあげながら泣いていた。泣きながら私を引き摺っていた。

 轟音の中、体を打ち付けている私が、ごめんなさいと口に出来たのは奇跡的だったかもしれない。

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