表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

せいこ

 羽音がする。バタバタと、バタバタと。パノラマに重なって飛竜がうっとおしく通り過ぎた。

 バタバタと、バタバタと。

 バタバタと、バタバタと。

 この田舎の風景は彼の縄張りに違いない。私は彼の縄張りに足を踏み入れたのだ。ここまで私を苦しめ続けた彼である。ただで帰してくれるとは考え難い。しかし、それも受け入れなければならぬ。受け入れなければ痛みさえ感ずることは叶わないだろう。

 地元に戻ってからというもの、この地獄は延々と続いている。

 バタバタと、バタバタと、羽音が聞こえる。家の中から、果てはこの田園風景の中から。彼の縄張りとする場所からは際限なく聞こえてくる。間近に迫ったヘリコプターのプロペラ音のようだ。

 バタバタ、バタバタ、バタバタ。


 *



 季節は初秋であった。夏休みもすっかり明け、私たちは少しの名残惜しさに後ろ髪を引かれながら学校という枠の中へと戻っていた。

 ある日の放課後、私は友人のよっちゃんを引き連れて、河原へ虫取りへ繰り出した。スタンダードなサイズの、オーソドックスな形をした虫かごを肩から下げ、子供には少し大きいかと思われるほどの虫取り網を携えて。

 よっちゃんは言う。

「俺たちだけで河原に行って、後で怒られないかなあ」

 私たちの通う小学校は、子供だけで河原や山の中へ入るのを禁じていた。私たちの住んでいたのは、周りが山で囲まれた、所謂盆地というヤツだが、そういった地域に住む者は自然の怖さというものをよく心得ているのだ。だから、子供を安易にそういう場所へ近付けないようにしていた。

「大丈夫だって。もし怒られたって死ぬわけじゃないだろ?」

 私はなかなかに太い神経をした子供であった。よっちゃんは心配性で、何時も私やスクールカーストの上位にいるような友人に引っ付いているような性格をしていた。とは言っても、今思えば、上位ばかりでなく、下位のコミュニティにも顔を出していたことも確かに事実であったと思い出される。彼のクラス内での立ち回りは非常に器用なものであった。彼はクラスの中に異物を作らぬよう、様々なコミュニティに身を置き、時にその集団と別の集団の橋渡しさえ行っていたのだ。彼は優しい子供だった。

 私たちは河原へと到着した。河原は水場特有の清廉な匂いがした。私欲とは全く無縁であるような気がした。それほどに田舎の川というのは美しいのである。緑と透明に彩られた聖域だ。

「お、トンボじゃん。捕まえようぜ」

「おう」

 私とよっちゃんはしばしトンボ狩りに精を出した。夏であればカブトムシやクワガタ、セミなんかが捕れるのであるが、その時はほとんど秋に入り始めた時期であった。トンボが盛んな季節であったのだ。トンボだけならば田んぼの近くへ行けば大量に捕れるが、私たちは聖域の雰囲気を楽しみたかったし、河原でしか捕れないようなトンボも少なくないのである。

 しばらく小物を捕っていると、川の上流の方から大きな影が規則的な動きでこちらに向かってくるのが見えた。

 オニヤンマだった。

「おいよっちゃん、見てみろよ」

「大っきいねえ」

 よっちゃんは目を丸くして竜のように厳ついそれを見た。

「優ちゃん、捕るの?」

「どっちが先に捕れるか勝負しようぜ」

 きっとよっちゃんも捕りたいだろう。そういう思いを察して、私は勝負というフェアを持ち込んだ。

 よっちゃんは、うんやろうと嬉しそうに目を輝かせて頷いた。

 私はじりとオニヤンマに近付いた。オニヤンマはそんな私に気付いたのか、川の方へと旋回してしまった。あっけない。これはよっちゃんとの勝負でもあるが、オニヤンマとの勝負でもあったのだ。私は何だかとてつもない敗北感に襲われた。

 オニヤンマは私と距離をとった後、進行方向を戻して、今度はよっちゃんのいる場所(私のいた場所より下流側)へと近付いていった。なんて無警戒なヤツだろうと私は内心馬鹿にしたような心持ちであった。

 しかし、オニヤンマはよっちゃんに近付くなり、猛スピードで向きを変え、山道へと消えてしまった。

「あーあ。駄目だったな」

「大丈夫だよ。オニヤンマは同じところをぐるぐる周るんだ。だから待ってれば戻ってくるよ」

 よっちゃんはまだ諦めていないようだった。私も、それならばともう一度虫取り網を構えた。

 しばらくすると、確かにオニヤンマは戻ってきた。私たちは気付かれぬよう、後ろにある草陰の中に隠れた。

 オニヤンマはすいすいと気持ちよさそうに河原を飛んでいる。これは油断と受け取ってもよいと考えた私は、草の中から飛び出し、網を振った。

 あっさりと、あまりにもあっさりと、オニヤンマは網の中に収まった。

 網を地面につけ、逃がさないよう注意を払う。網の上から羽を掴むと、他のトンボとは違う、力強い格好よさが指の先から伝わってくるようであった。

「よっちゃんやったぞ!」

「流石だね、優ちゃん」

 よっちゃんが笑顔を見せる。悔しそうな表情は欠片も見せなかった。本当にいいヤツだと私は思った。

 オニヤンマを素早く虫かごに仕舞う。虫かごの中はトンボの坩堝だった。沢山のカワトンボやハグロトンボ、そしてそこにふてぶてしく羽を落ち着かせている一匹のオニヤンマ。してやったりだ。私は勝利したのである。

 私たちはその後もトンボ狩りを続けた。そうしてかごの中身が一杯になった頃に日が傾いてきた。

「そろそろ帰ろうよ」

 よっちゃんが提案した。私も満足のいく成果を得られたので、文句を言うことなくそれに同意した。

 よっちゃんは最後に虫かごを開け放ち、捕まえたトンボたちを逃がした。

「何で逃がしちゃうんだ?」

「だって可哀想じゃないか。ぎゅうぎゅう詰めじゃあ息も出来ないよ」

 彼は何時だって、誰にだって、何にだって優しい。虫を捕まえるということ自体に私欲が含まれていると言われてしまえばそれまでだが、よっちゃんは命をとらない。それは子供なりの優しさと言って差し支えはないのだと思う。

「優ちゃんは?」

「俺は持って帰るよ。折角捕まえたのに、勿体ないじゃん」

 私は優しくなかった。虫の命を下等であると考えていた。当時の私にはそんな自覚はなかったが、しかしこのときの私の行動は、そういう考えが無意識の中に染み付いていたが故のものなのだと思う。なんて罪深い私。

 よっちゃんは少し不満そうに眉をひそめたが、すぐに平生の笑顔に表情を戻して、じゃあ帰ろうかと言った。彼は波風を立てない。他人の考えを易々とは否定しない。それが罪深いことであってもだ。

 私とよっちゃんは水田が周りを覆っている通りまで出て、そこで別れた。よっちゃんは駅のある方に家があったのだと記憶している。私の家は近くに竹林のある、村(正確には村ではないのだが、ほとんど山に囲まれている為、私はここを村であると認識している)の端に建っている。

 水田の脇を歩いていると、沢山のアキアカネが思い思いに羽を動かしていた。風景は夕日も相まって、目が痛くなるほどの赤に包まれていた。虫かごの中のトンボたちはガサガサと、アキアカネたちを羨むように蠢いていた。

 家に到着し、引き違い戸を開ける。

「ただいまー」

「お帰りー。わっ、何それ」

 台所から出てきた母親がギョッとした表情で虫かごを指差した。

「トンボだよ」

「気持ち悪いわねえ。逃がしなさいよ」

「やーだね。苦労して捕まえたんだから」

 私はそう言って自室へと引っ込んだ。

 虫かごを置き、手を洗いに洗面所まで行く。そうして手を洗って、夕飯だ。私の一日は終わったのである。私の一日は。しかし彼らの一日はどうだったろう。


 *



 翌朝、目を覚ました私は勉強机に置かれた虫かごを見て唖然とした。

 そこには地獄があった。地獄塗れであった。虫かごの中のトンボたちは死んでいた。しかも、ただ死んでいたのではない。

 ――共食いである。

 バラバラになった肢体。死体。死骸。ちぎられた尾からは筋肉の繊維が見えている。

 その死屍累々たる世界の中で、呼吸をしている者が一匹。

 オニヤンマである。最も大きな体躯を持ち、最も強い顎を持つ、トンボの大将。彼が負けるはずがなかった。しかし、そんな彼も満身創痍であったことに間違いはない。所々体のパーツが欠けている。羽も破れていて、相当に苦戦したことは火を見るより明らかだった。

 虫の息。こんなくだらない、駄洒落みたいな言葉遊びが頭を過ったが、全然笑えなかった。

 私は自分がとんでもないことをしてしまった気がした。よっちゃんの言葉が、今更ながら耳に痛かった。

 ――ぎゅうぎゅう詰めじゃ可哀想だから。

 彼は物事をきちんと順序立てて考えることの出来る人物だった。だから間違いがないように、トンボを逃がしたのである。それに比べて、私の何と愚かなことか。まるで救いようがない。

 私は虫かごを持って自室を飛び出すと、庭にトンボたちの遺体を散撒いた。そうして、小さな穴を掘り、そこに死んでしまったトンボを埋葬した。

 オニヤンマはどうしよう。

 私は逡巡した。息も絶え絶えの彼。いっそ一思いに殺してしまおうかと考えたが、しかしそれは憚られた。何故なら彼は死力を尽くして戦った末に生き残った者だからだ。私はオニヤンマの羽を掴み、竹林の中へと入った。そうして、手近な竹のその枝の上にオニヤンマを乗せた。

 ぐらぐらと不安定に揺れるオニヤンマ。罪悪感で潰れてしまいそうだった。私は逃げるようにして家へと戻って行った。否、逃げるようにして、などというのは言い訳だ。私は逃げたのだ。生き物の命を不当に、そうして残酷に奪ってしまったという罪悪から、逃げ出したのである。そのとき、私は自分を呪わずにはいられなかった。


 *



 しかし、そんな罪悪も、その罪悪から逃げ出したことも、私には何の意味ももたらさなかった。私は日常を感ずることによってそれらを着々と忘れていった。年月を経て、中学生になり、高校生を経験し、大学生を謳歌していた。大学は県外のものを選んだ。理由は簡単だ。この田舎町で一生を過ごすことに、抵抗を感じたからである。将来腰を落ち着ける場所はここであっても構わない。しかし、外の世界を知らずにいるのは嫌だった。だから私はここを出た。

 そうして大学二年生の夏休み、私は郷里に戻った。と言うのも、同サークル、他学部の友人であるから、妙な話を聞かされたからである。

 妙な話とは言っても女ノ都からしてみれば世間話以外の何でもない。彼は文化人類学科に所属しているのだ。だから経済学部の私が、彼の専攻している学科の話を聞けば、妙だと思うのは当然のことなのである。

 女ノ都はこう言った。

「赤間くん、蠱毒ってのを知っているかい?」

 女ノ都は続ける。

「虫や動物なんかを一カ所に集めて共食いをさせ、最後に残った一匹を使い魔として差し向ける呪いなのだけれど、いやあ、こうして口にすれば恐ろしい呪いでも、元気がよくて頭の悪い子供なら、図らずも蠱毒の舞台を作り上げてしまうことくらいは現実としてあるんじゃないのかなあ」

 女ノ都はからからと笑った。私は笑えなかった。当然である。私は元気がよくて頭の悪い子供であった人間なのだから。

「子供ってのは残酷だよ。無垢とは、無邪気とは、罪となり得るよ。罪悪感を覚えたらの話だけれどね」

「どういうことだよ」

「おんやあ、剣呑だねえ。別に君のことを言っているわけじゃないのに、何でそんな顔をするのかな?」

「いや……別に」

 私はどうやら剣呑な表情をしていたらしい。

「心当たりがあるんだろうか? まああれだよ、罪というのは自覚しなければ購いようがない。じゃあ何時、人は罪を自覚するんだろう?」

 女ノ都は頭の悪そうな笑みを浮かべながら私に問うた。

「罪悪感か」

「その通り。罪悪感を覚えたときに人は罪を自覚する。そこから贖罪ゲームがスタートするのさ。人を殺した人間だって、罪悪感が本人になければ、それは罪として機能しない。幾ら法律によって裁かれ、刑罰を受けたところで、本人は何に対して負い目を感じなければならないのか判らないのだからね。まあ、人を殺して罪悪感を覚えない人間なんていないから、この例えも大概だけれど。しかし、逆ならばあり得る。子供の頃に犯した小さな、取るに足らない愚行。それを自覚して罪悪感を覚えたなら、それは罪として成立するのさ」

 女ノ都の言葉は私の耳の奥をズタズタにした。痛かった。

 私がこの地に脚を運んだのは贖罪の為だった。あのとき私が惨殺したトンボたちに対する慰霊の為であった。女ノ都の妙な話が、私をこの地まで誘った。

 そうして、帰って家の敷居を跨いでみれば、この霊障である。

 バタバタと、バタバタと、何処からともなく羽音が聞こえる。家の何処にいても、家の敷地から出ても。しかし、家から少し離れたところにあるバス停を通り過ぎると、これがぴたりと止む。どうやら羽音はオニヤンマが発しているものらしい。彼は私の家の隣にある竹林を中心にして、テリトリーを形成しているようだった。なるほど蠱毒。呪いは私に向いたらしい。罪悪感で己を呪ったこの私に。

 それならば、私は報いを受けるしかないのだろう。逃れる方法は判っていた。この家から離れればよいのだ。しかし、帰ってきた目的が目的だけに、逃げるというのも憚られた。それに、きっと命までは取られないだろうと思うのだ。あれは私が私に差し向けたものなのだから。そこには自分に対する甘さというものが含まれているだろうと、私はそう推測している。ならば甘んじて受け入れるのが、彼らに対する贖罪の一つとして、成り立つのではないだろうか。

 私は縁側に座りながらそんなことを考えていた。

 羽音は大きくなる。バタバタと、バタバタと。バタバタと、バタバタと。冷や汗が垂れる。羽音はどんどん近付いてくる。

 逃げ出したい。しかし、私の体は動かない。

 バタバタバタバタバタバタバタバタ。

 耳をつんざく羽音がぴたりと止んだ。

 俯いている私の前に、大きな影が落ちている。

 私はしばらく固まっていた。そうしてようやく動くようになった口を使い、ごめんなさいと謝罪した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ