我心(ガシン)の異力(イリョク)
塾からランニングをして帰るのが柘榴の日課。陸上の名門校に行くために、家から遠い学校を選んだ柘榴は、そのために寮に住んでいる。塾からの距離は4キロちょっと。柘榴には丁度よいランニングコースである。
いつもと同じ大通りを過ぎ、いつもと同じ細い道に入った。そこに、いつもとは違う出来事が待っていようとはその時は知る由もなかった。
「おい!!おめーさん、ぶつかっといて何様のつもりだー…ヒック」酔ったような男の声が柘榴の向かう方でした。顔を上げる。2人の人物が柘榴の視界を捉えた。
「すんません」反省はするつもりもないが、謝ってるんだからいいだろうというような感情のない声。間違いない。この柘榴の心臓を高鳴らせるその声は紛れもなく我心、その人だった。
「それでいいと思ってんのかー?ちょっと来てもらおーか」そう言って男は我心の手首を鷲掴みした。
「おい…」今度の‘おい’は、我心のものだった。その途端、男は地面に倒れ伏した。柘榴は目を見開き硬直した。我心が颯爽と柘榴を見やる。
「見てた?」
「…」柘榴は何も答えない。我心はやれやれというようにため息をつく。
「大丈夫、死んでないだろうし」
「どういうことだよ?」柘榴の声は怒りと恐怖で震えていた。
「言わないといけないわけ?」
「知る権利はあるだろ」柘榴は、我心に歩みより、3メートルくらいのところで立ち止まった。我心は笑みを突然止め、強い視線を向ける。
「…あんたも信じないと思うよ。これは、俺の全てが有利なことに関係してる」
「有利?」
「そっ。知能も才能も、全てにおいて。その能力がある代わりに、俺にはあるものが欠けた。人生で誰でも手にしたいと思うもの…」言葉を止める。何だと思う?というように目で問いかけた。
「何?」何かを呑みこむように柘榴の喉が上下した。
「友情さ。生ある者に死を。その言葉通り、俺は孤独の中に生まれた」
「何が言いたい?」柘榴の言葉に、我心は道の端に生えている花を目で示した。
「それを採って俺に渡してみたら分かるんじゃない?」試すような口振りに、柘榴はイラついた。植物をおもむろに千切り、我心に差し出す。その手の下に我心は手を広げ花を落とすように言った。月に照らされひらりと舞い落ちる。その瞬間、我心の手のひらに触れた花は、一瞬で朽ち果てた。柘榴は数歩後退る。
「信じられないだろ?俺の手に触れた奴は…その名の通り潰される」そう言って、クスクス笑った。
「人を殺して何が楽しい?」柘榴の声からは動揺が感じられた。いつもの平然さを保てずに、瞳孔を開いたまま、目の前に倒れている男を見る。
「だから殺してないって。何でもかんでも死ぬわけじゃない。触れた奴は死ぬなんて言ってないし。潰すってのは死ぬとは=(イコール)じゃない。それはあんたがよく知ってんじゃないの?」つまり我心は、“あんたのプライドは潰したけど、あんた自身は殺してないでしょ?”と言いたいわけだ。物騒にもほどがある。
「俺は、俺自身だけじゃない。プライドも殺されてない」
「ふーん。それで?」
「いつかお前に勝つ。その意志が潰されてない限り、お前は潰したとか言える立場じゃない」
「宣戦布告?」そしてまたクスクス笑う。
「さっきの話、子供じゃ危ういけど、大人じゃそうそう死なないってことだから」
「なんか殺したいって言ってるように聞こえる」
「そう見える?」試すような口振りだ。
「殺したことあんのか?」額に汗が滲む。
「まさかね。これでも一度も殺人はしてない。この男も直目が覚めると思うよ」そしていつもの人を馬鹿にしたような笑みを向ける。
「信じられない…」
「別に信じなくてもいいけど、他の人に言うようなら、あんた…潰すよ?今度はコテンパンに」
「すぐそう言う…お前にとって、友達って何なんだ?」
「友達?あんた、俺のこと友達って思ってんの?」
「それこそまさかだろ」
「言うと思った。友達ねー…俺は友達って存在を嫌悪してる。その言葉は、とうの昔に記憶のゴミ箱にでも捨てたかな」そういう我心の背後にはブラックホールのような深いオーラが漂っている気がした。顔はいつものように、にたりと笑っているのだが。
「お前に寂しさは無いってことか」
「寂しさ?それは持ってる物を手放した時に感じる…俺には元々無いんだからさ」そう言う顔がいつもの我心ではなく、影がかかっているように見えた。それは柘榴の見間違えではないだろう。
(お前、本当は友達を不幸にさせたことがあるんだろ?)と心の中で問う。その言葉がどんなものかを知っている時点で、我心に寂しさという感情があるのを察した。
「その力って無くすことができないんだろ?逆に伝染はすんのか?」
「心配しなくても、普通に話してるだけではありえない。まあ、しようと思えばいつだってしてあげる」そして嫌みっぽく笑う。初めて見た人だって、サディストさが分かるような笑みだろう。
「俺にもその力をわけてくれないか」
「は?」我心は突然笑みを硬直させた。
「ムカつくんだ、お前を見てると。俺には陸上しかない。なのにお前は陸上さえ奪い取った。苦労もしないでいとも簡単に」
「この力を持ったところで俺は殺せないよ?」
「んなこと思わねーよ。勘違いすんな。ただ陸上では負けたくない。それだけだ」柘榴は珍しく荒げた声を抑え、元の口調に戻す。
「やめとけば?俺と同じ力を持ったところで、あんたに得なんてない。確かにこのままじゃ俺に陸上では勝てないだろうけど、そんな危険犯すくらいなら、俺が陸上をやめる」
「そんなんじゃない…そんなことしても俺はお前に勝ったことにはならない」
「じゃあ、あんたはただ俺に勝ちたいだけ?」少しの間沈黙が広がる。今宵も煌々(きらきら)と月が照らす。寒さと我心の言葉に冷や汗が伝う。何といえばいいのか言葉が浮かばない。それを見かねて、我心が先に話し始めた。
「…さっきのは冗談。この力をコピーするなんてできるわけない」
「嘘を言っても無駄だ」我心が溜め息をつく。俺って嘘つくのに慣れてないのかな?と苦笑する。
「桐生。俺はあんた…だけじゃないな。俺は他人に同じ苦痛は味わわせない」
「そんなこと言っといて、実際は周りの人をみんな傷つけてるじゃないか」
「それは俺に近づかせないため…」
「人の心を傷つけといてよくもそんなこと言えるな」
「俺は反対してるんだけど」
「流石名前の通り、自分の心を貫き通そうとするのか」我が心。こんなことを貫き通すためにお前の親はそう名付けたんじゃないだろう。
「1つ言っとくけど、人のためを思って反対したのは物心ついてからこれが初めて。だから言う。やめろ」強い想いをこめた瞳が柘榴を捉える。こうしているだけで喰われそうな勢いだ。しかし柘榴も今までのように怯えなかった。俺にも、俺の強い意志がある。一歩も引くわけにはいけないと。
「…さっきの質問答えてなかったな。“俺に勝ちたいだけなのか”ってヤツ。俺は確かに、お前にムカついてる。だけどそれだけじゃない。更なる上を目指したいんだ。だから、こんなところでお前のような陸上に甘い奴なんかに負けたくない。それだけだ」もう何を言っても無駄だと我心は悟った。久しぶりに負けた。しかも言い争いなんかで。我心は柘榴を視界から外して言った。
「そのために何かを失っても?」
「ああ」その言葉を聞くと、我心は一気に間合いを詰めた。
「あんたも底のない闇に溺れな」その瞬間、視界が真っ暗になった。我心は前から来たはずなのに、後ろから強い衝撃を感じる。何もかもが逆さまになったように感覚がなくなった。息苦しい。乾いた土が水を吸い込むように、意識が遠のいていった。