【物語】老子に学んだ孫子、そんな伝説の紹介
空の彼方、雲海の上。
古書『老子』の付喪神・ラオズーは、愛牛の背に揺られながら、のんびりとあくび、
「ふぁぁ……。平和だなぁ。まさに無為自然。最高じゃん」
さわやかな風が、彼女の長い緑の髪をなでていく。
「ん? 風の噂、か……。へぇ、スンズーったら、信正の孫娘のお世話係になったんだ。意外じゃん。まぁ、あたしも師匠筋だし? 遠くから応援してやろうかな」
かつて『孫子』の作者である孫武は、老子に教えを請い、その思想を兵法に取り入れたという伝説がある。 それでラオズーは、スンズーの師匠を自認していた。
「そういや孫娘……勇気ちゃんだっけ、どんな子だったかな? どれどれ、スペックを確認……と」
ラオズーが手でものをもつようなそぶりをとると、手もとに光があらわれ、そのなかからタブレットが浮かび上がってくる。実体化したところで手に取り、ピッと画面を操作した。
画面に『FILE:武田勇気(特性カルテ)』が表示される。しかし、そこに並ぶパラメーターを見たラオズーは、眉をひそめた。
「……おや。こりゃまた、生きるのが大変そうなステータスだねぇ……」
『学習性無力感』
『自己肯定感情の低下』
その数値は、勇気の置かれている過酷な環境を物語っていた。ラオズーは端末を通じ、勇気の日常をのぞきこんでみた。
――そこには、周囲との「ズレ」に翻弄される少女の姿があった。
臨機応変の苦手なASD。人の気持ちを察するのも苦手なので、人づきあいも下手。
じっとしているのが苦手なADHD。すぐに気が散って勉強も進まないし、落ち着きがないって家でも学校でも怒られる。
勉強がとても苦手LD。勇気の場合、特に数学が苦手。一所懸命に予習・復習に励んでいるのだけれど、まったくといっていいほどわからない。
たまに発達障害の特性にはそれぞれ長所があるっていう人間もいるが、だったらその人間は発達障害の特性をもちたいと思うのだろうか?
(あたしだったら、いくら長所があるからと言われても、発達障害になりたいっていう人間はいないと思うけどな。だって、生きるのが大変じゃんか)
実際、勇気は一日、定型発達者の世界である学校ですごくだけで、脳が疲労困憊し、ぐったりとベッドに横になってしまう。活動限界だ。
それなのに、母はあきれたようすで、怒り、
「なまけてないで勉強しなさい」
ついでに、優等生の弟からは、
「おまえみたいなダメ人間が姉だなんて恥ずかしい」
なにかにつけ、さげすまれていた。
そんな勇気を見かねて、母はいつも言っていた。
「勇気だって、がんばればできるから。弟の勇太だって、がんばってるでしょ。だから、あなたもきっとできるわ」
しかし、これは「あなたができないのは努力が足りないからだ」と言っているようなもので、実に残酷な話だ。
発達障害は脳の構造から生じるものだ。いくら努力したところで、定型発達者にはなれない。
そうとは知らない勇気は、健気にも、
「ごめんなさい、おかあさん。ごめんね、勇太。わたし、がんばるから」
ひとり泣きながら、無駄な努力をえんえんと続けるのだ。それはもはや苦行だ。
そして、こんなに苦労しても、やはりできないものはできない。ゆえに勇気は自信を失っていく。
いわゆる過剰適応による学習性無力感と、自己肯定感情の浸食ってやつだ。
定型発達の人間たちからすれば、勇気はさしずめ「役に立たない曲がった木」といったところだろう。
しかし、すべてを見届けたラオズーは、端末を閉じてニヤリと笑った。
「いいじゃないか。見込みがある」
まさに曲則全。
それは『老子』の教えだが、曲がっている木は、建材として役に立たないからこそ、切り倒されることなく天寿を全うし、ゆくゆくは大樹となって人々に木陰を提供し、安らぎを与える。
「さて、この子をスンズーがどう導くのか。……楽しみじゃん」
ラオズーは牛の手綱を引き、スンズーのいる町に向かった。
スンズーは、勇気のかよう中学校にいた。ラオズーは、校舎の屋上でスンズーと話す。
「なんか信正から、勇気のお世話係をおおせつかったんだって?」
笑顔のラオズーが興味本位で聞くと、スンズーはたんたんと答えた。
「そうなんだ。信正が孫娘の行く末が心配で、死んでも死にきれないって言うんで、だったら身の守り方でも教えてやるよって言ったんだ」
「へー、意外といいやつじゃん、おまえ」
ラオズーがニヤッとすると、スンズーは頬を赤らめ、
「は? なに言ってんだよ。つか、おまえってさ、他人のことには無関心のくせして、こうやって関心をもつなんて、どういう風の吹き回しだよ」
「え? あたしって、おまえの師匠筋みたいなもんじゃん。それがあの信正の孫娘の世話をするって言うんだからさ、気になるじゃん」
「……師匠筋?」
「ほら、スンズーの作者の孫武ってさ、あたしの作者の老子に学んだって言われてんじゃんか。だったら、『老子』は『孫子』の師匠みたいなもんじゃん?」
「あ、ああ、そういうこと……。でもさ、ボクは戦争のマニュアルであって、現実にどっぷりつかっている。おまえみたいな世捨て人とは違うけどな」
「でも、おまえもあたしと似たようなことを言ってんじゃん。たとえば、水とか」
「……水?」
「老子ではさ、上善は水のごとしって言って水を手本に考えているけど、孫子だって、兵の形は水にかたどるって言って水を手本にしてんじゃん?」
「あ、それね」
「それにさ、老子も、孫子も、戦わない勝ち方をベストってするだろ?」
「うん、するな」
「あとさ、虚無を活用する点でも似てるよね……」
孫子の兵法では、実をさけて虚を撃つといって、敵の弱みをねらう。また、無形といって、目立たないことを重視する。
老荘思想では、無用の用といって、役立たないものが役立つとする。また、無為といって、よけいなことをしないことを重視する。
「無用の用って言えばさ、勇気ちゃんのことだけど……」
「ん?」
「勇気ちゃんってさ、曲がった木だと思うんだよね。それで、なかなか将来有望かなって。だから、おまえがどんなふうに勇気ちゃんを導くのか、楽しみにしているから」
「勇気が曲がった木……?」
スンズーは少し考え込み、やがて納得したように頷いた。
「たしかに勇気は、ふつうならできることができなかったりするせいで、まわりからダメ人間って思われていたりするから、役に立たない曲がった木と似ていると言えなくはないかな……。いや、いろいろ考えると、言い得て妙ってやつかも」
「そもそも勇気ちゃんってさ、発達障害ってやつなんだよね? だったら、努力すれば改善するって本人に言うのは、ちょっと残酷かなって。だって、脳の作りがそうなっているんでしょ? それなら、いくら努力したところで、定型発達の人と同じになれるわけないじゃん。そもそも曲がった木を無理やりまっすぐにしようとしたら、ポキンと折れて終わりでしょ?」
「それは魚を煮るときはいじるなっていう教え? よけいな手を加えたらダメだと……」
「うん、まあ、別に改善させなくたって、今のまま育っていけばいいじゃん。曲がった木は、建材に役立たないから、切り倒されることなく、大樹になれる。大樹になったら、人びとに木陰を与え、安らぎを与えられる。まさに無用の用」
「なんだよ、ラオズー、おまえも勇気を心配して、アドバイスに来てくれたってわけか」
「まあ、あの信正の孫娘だしね。困ってるって知ったら、気にはなるかな。あたしのアドバイスが役立つなら、いいけど」
「いや、うん、役立ったよ。ありがとう」
スンズーは思うところがあったのか、沈思黙考した。




