ちょっと詳しめの『孫子』の紹介・ここは読み飛ばしても大丈夫です
『孫子』のことをちょっと詳しく解説しますが、読み飛ばしても本編は理解できると思います。
ところで、今回、使用している『孫子』は、従来の『孫子』に発掘された竹簡本『孫子』を反映したものになっています。そのほうが、よりオリジナルに近い『孫子』を紹介できると思ったからです。
1.従来の『孫子』に発掘された竹簡本『孫子』を反映
1972年4月、中国の山東省臨沂県にある前漢時代の墓のなかから、大量の竹簡が発見されました。これを「銀雀山漢墓竹簡(銀雀山漢簡)」と言います。竹簡とは、文字を記すため、竹を細長く、平らに加工したものです。
これらの竹簡のなかには、『孫子』もありました。『孫子』は、世界的に有名な兵書(兵法を記した本)で、春秋時代(紀元前770年~紀元前403年)の中国で活躍した孫武の兵法が記されています。このとき発見された竹簡本『孫子』は、従来本『孫子』(『魏武帝註孫子』、『武経七書』所収『孫子』、『十一家註孫子』の3つ)と比べてみると、大半は同じですが、いくつか違ったところもあります。ですから、竹簡本『孫子』は、『孫子』を学ぶうえで、重要な資料となっています。
ただし、竹簡本『孫子』は、長いこと地中に埋もれていたことから、竹簡に多くの損傷があり、断片化してしまっています。そのために失われている文字もたくさんあります。そのままでは、非常に読みにくい状態にあります。
そこで、この本では、竹簡本『孫子』で失われているところについて、従来本『孫子』や他の中国古典を参考にして補うことで、竹簡本『孫子』を試みに復元し、文章として読みやすくしました。もちろん、本文のうち、どこが竹簡本『孫子』であり、どこが補ったところであるのかについては、明示しています。さらに、従来本『孫子』についても、あわせて紹介しています。ですから、これから『孫子』を学びたい人、語りたい人にとって、便利な一冊になるでしょう。
孫武や『孫子』について、よく知らない読者のため、簡単な説明を以下に掲載しています。必要に応じて、参照してください。
2.孫武の紹介
孫武の生きていた春秋時代の中国は、多くの国に分かれ、互いに争っていました。それらの国のなかで、とくに有力な12の国を「春秋十二列国」と言います。それは、魯国、衛国、晋国、鄭国、曹国、蔡国、燕国、斉国、宋国、陳国、楚国、秦国の12ヶ国です。
孫武は、もともと斉国に住んでいたのですが、内乱を避けて呉国(南方の新興国)に移り住みます(『新唐書』『古今姓氏書辯證』)。呉国では、ひっそりと目立たないところで暮らしていました。しかし、伍子胥(呉国の大臣)は、孫武が軍事において有能であることを知り、孫武を闔閭(呉国の王)に推薦します(『呉越春秋』)。孫武は、闔閭に『孫子』13篇を献上し、さらに宮殿の女官たちをみごとに兵士として訓練して見せました。この結果、闔閭から呉国の将軍として取り立てられます(『史記』『呉越春秋』)。
ちなみに、『史記』では、闔閭が孫武に対して女官たちを兵士として訓練するように命じたことになっていますが、『呉越春秋』では、孫武が闔閭に対して女官たちを兵士として訓練させてほしいと願い出たことになっています。「銀雀山漢墓竹簡」でも、孫武が闔閭に願い出たことになっています。
当時の呉国は、小国で、大国の楚国から圧力を受けており、楚国を憎んでいました。ですから、闔閭は、すぐにでも楚国を攻撃したかったのですが、孫武や伍子胥の意見に従って、まずは民力を養うことにします。十分に民力を養ってから、唐国と蔡国に使者を派遣して同盟を組み、楚国に戦争をしかけました(『史記』『呉越春秋』)。このとき孫武は、3万の兵力で、20万の兵力をもつ楚国と対戦したわけですが、その兵法によって、みごとに勝利します(『新序』)。その後、闔閭は越国との戦いで戦死しましたが、呉国の勢いは衰えませんでした。呉国は、夫差(闔閭の息子)が王位を継いだ後、中原(中国の先進地域)の強大国である斉国や晋国を威圧できるほどまでに成長します。しかし、夫差が遠征を繰り返したことから、呉国は国力が弱まっていき、ついには越国に攻め滅ぼされてしまいます(『史記』『呉越春秋』)。
ところで、孫武が死んだ時期は不詳ですが、孫武の子どもたちは、富春を領地として暮らしました。戦国時代の斉国で軍師として活躍した孫臏は、孫武の子孫です(『新唐書』『古今姓氏書辯證』)。また、孫武の活躍が目ざましかったことから、後世になると、世間では軍事を語るとき、だれもが『孫子』13篇の話をするようになります(『史記』)。
【孫武関連年表】(年は紀元前)
584晋国の申公巫臣が、呉国に先進的な軍事技術を伝える
537楚国が、陳国、蔡国、許国、徐国、越国と連合して呉国を攻める
呉国に先進的な軍事技術が根付いたからか、呉国は一部で反撃に成功する
532斉国で内乱が起こり、孫武は難を避けるために呉国に移住する
515呉国で闔閭が呉王に即位する
この間に孫武は呉国に仕官する
512闔閭が楚国との開戦を決意する
孫武と伍子胥は、まず楚国を弱らせるため、ゲリラ戦を発案し、採用される
511ゲリラ戦を開始する
楚軍は、呉軍にほんろうされ、疲弊していく
508豫象の戦い。楚軍は、呉国を攻めるが、呉軍のワナにはまって敗北する
506柏挙の戦い。呉軍は、蔡国、唐国の軍と連合して柏挙で楚軍を破る
その後、呉軍は、勢いに乗って進軍し、楚国の首都を占領する
505楚王は秦国に援軍をかて、しかも呉国内でクーデターが起こる
呉王は、楚国の占領をやめ、呉軍をひきいて呉国に戻る
越国は、呉国のスキをついて攻める
496檇李の戦い。呉国は越国を攻めるが、奇襲されて闔閭が戦死する
闔閭の死後、息子の夫差が呉王となる
494夫椒の戦い。呉国は越国を攻め、会稽で越王を捕虜にする
この後、呉王は覇者をめざし、列国との戦争を繰り返すようになる
485呉国の伍子胥は、越国の策略によって呉王にうとまれ、自殺を命じられる
孫武も、伍子胥に続いて自殺させられたという説もあり
484艾陵の戦い。呉軍は、斉軍を大敗させる
482呉王が黄池で列国と会議しているスキに越国が呉国を攻める
478笠沢の戦い。呉軍が越国に大敗する
475姑蘇の戦い。呉国は、越国に攻められ、首都を落とされ、滅亡する
夫差は、越王に命乞いをするが、認められずに自殺する
3.各種の『孫子』
オリジナルの『孫子』は、『史記』の記録によると、全13篇であり、孫武が呉王の闔閭に献上したものであるとされています。もともと『孫子』は、この1つだけでしたが、現代の『孫子』は、いくつかの種類があり、それぞれ内容が微妙に異なっています。それらは、大きく4つの系統に分けられます。①竹簡本『孫子』(銀雀山漢墓竹簡『孫子』)、②『魏武帝註孫子』、③『武経七書』所収『孫子』、④『十一家註孫子』の4つです。
竹漢本『孫子』は、前漢の時代のものです。1972年4月に中国の山東省臨沂県にある銀雀山漢墓から発見されました。ちなみに、このとき発見された竹簡(銀雀山漢墓竹簡)には、孫武の兵法だけでなく、孫臏の兵法が記録されているものもありました。孫臏は、孫武の子孫で、戦国時代の斉国で軍師として活躍した人物です。銀雀山漢墓竹簡の発見によって、それまでは「『孫子』は孫臏の兵法を記録した兵書であり、孫武は架空の人物だ」という説もあったのですが、実際には『史記』の記述にあるように、2人の孫子がいて、それぞれが兵法を残していたことが判明しました。ちなみに、孫臏の兵法に関する記録は、『孫臏兵法』として刊行されています。
その後、後漢時代に書かれた歴史書『漢書』の記録によると、「孫子の兵法」を記した書物として、『呉孫子兵法』(全82篇、図9巻)と『斉孫子』(全89篇、図4巻)の2つが出てきます。この2つの内容について、次の2つの説があります。
1つは、『呉孫子兵法』は孫武の兵法を記録したものであり、『斉孫子兵法』は孫臏の兵法を記録したものであるとする説です。隋代から唐代にかけて活動した学者の顔師古の注釈によると、『呉孫子兵法』は孫武の兵法であり、『斉孫子』は孫臏の兵法であるとされています。
もう1つは、『呉孫子兵法』と『斉孫子』はいずれも「孫子の兵法」を記録したものであり、そのうち呉国のあった地域(今の江蘇省あたり)で伝承されたものが『呉孫子兵法』であり、斉国のあった地域(今の山東省あたり)で伝承されたものが『斉孫子』であるとする説です。たとえば、『論語』にも、かつては魯国に伝わった『魯論語』(全20篇)、斉国に伝わった『斉論語』(全22篇)、孔子の旧宅から見つかった『古論語』(全21篇)の3種類があったような感じです。
現代の考え方によると、オリジナルの『孫子』13篇に対して、「孫子の兵法」を学ぶ人たち(孫武や孫臏の後継者たち)が、孫武や孫臏の教え、ときには自分の考えを付け足していくことで、だんだんと記載量が増えていき、その結果として『呉孫子兵法』や『斉孫子』が誕生したのではないかと言われています。なお、「銀雀山漢墓竹簡」に記録された「孫子の兵法」が、『呉孫子兵法』と『斉孫子』のいずれに属するのか、いずれにも属さないのか、などについては、今のところ不明です。
その後、漢代末期から三国時代初期にかけて活躍した曹操[そうそう]が、『孫子』に注釈をほどこして、『魏武帝註孫子』(『孫子略解』)を作成します。曹操によると、当時の『孫子』は「文章が雑多になっていて、世の中に出回っているものは『孫子』本来の内容がわからないものになっている」(『魏武帝註孫子』序、『孫子略解』序)という状態にありました。そこで、曹操は、当時の『孫子』から余計なものを取り去り、『孫子』をオリジナルの状態に戻すことにしました。こうして誕生したのが、『魏武帝註孫子』です。現代まで伝えられてきた『孫子』は、すべて『魏武帝註孫子』がベースになっていると言われています。なお、『新訂 孫子』(金谷治、2000年)によると、『魏武帝註孫子』が「最も古くてまた最もすぐれている」とのことです。
今に伝わっている『魏武帝註孫子』は、清代に孫星衍が「平津館叢書」に収録したものが主流です。孫星衍が言うには、宋代に刊行された『魏武帝註孫子』を収録したそうです。しかし、その原本が見つかっていないので、その真偽は不明です。ちなみに、日本に現存する清家本『魏武帝註孫子』は、遅くとも室町時代(戦国時代)のものですから、清代のものよりは古いと言えます。
現代まで伝えられてきた『孫子』のうち、確実に最古と言える(当時の原本が現存している)ものは、南宋の時代に刊行された『武経七書』所収『孫子』と『十一家註孫子』の2つになります。内容は、ほとんど同じですが、小さな違いもあります。ちなみに、これらの初版は、北宋の時代に刊行されています。
以上2つのうち、『武経七書』所収『孫子』は、北宋の時代、北宋国皇帝の神宗の命令によって編集された『武経七書』に収録されている『孫子』です。神宗は、自国の軍隊が弱く、外敵に負けてばかりいるので、軍事について改革しないといけないと思いました。そこで、軍隊の幹部候補生たちが兵法を学びやすくするため、基本となる7冊の兵書を定めさせました。こうして誕生したのが、『武経七書』です。ちなみに、『武経七書』に含まれる兵書は、『孫子』『呉子』『司馬法』『李衛公問対』『尉綾子』『三略』『六韜』の7冊となっています。
いっぽう『十一家註孫子』は、北宋の時代に兵家の吉天保が、過去11人(曹操、孟氏、李筌、杜佑、杜牧、陳暤、賈林、梅尭臣、王晳、何氏(何延錫)、張預)の『孫子』の注釈を集め、編集して一冊にまとめたものです。今では失われた本からの注釈も引用されており、『孫子』研究で重視されています。
これ以降、1972年に竹簡本『孫子』が発見されるまでの『孫子』は、以上の3種類(『魏武帝註孫子』、『武経七書』所収『孫子』、『十一家註孫子』)のいずれかの系統に属すると言われています(『中国兵書通覧』(許保林、解放軍出版社、1990年)、『孫子古本研究』(李零、北京大学出版社、1995年)など)。ただし、『孫子兵法新釈』(李興斌・楊玲、斉魯書社、2001年)によると、現行の『魏武帝註孫子』は『武経七書』所収『孫子』の系統に属するとのことです。
その他として、上記の『孫子』をベースにして、独自の解釈を加えたものもあります。たとえば、劉寅の『孫子直解』、趙本学の『孫子書校解引類』、櫻田景迪の『古文孫子正文』などです。これらに共通している大きな特徴は、「九変」の内容を独自なものに変更している点です。これらの本も、『孫子』を学ぶうえで参考になります。




