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悲しき道化師 MLB投手 ルーブ・ワッデル(1876-1914)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2025/10/29

ルーブ・ワッデルはメジャーのマウンドに立っている時も、少年時代に草野球に興じていた時と変わらず、心から野球を楽しんでいたのだろう。職業意識にとらわれず自由奔放だったのは、好きなことだからこそ、他人に強要されることを嫌がったからだろう。彼のようなタイプは実社会にも少なからずいると思う。指揮官次第で大化けする人材はレアアースのように埋もれていて、採掘されるのを待っているが、鈍感な人たちにとってはただの石ころである。The whole world wants Connie Mack!

 ルーブ・ワッデルは火事が好きな変人である。消防車の鐘の音が鳴ると、試合中であろうが居ても立ってもいられない。パイレーツ時代には5回まで投げ終わったところで、消防車の鐘の音に釣られてベンチを抜け出し、消火作業が終わるまで手伝っていたことがある。夕方に鎮火したので慌てて球場に戻ってみると、試合はすでに終わりもぬけの殻だったそうだ。

 彼が子供の頃はまだ馬車の時代で消防車などは存在しなかったが、三歳の頃、田舎の消防署に迷い込んでしまい、そこで数日間過ごした経験があるというから、その頃から消防士に憧れを感じていたのかもしれない。

 火事が大好きでも、マウンド上でのピンチとなると消火器のようにあっさりと火消しを演じるワッデルは、20世紀初頭におけるメジャー最高のサウスポーだった。


 幼少時より変わり者だったワッデルは、学校は苦手で休みがちだったが、頭は良かったようだ。野球が大好きだったので登校しても学校を抜け出しては草野球に興じていた。

 彼の強靭な肩は、自宅の畑で作業中に作物をついばむ野鳥を狙って石を投げているうちに作り上げられたという。その後は鉱山などで力仕事にも従事し、筋肉隆々の大男に成長した。

 本名がジョージなのにルーブが通り名になったのは、まだセミプロだった一八九六年の春、ダブルヘッダーで二試合とも勝利投手になったワッデルの鉄腕ぶりに驚愕した観客が「What a rube!(なんという田舎者だ)」と叫んだことから、田舎者を指す蔑称であるrubeが、「凄い田舎者」という賞賛の意味で使われるようになったらしい。


 ワッデルのプロキャリアはルイビル・カーネルズに契約金500ドルで入団した一八九七年からスタートした。

 一年目は登板二試合で〇勝一敗、翌年セミプロに戻った後、一八九九年にルイビルで再びメジャーのマウンドを踏むが、オーナーのバーニー・ドレイファスがピッツバーグ・パイレーツを買収したため、合併吸収という形でルイビル球団は解散し、ワッデルもパイレーツの一員となった。

 パイレーツでは八勝十三敗ながら、防御率二・三七で最優秀防御率のタイトルを獲得し、チームの主力投手となったが、前述の火事見物をはじめとする奇行が首脳陣の目に余ったのか、一九〇一年のシーズン早々、シカゴ・カブスにトレードされた。

 監督兼選手のフレッド・クラークが率いるパイレーツは、ワッデルが居なくなったとたんにリーグ優勝を果たしている。

 ワッデルは入団当日の深夜にホテルで就寝中のクラークを叩き起こして、「腹が減ったから金を貸してくれ」と言うような無神経かつ無礼な男だったから、そこそこ人気が出たところで売れるうちに他球団に売りつけてしまおうという魂胆だったのかもしれない。

 貧乏籤を引いたカブスは、移籍後十四勝十四敗のワッデルを何の未練もなくフィラデルフィア・アスレチックスに追いやった。というのもシーズン終了間際、先発が言い渡されていたにもかかわらずワッデルが試合をすっぽかしたからだ。

 その頃から大酒飲みでサラリーの大半を飲み代に使っていたワッデルのこと、寝過ごしたのかと思いきや、それから二週間もの間完全に消息を絶ってしまい、ルーブ・ワッデル失踪事件としてマスコミでも大々的に取り上げられ、大騒ぎになった。

 では彼はその間どこで何をしていたかというと、グレイス河畔で釣りと野球に明け暮れていたのだった。

 偶然、ワッデルのファンがバカンスでグレイス河畔に滞在中に、興味本位で覗いてみたセミプロの試合で、マウンドに立っているところを発見したのだ。

 現在ほどマスメディアが発達していない時代だけに、ルーブ・ワッデルの名を知っていても、新聞や雑誌、野球カードでしか見たことがなければ、実物と判断するのは難しかったに違いない。偶然発見したファンも、最初はワッデルによく似ているという程度の認識だったが、何度も登板試合を見たことがあったおかげで、投球フォームやセミプロらしからぬ豪速球から本人であることを確信したという。

 当の本人はといえば、「私はここが好きなんです。毎日好きな釣りが出来るし・・」とまるで子供のような言い訳をして周囲から気狂い扱いされている。

 この誰も手に負えない奇人をうまく御して超一流の投手に育てあげたのが、アスレチックスの名将、コニー・マックである。マックはワッデルが必要以上に使い込まないよう給料は銀行に預金して、最低限の金しか渡さなかった。それでも、ワッデルは自分のサインボールを酒場の親父に渡して只酒を飲ませてもらったり、時にはバーテンダーまでして飲み続けたというから、敵もまたさるものであった。

 奇行も相変わらずで、ある試合中に観客席にいた友人から釣りに誘われるや、六回途中で先発のマウンドをほっぽり出して、球場から脱走したこともある。

 そこでマックはワッデルの釣りに対する異常な執着心を逆利用することを思いついた。

 ホワイトソックスとのダブルヘッダーでのこと。同点のまま九回裏のマウンドに上がろうとするワッデルを呼び止めたマックは、「もし君が負けたら、これからは絶対に釣りには行かせんぞ」と恫喝した。

 するとワッデルは延長十七回表に自らのバットで決勝の三塁打を放つや、その裏は三者三振で接戦に終止符を打った。

 これに味を占めたマックが「ベウアキー湖に素晴らしい釣り場があるのを知ってるか。君が次の試合も勝ったら、今度の連戦は休みにしてもいいんだが」と誘いをかけると、ワッデルは見事にその餌に食いつき、「ボールを下さい。次の試合も勝ってみせます」と語気を荒げるや、一対〇の完封勝利という見事なピッチングを披露したのである。

 マックに乗せられたワッデルは移籍初年度である一九〇二年に二十四勝七敗という好成績でチームを引っ張り、アスレチックスを初のリーグ優勝に導いた。

 ワッデルの全盛時代はアスレチックスの六年間で、この間六年連続ア・リーグ最多奪三振をマークするほどの豪腕ぶりだった。豪速球と緩急二種類のカーブ、スクリューボールを自在に操り、一九〇二年七月一日にはボルチモア・オリオールズ戦で二十世紀初の三者三球三振を記録(史上二人目)している。

 一九〇四年のシーズン三四九奪三振は、ボブ・フェラーに更新されるまで四十年間メジャー記録であり、今日でも左腕投手としては歴代四位に相当する素晴らしいものだ。

 二度目のリーグ優勝を果たした一九〇五年は、二十七勝十敗、防御率一・四八、二八七奪三振で、最多勝利、最優秀防御率、最優秀勝率、最多奪三振の投手四冠を達成し、名実ともにメジャー最高の投手となった。

 奇人ワッデルは人を喜ばせることが好きで、なかなかのエンターティナーでもあったため、シーズンオフになるとショーの舞台に立ったり、鰐とプロレス試合をしたりと話題には事欠かなかったが、グラウンドでも一歩間違えると出場停止処分が下されてもおかしくないほどのスタンドプレーでファンを沸かせた。それが九回裏の守備で外野手を全員レフトのライン上に立たせて内野手だけで守るという「荒芸」である。

 エキジビションなどでは外野手をベンチに下げてしまうのが常だったが、公式戦ではルール違反になるので、外野手はグラウンドの中にいた。この危機的状況からワッデルは全員三振に取ってしまうのだから凄い。マックから挑発されて、十一試合連続勝利や当時のメジャー記録である十九連勝を達成している実力からして、全試合本気で投げていたら毎年三十勝は堅かったはずだ。

 彼の地肩の強さを証明する次のようなエピソードもある。

 ある日のブラウンズとの試合前に、ブラウンズの投手から五ドルかけて遠投競争をしようと持ちかけられた時のこと。ホームからセンターに向かってワッデルが投じた一球は、ブラウンズの投手を軽く超えていた。

 これを見物していたブラウンズの選手たちが「今のはまぐれだろ」とはやしたてると、むきになったワッデルは何度も大遠投を繰り返した。

 言うまでもなくこれはブラウンズの選手たちが仕掛けた罠である。ちょっと左巻きのワッデルを乗せて、試合前に肩を疲労させようという魂胆だったのだ。投手は全力投球で何度も遠投をすると疲労どころか肩を壊してしまう危険性が高い。それにもかかわらずワッデルの球威は一向に落ちず、終わってみれば十四奪三振の完封勝利でブラウンズ打線をきりきり舞いさせた。

 快投を見せたワッデルは試合後、賭けをしたブラウンズの投手に歩み寄ると、試合前に賭けで手に入れた五ドルを差し出してこう言った。「君がいい練習をさせてくれたから勝ったよ。この五ドルはお礼に返すよ」


 一九〇八年、ワッデルは何の因果がブラウンズにトレードされた。

 これは二度目の結婚もうまくゆかず酒量が増えたワッデルがもはやチームメイトの手に負えなくなったからで、さすがのマックもチームの厄介者になりつつあるエースを五千ドルでブラウンズに放出することに同意したのだ。

 しかし、この金銭トレードは失敗だった。エースを失ったアスレチックスは二位から六位へと急降下したばかりか、観客動員数までア・リーグ一位から四位へと大幅減となった。

 逆にブラウンズは十九勝十四敗、防御率一・八九のワッデルの活躍により六位から四位へと順位を上げたが、人気者の加入によって観客動員数もアスレチックスを抜いてア・リーグ二位に躍進したのは大きかった。

 マックの回想によると、古巣のアスレチックス戦でワッデルが先発した時には、チームを追われた恨みがあったのだろう、「お前らひどい目に遭わせてやるからな」と凄むや十六個もの三振を奪う快投で古巣をきりきり舞いさせている。

 ところがさすがの鉄腕も不摂生が祟って翌年から成績がガタ落ちし、一九一〇年に解雇された。

 すかんぴんのワッデルには野球しか残されていなかった。気持ちを入れ替えて臨んだ一九一一年には2Aミネアポリス・ミラーズで二〇勝十七敗と再起の兆しを見せたものの、試合の途中にふいにいなくなる奇癖は直らず、再びメジャーから声がかかることはなかった。

  

 ワッデルは突拍子もない行動で周囲を煙に巻いたが、良い方のスイッチが入った時の行動力もまた際立っていた。

 ブラウンズの中堅手ホフマンが頭部に死球を受けて気絶した時などは、チームドクターが危険な状態であるとして救急車を呼んだものの、一向に来る気配がないのに業を煮やしたワッデルが、いきなりホフマンを背負って通りに駆け出すや走っている車をつかまえて病院まで搬送したのだ。この迅速な行動のおかげでホフマンは事無きを得たが、ワッデルはユニフォーム姿のまま一晩中ホフマンに付き添い、頭に氷嚢をあてがっていたという。

 早すぎるワッデルの死もまたこのような英雄的行動の結果によるものだった。

 一九一二年の春、ケンタッキー州のヒックマンでトレーニング中に豪雨による川の氾濫に遭遇したワッデルは、街の人たちと一緒に冷たい川の中で土嚢積みの作業を続けたのが原因で肺炎を患ってしまった。

 強靭な体力を誇るワッデルは体調を崩しながらもエースとして投げ続けたが(十二勝六敗)、二度目の氾濫の時も川に飛び込んで作業に参加したのが祟って、シーズン終了時にはマウンドに立っているのがやっとというほど衰えてしまった。

 2Aミラーズを解雇されたワッデルはノーザンリーグのミネアポリス、ヴァージニアと渡り歩き、一九一三年を最後に引退の道を選んだ。ワッデル最後のピッチングは延長十二回で十二奪三振という見事なものだったが、これで魂まで完全燃焼してしまったのだろう。彼がテキサスのサナトリウムで慌しい人生の幕を閉じたのはそれからわずか半年後のことだった。

 無一文のワッデルのためにテキサス行きの切符を手配したり、入院費を賄ったりしてくれたのはコニー・マックをはじめとする旧友たちだった。エイプリルフールに亡くなったというのも、いかにも「道化師」らしい最期だった。享年37歳

 通算成績 193勝143敗 防御率2.16(MLB歴代7位)

ルーブ・ワッデルの童心は大谷翔平に通ずるものがあると思う。大谷がホームランを喰らおうが三振を喫しようが、怒り狂ってグローブを叩きつけたり、バットをへし折ったりしないのは、勝っても負けても野球をプレーしていることが楽しいからなのだろう。そもそも野球は相撲やボクシングのような個人技とは違って何十連勝も出来るようなスポーツではなく、メジャーでさえ10試合中6勝ペースで優勝できるのだから、うまくゆかないからといってそのたびに落ち込んでいては楽しんで続けることはできない。勝とうが負けようがスポーツの意義は楽しむことなのだから、ルーブは問題児などではなく、本当にあるべき野球人の姿だったのではないだろうか。

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