Daddy's Santa Claus
十二月二十八日。多くの会社が御用納めにあたる、年末最後の勤務の日。
正午で年末の挨拶回りを終える予定だったのに。約束の時間より十分以上も過ぎている。俺は依子と待ち合わせている喫茶店を目指し、小走りで先ゆく道を急いだ。
三年ぶりに彼女の声を聞いたのは、一週間前のオフィスで取った電話を介してのことだった。
《私。依子です》
そのひと言に心臓が跳ねる。そんなことは彼女にプロポーズをした十数年ぶりのことだった。
『どうした。職場に電話なんて初めてじゃないか』
鼓動が高鳴ったのは一瞬のことで。共働きだった彼女は、主婦の割には仕事とプライベートの区別を心得ている女だった。その彼女が私用で電話をして来るということは。
『子供達に何かあったのか?』
問い掛ける声が、震えていた。
《う……ん、あ、でも、そんな一大事ではないのだけれど》
どうも歯切れが悪い。いつもの彼女らしくない。
『待ち合わせて話す方がよければ、早めに仕事を切り上げるが、どうする?』
少しの期待と、予想の大部分を占める子供達に関する最悪の事態を交えた問いに、彼女は慌てて用件を語り始めた。
《ううん、いいの。あのね、こんなこと今更お願いするのは勝手がいいと解っているのだけれど》
夢人が学校で喧嘩をし、依子が担任から呼び出されたそうだ。その帰り道で電話をかけて来ているらしい。
原因は、“サンタクロースの正体”についての意見の相違とのことだった。
《あの子、サンタクロースなんか本当はいない、って言い張ったんですって。パパがサンタの正体だ、って。四年生って、まだサンタクロースを信じている子も意外と多いみたいのね。私には、解らないの。男の子は男親の方が解るだろう、って、あの子へのプレゼント選びをあなたに任せきりでこれまで来たから》
喧嘩の原因を問い質した担任に、夢人は
『僕は嘘なんか言ってない。嘘をつくのは悪いこと、って先生いつも言うじゃないか』
と泣いて意見したそうだ。
『パパがいなくなってから、僕のサンタは僕のことを解ってくれなくなったんだ』
と。それを聞いた依子は、申し訳なくてまともに夢人の顔を見れるまで家にも帰れない、と声を震わせた。
『あなたに子供達を取られたくなかったの。だから会わせないなんて言っちゃったの。……ごめんなさい』
――夢人のプレゼントを選んでやって欲しい。
彼女は何度もためらいがちに言葉を区切りながら、ようやくそのひと言を告げてくれた。
『喜んで。ただひとつだけ、こっちも頼みごとを聞いてはもらえないだろうか』
緊張のあまりビジネス用語になってしまう。まだ一応夫の立場でいるはずなのに。
『……届けさせてくれないか。昔のように、サンタの姿でこっそりと。あの窓から』
嫌いで別れたわけじゃない。すれ違いの生活が互いを少し疲れさせただけだ。彼女がそれを認めないまま出て行こうとしたから、俺が代わりに出ただけだ。いつか解ってくれる日が来ると信じて。
ほんの少しの期待と、大部分の諦めの気持ち。長い時間、そのふたつが自分の中で行き来した。
《ありがとう。……子供部屋の窓の鍵を開けておくわ》
サンタ役の願いは叶ったが、もうひとつの願いが叶えられないまま依子の方から通話が切られた。
「悪い、二十分も遅れた」
上がる息を抑えながら、どうにか謝罪の言葉を告げる。
「そっちは営業職だもの。私も戸締り当番で少し遅れて来たから気にしないで」
それに、ここで待つのは意外と平気。そう言った彼女の唇が柔らかな弧を描いてみせた。
「大学時代を思い出してたの。あの頃も、いつもあなた、こうやって遅れて来たのよね。今度はどんな文句を言ってやろうか、って……いっつもこの席で考えてた」
あの頃と同じくガラス張りの向こうに佇む、飾られたケヤキの街路樹を眺めて彼女が言う。その横顔は今も変わらず、俺を見惚れさせるほどの魅力を保っていた。
しばらくの無言、ウェイトレスへのオーダーのあと、横顔ばかり見せていた彼女がこちらに視線を戻した。
「夢人ね、すっごく喜んでた。まだまだ子供ね。何だっけ。仮面ライダー、電王? 友達と偶然おそろいだったらしくって。みんなで変身シーンを披露してくれたわ」
柔らかく握った拳を口許に寄せてくつくつと笑う。彼女のそんな仕草も、自分をときめかせる仕草のひとつで。
「そうか。よかった。まだまだ俺の勘も鈍ってないな」
そう言ってしらばっくれた。
理女には何を、と問えば、まだ保育園児の癖に化粧セットを選んだという。
「もっと綺麗な理女になれば、パパが帰って来てくれるかも、って」
ママになんか負けないんだから、って、相変わらず私をライバル視をしている。依子はそう言って、また口許に手を添えて小さく笑った。
喉許までせり上がる。電話を手にしては飲み下してしまう、ひと言が。
――もう一度、やり直そう。
三年という歳月が、今日もそのひと言を飲み込ませた。
笑って過ごせているなら、それでいい。父親として必要ならば、いつでもこうして頼ればいい。依子への気持ちとは別の意味で、比べようがないほど子供達のことも愛しているから。
目の前にコーヒーが置かれ店員が去ると、妙な沈黙が気まずい雰囲気にさせた。
「ねえ」
言葉を必死で探していた俺に、彼女の方から語り掛けた。
「ん?」
「うん……」
どうにも彼女らしくない。滑舌のよいはっきりとした負けず嫌いな話し方が彼女の魅力のひとつなのに。
「その、ね。……いい人、出来た?」
手にしたカップがかちゃんとうるさい音を立てた。何だ、なるほど。それは言いづらい訳だ。
「隅に置けないな。坂口か? ああ、それとも韮崎かな」
彼女にプロポーズをして玉砕した先輩や同期の独身達を思い出す。三年前まで家族ぐるみでアウトドアサークルの延長みたいなことをしていたのだから、きっと今も彼女は子供達を連れて、彼らとも交流を続けているのだろう。俺は到底行く気になれず、連絡さえしなくなったが。
「……何の話?」
依子の顔が途端に鬼の形相に変わり、右の眉尻が不自然に引き攣れた。これは、まずい。何を怒らせるようなことをしたんだろう、俺は。
「質問したのは、私なの」
ああ、そういうことかと納得する。女の割に理論派の彼女らしい怒りの原因だと苦笑いがこぼれた。
「残念ながら、そんな浮いた話はまだないよ。でも、お前にそういう人が出来たんなら、もうそろそろ潮時かな」
恰好つけるな馬鹿野郎。もうひとりの俺がそう叫ぶ。離れて初めて気がついた。一緒に暮らせる幸福が、いつの間にかそうとも思わず当たり前に馴染んでしまったことの愚かしさ。
「お前達を守れる男が出来たんなら、潔く判を押すよ。届を送ってくれたら、俺が提出しておく」
「ばかっ!」
という怒声と同時に、視界が水の中にいるような世界になった。
「つ……べたいなっ。何するんだ、いきなりっ」
ようやく温まり掛けた体が、依子のぶっちゃけたグラスの氷水でまた冷える。周囲から刺される痛い視線に耐えかね、ポケットから取り出したハンカチで顔全体を覆って拭う振りをした。
「相変わらず勝手に早合点して、一体私のどこ見てるのよ!」
ほら、と突き出された左手の薬指で光るモノに、初めて俺は気がついた。
「何で気がつかないのよ! 何度も口許に手を寄せてたのに!」
「……目、しか……見てなかった……」
笑うと艶っぽくなるその目が、俺はすごく好きだから。
「ば……っ、ばかじゃないの。小皺が目立って来てることに対する嫌味?」
怒った声の割には、愛しいその瞳が潤んでいる。年甲斐もなく、甘酸っぱいものがこみ上げて来て、思わずコーヒーへ手が伸びた。
「ほら、これっ」
彼女が乱暴にバッグから取り出したそれは、俺の結婚指輪と二通の封筒。散々悩んだ挙句、彼女の母性優先を信じ、まずは封筒を手に取った。
『サンタさんへ
プレゼントをありがとう。
きょ年もおととしも、僕のおねがいがかなわなかったから、悪い子になっちゃったのかと思いました。
どうしても欲しいプレゼントがあります。
サンタさんへ今の内に言っておきます。今度はわすれないでください。
来年のクリスマスには、パパといっしょにいられるように、パパをプレゼントしてください。夢人』
手紙を持つ手が震えてしまう。次の手紙をなかなか広げられず、余計に焦ってもどかしい。
『サンタさん
プリキュアのメイクポーチ ありがとう
ママにも プレゼント ください。
ねてるとき パパのなまえをよんでます。
パパを ください。 りおん』
クソ恥ずかしさに顔を伏せる。ふたつの手紙を握りしめる俺の頭上に、もどかしそうな声が降る。
「……そういう、ことよっ。だから、その……」
――意地を張って、ごめんなさい。勝手だけど、でも、お願い。
「……帰って来て、パパ」
頬に触れた彼女の左手が涙を拭っていく。触れることさえ嫌がったのに。くすぐるように指先でなぞっていく。
「パパのアパートへ荷物を取りに行って、それから、二人で帰りましょう」
俺は子供がよくするような――夢人が感極まる時によく見せた、首を何度も縦に振る恰好で彼女の気持ちを受けとった。