小指の先の糸の色、拝見いたします~「結ぶ」「断つ」のを希望される方は応相談~
「パパとママは赤い糸でつながってるのに、りっちゃんのパパとママの糸は、どうして白色なの?」
私が幼稚園に入ったくらいの頃だ。
両親は共働きで、祖父は私が生まれる前に他界していた。だから、幼い私の話し相手はいつも祖母だった。祖母は自分の持ち家が別にあったが、ほぼ毎日、家に来てくれた。
ちいさかった私は、どうして空は青いのとか、どうして砂糖と塩は味が違うのとか、日々気になったことの答えを祖母に求めた。
糸についての質問は、そんな素朴な疑問の中の一つだった。おばあちゃんが驚くなんて珍しいな、と思ったのを覚えている。
「白い糸の意味は、大人になったら教えてあげようね」
大人になったら教えてもらう予約が随分溜まってきていた気はしたけれど、食い下がっても教えてもらえないことを既に学んでいた私は、頷いて応えた。
「だけど、いいかい、葵。糸が見えるっていうことを、他の人に言っちゃいけないよ」
「どうして」
私はよく、どうしてと返した。
幼稚園の頃から十年ちょっと経ったけれど、それは今でも変わっていない気がする。
「他の人には見えていないからだよ」
どうしてと聞くと、祖母は笑った。
「普通は見えないもんなんだ。見える方がどうしてなのさ」
私は普通じゃないんだ、と不安になったのが顔に出たのだろう。祖母は言葉を次いだ。
「おばあちゃんにも見えてるから安心しな」
そう言って祖母は私の頭を撫でてくれた。しわしわで大きい、かさかさであたたかい、私の頭によく乗る、大好きな手だ。
私がわかったと言うと、祖母は頷いた。
「それと、葵に糸が見えるっていうことは、糸のことをお勉強していく必要があるっていうことだ」
当時あまり好きではなかった、今ではもっと好きではない単語に、私は口を尖らせた。それを見て、祖母はまた笑って言った。
「おばあちゃんが少しずつ教えてあげるから、大丈夫」
高校生になって二回目の夏休み。
私は毎年そうしているように、祖母の家に遊びに来ている。
表向きの理由は「糸」のお勉強のため。
祖母は、この津軽地方で「カミサマ」とか「ゴミソ」とか呼ばれている、平たく言うと霊能力者というやつだ。
人と人との縁が「糸」として見えるという力を使って、昔から人助けをしている。
孫の私は、それと同じ力があるのだからと、毎年の夏休みに家へ招かれる。
貴重な夏休みを自分の時間として使いたいという気持ちはあったけれど、切実な理由のために、私は毎年の招待に応じている。
実入りがいいのだ。
祖母は昔から人助けのために力を使ってきたと言うが、報酬として受け取っている封筒の厚みは相当なものだ。
手伝いの駄賃として私に手渡されるお小遣いも、両親がくれるお年玉が霞んでしまうほどで、イチ学生にはとても魅力的だった。
「力の有効な使い方は、大人になっていく中で少しずつ分かっていく」と小さかった私に祖母は言ったが、なるほど、近頃は随分わかってきたような気がする。
ただ、祖母が誰にでも高額な請求をしているわけではないことも、私は分かっていた。
依頼してきた相手の懐、相談内容、対応の難しさなどで、融通を利かせている。
だから、年によってはほとんど稼ぎがない夏もあるのだが、私は優しいおばあちゃんも大好きで、それはたいした問題にならない。
「今日の約束って二時からでいいんだよね」
私は応接間のソファに座って、柱時計を見ながら言う。短針は二に近づき、長針は九を越えたあたりだ。
「そうだよ。若い女性だね、電話の声だと」
祖母が給湯室から答える。若い女性、ということは、あまり報酬は望めないかな。
私はスマホでスケジュールを開いた。
今日から自由参加の夏期講習が始まったこと、まさに十四時からスタートだったことを思い出す。来年の夏は、さすがにこんな過ごし方は出来ないかもなぁ、などと考えたあたりで、呼び鈴が鳴った。
私が出るよと言い、スマホをジーンズのポケットにしまい、玄関に向かう。昔ながらの平屋で、廊下が広い。応接間を出るとすぐ、すりガラス越しに相手の姿がうっすら見えた。制服のように見える。
「お待ちしていました、どうぞ、こちらに」
戸を引く。
「本山さん?」
「えっ。あれ、あくたさん、だっけ」
隣のクラスの、確か、このみという名だ。
一年生の前期で図書委員をやったときに、何度か一緒に当番をした。整った顔と大人びた雰囲気で、記憶に残っていた。そういえば、夏期やら冬期やら課外の講習に必ず顔を出す、優等生でもあったような気がする。
「とりあえず、奥にどうぞ」
私は彼女を応接間に案内する。
そういえば、自分の知り合いがここを訪れたことはなかった。初めてこの家に入った彼女はいかにも緊張している風だったが、慣れている私も不思議な緊張を感じていた。
かけてお待ち下さい、といつものように言う。敬語でなくてもよさそうだけれど、とりあえず、いつも通りにこなすことにした。
彼女が浅く腰を下ろすと、奥から祖母が来て、向かい側に深く座った。
「顔見知りかい」
祖母が、立ったままの私を一瞥して言う。
同学年、とだけ私は答える。
「芥 子乃実と申します。こちらで、不思議なことの相談や、縁切りを引き受けて下さるというお話を聞いて伺いました」
彼女は深々と頭を下げた。きちんとしている人だ。制服を着ているせいもあるかもしれないが、私が着替えて同じ動きをしても、こんな風には見えない気がする。
「なんでも出来るってわけではないけれども、まずはお話を聞きましょうか」
祖母の促しに彼女は下を向く。私はなるべく音を立てないように、給湯室に姿を消す。
ほとんどのお客さんが、ああいう反応をする。祖母に対して、半信半疑だから。
それはそうだ。私だって自分で糸が見えるから祖母の言葉を信じられるが、突然宇宙人と交信できるという人が現れたら、半信半疑どころか純粋な疑いでいっぱいになる。
それでも祖母を訪ねる客が絶えないのは、半分は信じてしまうほどに、追い詰められていたり、困り果てていたりするからだ。
「母のことで」
彼女が口を開いた。私は給湯室でお茶の準備をしながら聞き耳を立てる。
「母のことで、相談があって来ました。正確には、母と交際している男性のことで」
父親という表現でないことに、私は勝手にどぎまぎしてしまう。
「母とその方の縁を切って頂きたいんです」
ああ、このパターンか、と私は思う。きっと、祖母も同じように思っているだろう。
相談者本人以外の縁を切って欲しいという依頼は、よくある。その多くは、親が我が子の交際相手を気に入らず、どうにかその関係を絶たせて欲しいというものだが。
こういう場合祖母の対応は決まっている。
「縁を切ることは可能ですが、当人にお会いする必要があります」
祖母は他の客にもそうするように答えた。
「両方とも、ですか」
片方だけでも糸は切れるんだけど、と私は心で呟く。私も祖母も、小指の先の糸を切ること自体は、本人がいればすぐに出来る。
「お一人だけの場合、縁の切れた相手がどなたなのか、その場では確認できないのです」
慣れた様子で祖母が説明し、私は頷く。
「そうですか……母だけなら、なんとか、連れてこられると思うのですが」
彼女はうつむいた。
すかさず私がお茶を持って応接間に戻る。
「粗茶ですが」
テーブルの横に片膝をついて、私は彼女の前に湯呑みを置く。ありがとうございますと言いながら、彼女はそれを口に運んだ。
依頼人が暗い雰囲気になったら、お茶を出す。これも私のいつも通りだ。だって、落ち込んだまま放っておいたら、ずっと考え込んでしまう人が多いんだもの。
「よければ、少しお話を聞きましょうか」
お茶を出す私、寄り添う祖母。さすが、この流れもいつも通りだ。
ふう、と息をついて、彼女は口を開く。
「私の父は、いわゆるDVの人でした。母に手を上げるのはしょっちゅうで、私に対してもそうでした。それで、私が小さい頃に家を出て、それからは二人で暮らしています」
私は静かに中腰になり、そのまま祖母の隣に浅く座る。
「半年ほど前から、母の様子が変わったと思ってはいたんです。そうしたら、先月、お付き合いしている方だといって、ある男性を私に紹介しました」
ふむふむ、と私は細かく頷きながら聞く。祖母は黙ったままだ。
「その方の雰囲気が、父に似ている気がするんです。私、母を守りたいんです。母がまた暴力を振るわれたり、夜中に泣いたりしているのを見るのが嫌なんです」
言いながら彼女は下を向き、拳をきゅっと固く握る。
分かる分かる、とは言えなかった。私の家の両親は、赤い糸で結ばれている。だから、そういうことがない。想像もつかない。
でも、こういうことって、世の中にはたくさんあるんだろう。この人は、その、あるべきでないたくさんの中のひとつなのか。
そこまで考えて、私はぎょっとした。自分の考えにではなく、別のもの。彼女の右手小指から細く出ている、緑色の糸に、だ。
私は下を向いたままの彼女に気取られぬよう、横目で祖母を見る。祖母はちらと私を見て、小さく頷く。気付いているのだ。
「老婆心ながら、その男性があなたに悪さをするようなことはありませんか」
祖母の言葉に、彼女は首を横に振った。ほ、と私が安心する。
「分かりました。ひとまず、今日のところはここまでにしましょう。もしもお母様や、その男性の方を連れてこられるようでしたら、そのときにあらためてご案内しましょう」
彼女は小さく「はい」と言って、スッと立ち上がり、美しい所作とともに感謝を述べて、踵を返す。
私の脇を祖母の肘がつつく。彼女に見とれて、見送るのを忘れてしまっていた。
玄関で彼女と別れ、私は応接間に戻った。
「どうするの」
祖母と向きあうように座り、私は聞いた。
「緑色、だったけど」
祖母は目を閉じている。
「緑は悪縁、転じた黒は命に関わる、でしょ。放っておいたら、まずいんじゃない」
祖母は目を閉じたままだ。これまでに無い展開に、私も黙ってしまう。
ちこちこと柱時計が鳴っている。
葵、と祖母が口を開き、私は顔を上げる。
「あんた、あの子の家に行って、様子を見ておいで」
えっ、どうしてと驚く私に、祖母は言葉を続ける。
「あの子の依頼は母親の縁切りだから、緑の糸は無関係だ。だからといって顔を知っている人間が痛い目見るのは、あんたも嫌だろ」
「それは嫌だけど、別に友達ってわけでもないし、家も知らないし、なんなら連絡先も」
私の言葉を祖母の手が制した。
「袖すり合うも多生の縁って言葉、小さい頃から教えてきただろう。それに、あんた、今日から四日間夏期講習だろ。お母さんから聞いてるよ。それに出たら会うことだって出来るだろうから、ちょっと行っておいで」
講習に行かない理由になるとも踏んでここに来たのに、まさかここで行くべき理由が出来るとは思いもしなかった。
渋い顔をしているであろう私に、祖母はにやりと笑って言った。
「解決したら、弾んでやるから」
「こんちは、芥さん」
鼻先の人参につられた私は、まんまと講習に来て、狙い通り彼女の隣の席に着いた。
「本山さん。昨日はどうも」
こちらこそ、と言いながら、私はバッグからノートやらペンケースやらを取り出す。
「子乃実、って呼んでいいかな」
「構わないけど、急にどうしたの」
「袖すり合うも多生の縁、ってやつ」
私は笑って言った。
「私のことも、葵でいいから」
子乃実はにっこり笑って了解してくれた。整ってるなぁ、と思う。美しいロングヘアを見ると、自分も伸ばしてみようかなと思うのだが、くせっ毛であることを思い出して、やっぱりショートでいいや、とすぐ思い直す。
講習は二時間強で終わったが、分かったことと言えば、いくつかの英文法と子乃実の出来の良さ、そして自分の集中力の無さくらいのものだった。いや、集中力が欠けているのは、多少は仕方が無い。何せ、今日の本来の目的は、この後にあるからだ。
「子乃実」
ぎこちなさを自覚しながら、名前で呼ぶ。なあに、とテキストをしまいながら、子乃実は応える。
「これから、家に遊びに行っていいかな」
小さく驚いた子乃実の動きが止まる。私は彼女に顔を近づけて、声を潜めた。
「実は、あなたに悪縁が芽生えてるっていうおばあちゃんの見立てなの。それで、私にも力になれることがあるかもしれないと思って。迷惑だったら、無理にとは言わないけど」
子乃実も小声で応える。
「でも、私、持ち合わせないよ」
あはは、と私は笑った。教室に残っていた視線がいくつも自分に注がれて、少し恥ずかしくなった。そしてまた声を潜めて言った。
「友達からお金は取れませんって」
子乃実の家に着くまでに、お互いのことを色々と話した。
例えば子乃実は小さい頃から独占欲が強いこと。そのせいで、女子グループで揉めがちだったこと。そして友達関係に臆病になったこと。かわいいから嫉妬されるしね、と私がからかうと、子乃実は照れながら否定した。
私の話は、子乃実が聞きたがった。
祖母と同じ不思議な力があるのか、これまでどういう依頼があったのか、あんなに大きな家に住んでいるからには高額なのか、と立て続けだ。疑っている感じではなかったが、私は、私の力については誰にも言わないという祖母との約束通り、はぐらかした。
それから、それぞれの中学校や好きな曲の話をし、それぞれの担任の物真似を見せ合う内に、私達はすっかり意気投合していた。
家の前に着いて、子乃実が言う。
「葵のところと違って、狭いからね」
かわいらしく、そして意地悪い笑顔だ。
「だから、あれはおばあちゃんの仕事場だから広いだけだってば」
言いながら、私はおじゃましまーすと付け加えて家に入った。
広くない玄関に、男性ものの革靴が一足ある。ちらと子乃実を見ると、表情が暗い。
「ただいまー!」
怒気をはらんだ大声が、急に整った口から飛び出して、私は反射的にびくっとなった。
数拍置いて「おかえり~」という声が二階から届く。どたどたと降りてきたのは、子乃実によく似て整った顔の女性だった。その細い左手の小指に、赤い糸と白い糸が見えた。
「おかえり子乃実ちゃん。そちらの子は?」
「本山 葵です。子乃実さんと仲良くさせて頂いています」
直後、子乃実にだけ聞こえる声で「本日から」と呟く。子乃実が喉でくっと笑った。
「やあ、こんにちは」
次いで降りてきたのは、いかにも温和な、線の丸い男性だった。子乃実のお母さんから伸びる二本の糸は彼の左手に繋がっていた。
その右手の小指から子乃実に向かって伸びる緑色の糸がなければ、私の警戒心は働かなかっただろう。
「こんにちは」
私と子乃実の声が重なる。
それじゃ上がってと促されて、私は子乃実の自室に案内された。部屋はよく整頓されていて、まるでモデルルームみたいだった。
「さっきはごめんね、急に大きい声出して」
クッションを用意しながら子乃実が言う。
「でも、友達の家に来て、いきなり変な声を聞かせたくなくって」
子乃実がため息をつく。
なるほど、と私は頷いた。それを察することが出来るくらいには、私も大人になった。
「オトナの関係ってやつね」
糸の色から言って、体の相性とやらも良いのだろう。私は頬を掻く。
「葵は、あの男、危ないと思う?」
どうしてと聞き返す。そりゃあ、緑色の糸であなたたちが繋がっているんだから危ないよと言ってやりたかったが、思い留まった。
「きっと、誰が見たってそうは見えないんだと思う。でも、なんとなく嫌な感じがするの。お母さんが嫌な思いをしそうな予感が」
嫌な思いをするのはあなたの方かも、とも言えず、私は押し黙ってしまう。
手っ取り早いのは、ここで子乃実と彼との間に伸びる糸を切ってしまうことだ。子乃実の気持ちや心配はどうであれ、とりあえず悪縁の証である緑色の糸さえ切ってしまえば、目の前の新たな友人の安全は確保される。
私はバッグに手を入れ、糸切鋏があるはずの場所をまさぐり、指先で確信を得る。
「変な風に思わないでほしいんだけど」
私は言葉を紡ぐ。
「おまじない、してあげようか」
子乃実は小首をかしげて私を見る。
「おばあちゃん直伝の、安心のおまじない」
いきなりすぎたかな、と思いながら、子乃実の反応を待つ。
彼女が「それじゃ、お願いしようかな」と言ってくれたので、少しの間、目を閉じてくれるようにお願いした。
私はバッグから糸切鋏を出す。岩木山にある石神神社近くの湧水で清められた鋏だ。飲めば万病に効く水とされるが、私達にとってはそういう力をもたらしてくれる水だった。
私はそおっと彼女の小指の先の緑色に鋏を近づける。目をつぶってもらったのは、この光景のせいだ。見えない人からすれば、空中目掛けて古びた糸切鋏をかちかち言わすのだから、正気を疑われても仕方ない。
刃を交わす。糸が切れ……ない。あれ?
二度、三度、しょきしょき言わせてみるが、糸が切れない。初めてやったわけではない。切れるはずだった。しかし、切れない。
「終わった?」
「あ、うん、あと五秒くらい」
私は慌てて鋏を下げ、バッグにしまった。
なんだか安心出来たような気がする、と笑う子乃実に、私は曖昧に笑いながら応え、机の下でスマホを動かす。そして祖母への連絡先を開き、指先で文字を打ち込んでいく。
「糸、切れなかった」
祖母からの返信を待ちながら子乃実の話に相槌を打つ。内容は頭に入ってこない。
手の中で振動を感じて、画面を見る。
「くさりえん」
五文字を見て、思わずあっ、と声が出た。
「どうしたの」
子乃実の当然の問いに、私は「お手洗い、借りていいかな」とごまかした。
鍵をかけて、画面を見直す。
「鎖縁」だ。前に何度か、おばあちゃんが対応に苦慮したことがあった。一般に知られている「腐れ縁」の語源になったもので、切っても切れない間柄になっている証だ。
祖母が解決したときの記憶をたどる。確かあのときは、当人に悪縁を自覚させた上で、小刀で切っていた。どちらも今は難しい。
私は指で祖母にメッセージを送る。
「彼女の母と男は赤い糸、その男と彼女に緑の糸。緑は鎖縁。どうする?」
そして、待つ。ここに居る時間が長くなるのは少し恥ずかしいが、今は仕方がない。
「明日、家に」
思ったよりも早く祖母からのメッセージが表示された。ほっとして、私は用を足したふりをして水を流し、子乃実の部屋に戻る。
それからまた他愛のない話をして、明日また家に来るように祖母が言っていたと伝えた。彼女は時間の確認をし、了承してくれた。
「それじゃ、そろそろおいとましようかな」
私が立ち上がると、子乃実も立つ。
「泊まっていってもいいのに」
本気とも冗談ともとれる目に、私はまた今度ね、と笑って返す。
玄関先で靴を履いていると、母親と、例の彼も見送りに来てくれた。
「お家まで送っていこうか」
鍵を見せながら申し出たのは、彼だった。
「いえ、悪いですから」
断りながら、あらためて彼の手を見る。その指の糸は、薄い緑色だ。
あれ……と思い、並んだ子乃実の手を見る。その指の糸は、明らかに緑が濃かった。
そうか。そういうことか。
「また遊びにきてちょうだいね。この子、ほとんど友達を連れてこないから」
母親の言葉に、子乃実は憮然とする。
「私は、お母さんが寂しがるといけないと思ってるだけだもん」
私は小さく笑って、言葉を紡ぐ。
「子乃実、明日、待ってるね」
彼女は、笑顔で応えてくれた。
私は家を出て少し歩いてから、祖母の電話をコールした。
「問題は、あなたの側にあるようです」
祖母は開口一番に子乃実に告げた。当人はきょとんとしている。
「昨日、あなたがうちに来たとき、悪縁が見えました。あなたのお母様のお相手が良くない男で、あなたに何か悪さをするだろうと思い、孫に様子を見て来てもらいました」
子乃実が横の私を見る。私は口を一文字に結んだまま、ただ見つめ返す。
「それで分かったことは、あなたの悪縁は、あなたの側から出ているということでした。お母さまへの愛しさから、その男性のことを悪し様に罵ったり、非道な行いを想像したり、事故を願ったりしてはいませんでしたか」
祖母の言葉に子乃実はうつむいてしまった。今日は、お茶は準備していなかった。その代わり、子乃実の側に座っていた。何が出来るわけでもないけれど、まだ友達としての歴史は一日だけだけれど、そうするのが正しいように思えたから。
耳が痛くなるような沈黙が流れる。
こちこちという柱時計の音が耳に帰ってくる。子乃実の唇が少し動いたような気がしたけれど、声は出てこなかった。
それでも私達は待った。鎖縁を切るためには、どうしても当人の自覚が必要だからだ。これは自分から生まれ出た悪縁なのだという受容だけが、鎖をほつれさせる。
「母を」
こぼれるような声を、私達は掬う。膝の上にきゅっと握られた拳にこぼれたのは、子乃実の涙だった。
「母を、とられたくなかったんです」
涙がぽろぽろ落ちる。私はテーブルの上に置いてあったティッシュを数枚取り、子乃実に手渡す。
私には、分からない。両親が赤い糸で結ばれている私には、母と娘二人で歩んできた時間がどれほど尊いのか、想像がつかない。そこに他の誰かが踏み込んできたときに、その人に害を与えても構わないと考えてしまうほどのものなのか。
柱時計の音と、子乃実の嗚咽と、鼻をすする音と、つられて私が鼻をすする音が、不規則にリレーする。
どれくらいの時間が経ったか分からない。
祖母が、ふいに言葉を紡いだ。
「その縁、切りませんか」
子乃実はしゃくりながら頷いた。
同い年の依頼人が落ち着くのを待って、私達は祖母の車に案内した。
「どこに行くの?」
落ち着きを取り戻した子乃実が私に聞く。
「岩木山の麓の、赤倉霊場にある御堂。そこで、あなたの悪縁を切るの」
祖母のやや荒っぽい運転で、私達はすぐに目的地のそばまで来た。ここからは歩きだ。
「岩木山に入るのって、実は初めてかも」
「大抵の人は、そうだよ。さ、こっち」
私は子乃実の手を握りながら、引っ張りながら先を歩く。子乃実の手は、まだ少し濡れている感じがした。
山裾は、夏の緑の、きらきらするような青いにおいでいっぱいだ。
林道を進んでほどなく、二十八ある御堂の内の、祖母が鍵を預かっている小屋に着いた。古木と苔のにおいが漂っている。
「すぐ終わるからね」
言いながら子乃実のほうに向き直り、その顔を見て、どきっとした。彼女の目はまだ少し赤いまま潤っていたが、何か強さのようなものを感じるまなざしだった。
祖母は子乃実に、御堂の中央に正座するように言い、自分は奥に入っていった。いつもなら私は、邪魔にならないように壁際に立つか、入り口の傍に立ったままでいる。ただ、今回は、友達の隣にちょこんと座った。
「それでは、目をつぶってください」
祖母の声に、子乃実はぎゅっと目を閉じる。サンッと乾いた音が鳴る。祖母が、小刀を鞘から抜いた音だ。聞き慣れない音に、子乃実が体を震わせる。私はもう一度、すぐ終わるからと言った。大丈夫だよ、とも加えた。
祖母は、小刀を子乃実の右手小指に近付ける。そこに、昨日までは緑色だった、今は黒くなっている糸がある。ただ、糸の輪郭は、昨日見たときよりもおぼろげになっていた。
スッ、と切っ先が動く。黒い糸はあっさりと、音もなく絶たれた。子乃実が自分の悪心に立ち向かえたからこその、あっけなさ。
祖母は小刀を鞘に戻し、終わりましたよと言った。いつから呼吸を忘れていたのか、子乃実は大きく息を吸って、また吐いた。
「お疲れ様」
私がそう言うと、彼女は私の胸で泣いた。
「今日の約束って三時からでいいんだよね」
私は応接間のソファに座って、柱時計を見ながら祖母に言う。短針も長針も、二を過ぎたばかりだ。
「そうだよ。いい歳のおじさんって声だったかね、電話の感じだと」
祖母が給湯室から答える。
「払いがよさそうだね。前回と違って」
私が笑うと、祖母も笑う。
「この間の報酬を受け取らないって決めたのは、葵、あんただったろう」
「だって、受け取れないでしょ。友達がこつこつ貯め続けてきたお年玉なんてさ」
あの後、子乃実は謝礼だと言って十万円が入った封筒を渡そうとしたが、私は断った。
「母親の恋愛で気が動転してるところを、友達に相談に乗ってもらって、気持ちの整理がついたってだけでしょ。傍から見ればさ」
子乃実は食い下がったが、私がお金を受け取るか、私達が友達のままでいるかの二択を迫ると、不承不承取り下げてくれた。
「それにしても、やっぱり時代だね。インターネットで、ここの情報を見つけて来るなんてさ」
私はスマホを操作しながら、いくつかのアプリケーションを開いてみる。でも、どれがこんな商売に繋がっているのか、私には分からなかった。探してここにたどり着けたという時点で、子乃実と私との間には縁があったのかもしれない。
「その内、報酬も電子決済で受け取るようにしたら?」
冗談めいて私が言うと、祖母は、それはいいアイディアだねと笑った。
「あんたが後を継いだら、そうするといい」
勘弁してよと笑って、ソファに横になる。私はスマホの電源を落とし、右手を見る。
小指の先で伸びる青い糸は、今頃夏期講習を受けているはずの子乃実と繋がっている。
青は合縁、尊敬と友情の印だと教わった。
「袖すり合うも他生の縁、かぁ」
私は生まれて初めて出来た、自分の指の糸を見る。
昨夜気付いて、朝も確かめたのに、今また見ても、私の顔はにやけてしまうのだった。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。