60.太陽が昇る⑥
シオリアとソレイユは別宅に帰宅した。
本宅よりも一回り小さな屋敷には、本宅で働いていた使用人たちの姿がある。親衛隊の隊員たちも、屋敷の周囲を警護している。
「ソレイユ、疲れたでしょう? 部屋に戻ってゆっくり休みなさい」
「お母様はどうされるのですか?」
「私はまだお仕事があるのよ。貴女は気にせず休みなさい。食事の時間になったらまた会いましょうね」
「……はい」
二人は食事や外出の時以外、ほとんど会話をしない。同じ屋敷の中で暮らしているのに、親子らしい光景は見られない。
とぼとぼと一人、自室へと歩いていくソレイユを見送り、シオリアも自分の部屋へと向かおうとした時、彼に呼び止められる。
「シオリア」
「あら? 珍しいですわね。貴方のほうから会いに来てくれるなんて」
シオリアを呼び止めたのは、彼女の夫であり前当主ラルド・ヴィクセントだった。彼は眉間にしわを寄せ、表情からは怒りが漏れ出ている。
対するシオリアは変わらず、ニコニコと笑みを浮かべたまま応対する。
「どうかなさいましたか?」
「それはこっちのセリフだ。どういうことか説明してもらおうか?」
「何のことでしょう?」
「惚けるな!」
ラルドは怒りのままに叫ぶ。付近にいた使用人たちはラルドの声に怯え、縮こまってしまう。しかしシオリアは全く動じていない。表情も変わらない。
ラルドは怒りで声を震わせて続ける。
「当主の座をかけてセレネと決闘だと? そんな話は聞いていないぞ!」
「それは当然でしょう。貴方には話していませんから」
「なんだと……この私に何の許可もなく決闘など……何を考えている!」
「貴方こそ、どの立場からそんなことを言っているのかしら?」
「なっ……」
シオリアは笑顔のまま、冷たく言い放つ。
「ラルド、貴方はもう当主じゃないのよ。この家で決定権を持つのは、異能を所持する当主だけ……今はソレイユと、一応セレネがそうね」
「ソレイユ……ソレイユもここにいるだろう? 呼んできてくれ」
「どうして?」
「問い質すんだ! 異能に目覚めていることをなぜ私に教えなかったのか!」
ラルドはソレイユが太陽の異能に目覚めている事実を知らなかった。それを知ったのは、セレネとの決闘を決めた前日である。
彼は二人が対立するまで、何も知らなかったのだ。彼が怒っているのは、自身に異能のことを教えなかったソレイユに対して……そして、何の相談もなく事を進めた妻に対して。
「問い質す?」
「そうだ!」
「何の権利があってそんなことをするのかしら?」
「なんの……だと……」
「ないはずよ。貴方はもう当主じゃない。当主の資格を持っているのはソレイユなの。あの子を責めることが貴方にできるわけないでしょう?」
シオリアはラルドを馬鹿にするような笑みを浮かべる。
その笑みは不気味で、それ以上にラルドの怒りをふつふつと膨れ上がらせる。拳を震わせながら握り閉め、怒りのままにラルドは叫ぶ。
「お前は――!」
「何かしら?」
「……」
何かを叫ぼうとして、ラルドは口を紡ぐ。
ここまで怒りを露にしたラルドを前にしても、シオリアは一切表情を崩さない。まるで紙に描かれた似顔絵のように、表情の時間だけが止まっている。
それが不気味で、気持ち悪いとラルドは感じてしまった。
「何もないなら行くわ。やることがたくさんあるの」
「……」
「安心して。この家のことは私がなんとかしてあげるわ。貴方の代わりに」
そう言い残し、ラルドの隣を通り過ぎる。
この時、ラルドは背筋が凍るような感覚に襲われる。彼女がすぐ隣を横切った時、不気味な気配を感じたのだ。
それは人のものではなく、むしろ……。
「待て」
ラルドは呼び止める。その異様な感覚を、確かめるために。
「何?」
立ち止まり、振り返った妻に向けて、ラルドは尋ねる。
「……お前は、誰だ?」
睨むように、訝しむように、率直すぎる疑問を口にした。
シオリアは笑顔のまま答える。
「誰って、私はシオリアよ?」
「……本当に、そうか?」
ラルドの脳内では疑問が沸き上がる。
違和感はずっと前からあったのだ。彼女……セレネの出生の秘密が露見した辺りから、シオリアの様子がおかしくなった。
ラルドの記憶の中にいるシオリアは、いつも穏やかで落ち着いていて、陽だまりに咲く花のような笑顔を見せる人だった。
こんな風に、不気味な笑顔だけを張り付けた人形のような女性ではなかった。彼女はもっと感情豊かだった。
ラルドが愛人との間に産んだセレネのことを知った時も、ひどく怒り泣いてラルドのことを責めた。浮気されたのだから当然だろう。
それでも、生まれてくる子供に罪はないからと、セレネに対しては本当の母親のように接していた。
だが、セレネの出生が周囲に露見して、ラルドが態度を豹変させた後、突然彼女は本宅を飛び出し、別宅で暮らすようになった。
ラルドやソレイユともあまり話さず、一日中部屋の中に閉じこもって過ごす日々が続いた。そんな日が続いて、一年が経過したある日、彼女はケロっとした顔で別宅から出てきた。
ラルドは当初、立ち直ってくれたのだと安堵した。しかし、何をするにもニコニコ笑い、怒ることも悲しむこともなくなったシオリアを見て、彼は落胆した。
妻の心は壊れてしまったのだと。と同時に、こうも思っていた。彼女は本当に、自分が知るシオリアなのか……と。
その疑問が今、この瞬間に膨れ上がる。
「私はお前をよく知っている。誰よりも近くで見てきた。だからこそ、今のお前には違和感しかない……まるで別人のよう見える」
「……それは当然でしょう? こうして話す機会も減ってしまいましたから」
「そういう次元の話ではない。性格が多少変わった程度なら、私もこんなことを言わない。今のお前から感じる雰囲気は、まるで魔――」
直後、ラルドは寒気を感じる。
先ほど、通り過ぎた際に感じたものとは別格の……命の危険感じる寒気を。
理由は明白だった。ずっとニコニコ笑みを浮かべていたシオリアが、初めて睨むようにラルドを見ている。
「お前は……」
「私はシオリア、貴方の妻よ」
「……」
違う、とラルドの心が叫んでいる。
もはや疑いではなく、彼の中で確信へと変わりつつあった。自身の妻、シオリア・ヴェルトは何かに代わってしまっている。
それが何なのかわからない。わからないが……危険だと直感していた。
「貴方は何も心配しなくていい。これは貴方のためでもあるのよ」
「私の……ためだと?」
「ええ、私の愛する夫から大切なものを奪った女……難いでしょう? 腹が立つでしょう? 殺してしまいたいと思わない?」
「――!」
寒気は明確に、殺気へと変わっていた。
人間が放つ領域の殺気ではなく、周囲の使用人たちも怯えて声すら出せず、その場から動くことすらできずにいた。
「私が全部叶えてあげるわ。何もかも失ってしまった貴方の代わりに……憎い女のことなんて、忘れさせてあげる」
「シオリア……」
彼女の瞳からは、あふれんばかりの憎しみが感じられる。
ラルドは気づく。憎しみの矛先は自分とセレネだけに向けられているわけではなく、今は亡きもう一人の……彼女に対しての怒りも含まれていることに。
同時に理解する。
目の前にいる彼女は、確かに妻のシオリアだと。しかし、同一人物ではなく、何かが混ざっている……否、取り憑かれているのではないかと。
彼らは知らない。
異能が生まれた理由を……そして、魔獣が何から生まれたのかを。
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