31.寂しがり屋の心配
睡眠は生物にとって必要不可欠な行為だ。
一日の生活で蓄積された疲労を回復し、身体の状態をリセットする。
ただの習慣ではない。
睡眠を疎かにすれば、身体に負担がかかり続け、最悪の場合は死に至る。
そう、生きるために眠る。
自身の命を繋ぎ留め、明日を生きるために休む。
ならば、不死の身であれば眠る必要はない。
生きるために必要なことがない者は、何をしようと生きている。
生き続けている。
明日を望もうと、拒もうと、不平等に明日は来る。
俺にとって眠るという行為はただの習慣でしかなかった。
しかも眠る度に悪夢を見るんだ。
いいや、悪夢というよりは昔の思い出を。
俺がまだ人間だと胸を張って主張できていた頃の……。
ただ、最近は別の夢を見るようになった。
これも夢と呼ぶにはいささか語弊がある。
俺が見ているのは記憶だ。
今日までの記憶……俺ではなく、彼女の記憶。
誰も知らない彼女が繰り返してきた過去が、俺の中に記憶として蓄積されている。
恵まれた環境で、恵まれない日々を送り……。
望まぬ異能を開花させ、罪なき魂が汚されていく様を見せられる。
孤独、絶望、恨み、諦め……。
この記憶から流れ込んでくる感情は、どれも辛く悲しいものばかりだった。
心が痛かった。
俺とは違った宿命を背負った彼女を、放っておけないと思った。
だから俺は――
「――ぅ、ああ……朝か」
締め切ったカーテンの隙間からわずかに朝日が差し込む。
身体に触れていなくても、異常な嫌気を感じて目を覚ました。
俺は大きく背伸びをする。
「ぅうーん、はぁ、またあの夢か……最近多いな」
ここのところ毎日のように夢に見る。
彼女の過去。
今の俺が体験していない九回分を補うように、昨日の記憶が重なる。
俺が知っているのは昨日の、九回のループを経た彼女だけだ。
それ以外の過去で、彼女はいつも悲しんでいた。
運命に翻弄され、抗うこともできないまま苦しむ姿は……。
「ったく、見てられないな」
幸いなことに、今の彼女はいろいろと吹っ切れている。
九回分のループが彼女を強くしたのは間違いない。
必要な経験だった……というのは無責任だろうけど。
今の彼女は前を向いている。
前だけを見ている。
そんな彼女が向かっている未来がどんな場所なのか興味があった。
協力関係になったのも、半分は自分の目的のためで、もう半分はそれが理由だ。
俺とは異なる地獄を経験し、今にたどり着いた彼女がどこへ向かうのだろうか。
身支度を済ませた俺は部屋を出る。
広い部屋に天井の高い廊下は、王子だった頃を思い出す。
もしあのまま成長していたなら、こうして彼女の屋敷を歩くこともなかったかもしれないな。
「ねぇあの人が護衛なの?」
「そうらしいわ。当主様がそうおっしゃっていたもの」
「どこの誰なのかしら」
「わからないわ。それにしても不吉よね……あの真っ黒な髪……」
「ええ。でもお似合いだと思うわよ。今の当主様とは」
廊下を歩いていると、使用人たちからヒソヒソ声が聞こえてくる。
向こうは聞こえていないと思うだろうけど、残念ながら俺は耳がいい。
陰口も丸聞こえだ。
この数日、毎日のように聞いていたから慣れたけどな。
「ったく、飽きないな」
彼女もきっと同じように思うだろう。
敏い彼女のことだから、たとえ耳に入らなくても気づいているはずだ。
自分が影でどう思われているかなんて気にしていない。
ただ、端から見ていると少し心配ではある。
ここは彼女の家で、彼女は当主だ。
なのに、彼女に心から味方する人間は……いないように見える。
「あ、あの!」
「ん?」
ふいに呼び止められた。
正直驚いた。
この屋敷で俺に声をかけてくれるのは、セレネだけだと思っていたから。
俺は振り返る。
そこに立っていたのは、小さく可愛らしい女の子だった。
「君は……」
「初めまして! 私はソレイユです」
なるほど彼女の妹か。
道理で誰かに似ていると思ったわけだ。
「こんにちは。私は――」
とここで、当主様に言われたことを思い出す。
貴方は私が選んだ護衛なのよ。
変に畏まったり、他人に媚びへつらう必要はないわ。
屋敷の中でも外でも、常に堂々としていなさい。
あれは自分の威厳のため、もあるだろうけど。
たぶん元王子から名もなき一般人になった俺への気遣いもあったのだろう。
実際、かしこまった感じは苦手だ。
ここは彼女の気遣いにあやかろうと思う。
「俺に何か用かな?」
「はい。貴方がお姉様の護衛さんですよね?」
「そうだよ。彼女に何か?」
「いえ、その……お姉さまはお元気でしょうか?」
言い辛そうにもじもじしながら聞こえた質問は、何気ない日常のフレーズだった。
「どうして俺に聞くんだ?」
「お姉さまはお忙しそうで……私が話しかけたらお邪魔になってしまいますから……」
姉妹なのだから遠慮しなくていいのに。
なんて軽はずみには言えない。
この家の事情はおそろしく複雑だ。
他人が軽々と入り込める隙間もないほどに。
「元気だよ。むしろ元気過ぎるくらいだ」
「本当ですか! よかった……」
彼女はそう言って笑う。
その表情はしっかりと安堵していた。
俺はふと思ったことを口にする。
「君は彼女が怖くないの?」
「え?」
「あ、いや悪い。今のは忘れてくれ」
咄嗟に出たこととはいえ、今の質問は意地悪だった。
回答は聞くまでもないだろう。
「怖い……です」
そう、怖い。
彼女はそう答えた。
「でも、本当のお姉さまは優しい方なんです。私は……知っています。だから……」
「君は……そうか」
ここに彼女の味方はいない。
なら、せめて俺は味方をしてあげないと可哀想だ。
なんて、思いかけていた自分が恥ずかしい。
同情で味方になることを彼女が望むはずがない。
それに、杞憂だった。
「あいつはあー見えて寂しがり屋だからな。ちゃんと見ていてあげてくれ」
「ぇ……はい」
「うん。じゃあな。君が心配してたってことは伝えておくよ」
喜ぶがどうかはわからない。
彼女は表情にあまり出さないから。
それでも、嫌な気分にはならないはずだ。






