さよならエヴァンゲリオン
※シン・エヴァンゲリオン劇場版のネタバレはありません。
春分の日って、今日からもう春ですって意味だったっけ――。
スマホで検索しようかと思ったが、列に並んでいる最中にそれをやるのは少し気が引ける。スマホが入っている春物コートのポケットに手を突っ込んだまま、マスクの端から漏れる白い吐息に「まだ春じゃねえな」と感じていた。
弐零弐壱年、参月弐拾日。
公開から早弐週間近くが過ぎようとしているこの日、僕は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を観るために、映画館の行列に並んでいた。
上映開始参拾分前には来たというのに、映画館の外にはみ出るほどの行列ができていた。弐時間四拾伍分という上映時間を知って、午後に行くのはかったるいと思っての朝イチ上映を狙ったのだが、考えることはみんな同じだったらしい。牛歩のように進まない列で「間に合うかな…」とぼんやり考えつつ、こんなに暇を持て余すなら壱人で来て良かったのかもしれない、と思った。
壱週間前、父を映画に誘って、断られていた。
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シンエヴァにまで付き合ったのだから壱端のファンを名乗りたいところだが、白状すると、テレビシリーズのリアルタイムはほとんどスルーしていた。たぶん夕方に観る番組に勇者ロボシリーズを選んでいたからだと思う。(このときやっていたのは黄金勇者ゴルドラン。視聴当時は気にしていなかったが、シリーズの中でもなかなか狂った作風だという。おもしろかった。)
初めて見たのは、自宅ではなく友人宅。シャムシェル戦であった。そのときは「こんな番組もあるんだなあ」と思うだけだった。面白かったとか、つまらなかったとか、どんな感想を持ったかはよく覚えていない。ただシャムシェルは可愛いと思った。
どうも僕は大ヒット作品とか、歴史の転換期となる傑作とは相性が悪いらしい。
しかし、壱度は乗り損なったエヴァの波は、いつでも僕の傍で寄せては返し、足元を浸していた。
その波の先にいるのが、父だった。
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父は、旧い時代の、硬派なオタクだ。
今となっては御伽噺に聞こえるかもしれないが、オタクが、オタクというだけで悪しきモノとされ、好きなものを好きと言えない時代は確かにあった。その時代を生きた名残か、家の本棚をSF小説や特撮雑誌、ガンダムを録画したVHSで埋めても、自分からその話をしようとはしなかった。
もちろん、家には僕もいるので、本棚のものは手に取る。そして僕が話題に出すと、不本意な態度を装って饒舌に喋り出すのだ。子どもながら、僕は父のそういうところを理解していた。
僕は父の理解者だった。
だから、同じように本棚に並んでいる『新世紀エヴァンゲリオン』とラベルの貼られたVHSも、観て、理解しなければならなかった。
エヴァは、社会現象にまでなったアニメであり、つまり社会の大部分である大人たちに響いたのであり、裏を返せば子どもである僕にはよくわからなかった。別に「つまらない」と思ったわけではない。ただ、どうして大人がそこまで夢中になるのかが、わからなかった。
父にはわかるようで、本棚にはエヴァ関連の本が増えていった。父は大人なのだから当然といえば当然なのだが、僕にとって増え続けるエヴァは、僕と父の間の溝に等しかった。
もちろんそれらの本にも手を出した。エヴァで学ぶなんちゃらのような怪しげな本も、本棚にあったので読んだ。父はゲームまで買っていたのでそれもやった。ミサトさんのビールを買うために走ったり暴走するジェットアローンを追いかけて走ったりしたけどやっぱりわからなかった。こんなんでわかってたまるか。
その間、父とエヴァの話をしたことはなかった。あったとしても表面をさらっと撫でる程度であったのだろう、何も覚えていない。僕はちゃんと理解した上でエヴァの話をしたかった。
わからないのか、と父に言われるのが耐えられなかった。
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序は、見たことあるやつだった。
破は、庵野監督がこれ作ってる間俺は何してたんだ、と放心した。
Qで、わかりかけていたものがわからないままになった。なんだこれ。
新劇場版になってもエヴァがわからないまま追いかけて、とうとう完結編であるシン・エヴァンゲリオン劇場版の公開日が決定したとニュースがあった。
これで最後。そう思うと、俺は「結局よくわからなかった」と敗北宣言をするつもりで、父にいつ観に行くかと訊いた。しかし、父から帰ってきたのは意外な言葉だった。
「いや、よくわからんからもういいや」
よくわからん。だからこそ、父もエヴァ関連のあれこれに手を出していたのだ。そういえば父は新劇場版からはエヴァの話はしなくなっていた。それは、旧劇場版で愛想が尽きたのかもしれないし、庵野監督が悩み続けていたQに先に答えを出していたからなのかもしれない。
エヴァからさよならを言われるまでもなく、父はさよならを済ませていたのだった。
*
俺はエヴァを、父とのコミュニケーションツールとして理解しようとしていた。
エヴァを「わからない」と感じていたのは一種の反抗で、あるいはそれを、もっと早く正直に言っていれば、実はわかっていなかった父と何だかんだで一緒に釣りをしていたかもしれない。釣れない魚の代わりに、エヴァはわからねえなと愚痴を肴にして酒を飲んでいたかもしれない。
そう、エヴァが始まって完結するまでの間に、俺は酒を飲めるようになっていた。仕事もしている。エヴァがなくても、父と話すことは山ほどあった。エヴァは、波しぶきが届かない丘まで上ってしまった父にとって、俺とする話ではなくなっていたのだ。
役割を果たせなくなった今、エヴァの完結を見届ける道理はない。
いや、違う。
俺にはさよならが必要だった。
父を追いかけたつもりで、いつの間にか、波を胸から上に浴びる程度には、浸かってしまっていた。俺は父以上にエヴァに愛着を抱いていた。特にシンジくんには、Qのまま終わってほしくはなかった。俺はたぶん、父親と上手くコミュニケーションをとれないシンジくんに肩入れしてエヴァを観てきた。俺と違って、彼はまだ充分に語らっていない父がいる。それにケリをつける姿をきっと見せてくれると思い、映画館にまで足を運んだのだ。
後ろに並んだグループもどうやらシンエヴァを観に来たらしい。が、並ぶ人数に日和ってプリキュアにしようかと相談しているのを聞き流し、行列と共に前に進む。波しぶきが顔まで来る。水に浸かっているというのがあながち比喩でもないなと思うほど冷える。やっぱ、まだ春じゃねえな。
シンジくんは卒業するのだろう。
俺が卒業できるかはわからない。
願わくば、おめでとうと言える最後であらんことを。
そして、ありがとうと返してくれるようなシンジくんであることを祈りつつ。
さよならエヴァンゲリオン。