母なる人は、逆さまつ毛を直すのだけは上手なひとでした
仕事帰りの車に乗ったときから、そのイライラは始まっていた。車を留めるほどでないが、意識はそちらに向かう。いつもより少し長めの時間を感じた帰りの時間が終わり、着いたらすぐに洗面台に向かう。
シャー-- ジャー ジャーー-
慌てていたので、水はシンクを跳ね返し、リビング中を響かせてしまう。-どうしたの、慌てて・・・・・あーもう、また水道の水、フローリングに撒き散らさないでよ、の妻の声が後ろから追いかける。もともとこうしたことにはうるさい女だが、新築してからはなおさらだ。気配から目を光らせるタイミングがますます冴えてきた。
右手で右目を洗う。何度も何度も。パチクリしても変わらないので、今度は左手でやってみる。感じが変わったので、取れたかと思って再びパチクリしても、「それ」は残ったままだ。鏡に目を見開いて、人差し指でひっくり返した瞼を観察してみても、それは見つからない。ぱちくりすれば、前と同じイライラに戻ってしまう。
「ゴミでも入ったの、見せてごらんよ」
こんなフットワークのいい誘いは危険だ。あーあ不器用なんだから、わたしにかしてごらん、すぐに、ぱっぱらぱっと片付けちゃうからの勢いで始めて、それがリズムを狂わせノリの悪い状況でも認めたら、おはちはこっちに回ってくる。「だいたい」とか、「いったい」とかのフックを付けて、問題を抱えているこちら側にイチャもんを付けてくるのだ。
「なぁーんだ、逆さマツゲじゃん。目尻から1センチのところに1本だけガンコそうなのが目玉を引っかいてる、・・・・でも、何だか・・・・・・フフっ」
ー ひとが痛がってるのに面白そうにするなよーと。でも、このふんわり加減ならスムーズに対処してもらえそうだ。
「だって、逆さまつ毛なんて、小っちゃい仔みたいなんだもん。ほーら、こんなツケマツゲみないなきれいなまつ毛が取れたよなんて、小さくて可愛らしい男の子に向かって云うセリフでしょ」と、まだ笑う。それが何だか心地いい。綿棒つかって掬い上げ、毛抜き一回で仕留めたカーブの長い一本を手渡されたから明るく聞こえる。でも、それだけではないらしい。もう一度、仕留められたあとの右目を鏡で見ていたら、皺やぶつぶつに混じっていつの間にか二重に変わってしまった眼の瞳孔が少し震えてる。放っておいたあの頃の記憶に繋がり、感覚が戻されていくようだ。
小さな頃は、きっちり一重だった。細い目だったのもあって、作り笑いの出来ない仔だった。男の子だったし、家の中で鏡を意識する様子もなかったから、努めて鏡に顔を映し出すことはなかった。当時の、一緒に写ってるからと、焼きまわしてもらった写真をみても、目も口も横一文字ばかり。
それでも、おばさんたちにとっての男の子は私一人だったから、見つめてもらっていないと意識することはなかった。だから、可愛がられるための努力をしたことがない。それがこの齢まで引きずられ、家の中でも外でも嫌な足跡が引きずられる元になっている。
「でも、コウちゃんのまつ毛、すっごく長くてカールしてて、欲しいわぁー、うらやましいわぁー」
こう、何度も言われた。口真似できるほど覚えているのは、女兄弟ばかりだった母の妹の妙子おばさんだ。この頃は、まだひとり身だったが、早熟で子供っぽい末の妹の困ったところが、みんな揃ってるような人だった。
下から二番目だった母は、末の妹であるその叔母と一番に仲が良かった。そして憎んでもいた。そうした事情がわかるのは、祖母が亡くなり、その後のそうした会合があって、縁遠くなった五人の姉妹が集い帰ったあとの一週間、思い出したように溢れる母のひとりごとに、依った。まだ小学校にあがらない私しかいない時に発するのだが、それを相手にしてはいけない知恵は、すでに付いていたように思う。
私はひとりっ子で、ませた子どもを育む家だった。
「うえの姉たちが順繰りにお嫁にいくと、妙子なんか出戻りのくせに、早くしないと押し付けられるって顔して、そんな気のないくせして向こうがその気だからって下駄屋の次男坊とくっついてさ・・・・・・お父さんが裏店のこんな借家に婿に来てくれるまで、三年もかかったんだから」
一人残った母は、すでに養われる以外に術のなくなった両親を養うため、ひるまの勤めとは別に、前職のミシン工場で覚えた技術を生かし、夜は借家を改装した二階で内職に工業用ミシンのペダルを踏んだ。雇われ職人の父の稼ぎだけでは、ここからの脱出はできないと、私を産んでからの母は、勤めは止めてもペダルは踏み続けた。
いつでも、いまでも、思い出そうとすれば重い鋳鉄を軽やかに廻す工業用ミシンのペダルの音が聞こえてくる。シャリシャリ、しゃっしゃ、シャリシャリしゃ。その音が私の原風景なのだろう。
そんな日常で、保育園の迎えは、同じ園に通わせてるオバさんがその二人の子らと一緒に、通りを二つ回り込まなくてはいけないのに、寄ってくれた。反対に朝の送りは母の当番だった。おばさんは朝が弱いのか、ときたま迎えにいっても三人そろって眠っている時があって、ふたりの母親がお祭り騒ぎで二人の子の着替えと朝飯を超特急で済ますと、「いってきます」、「いってらっしゃい」の号令を合図に、母はふたりの子を抱えるように保育園に走った。わたしは後を追った。
ひとの子をふたり抱えて走る母の後ろ姿を、私は好きだった。いつでもここで横っ腹が痛くなる。わたしは作り笑いはできないが、昔から笑い上戸だった。
ふたりの兄弟とは、とりとめて性の合う合わないはなかったが、母は、そのおばさんととても仲がよさそうに見えた。母のそんな様子は珍しかったので、私はその兄弟とは仲良く遊んだ。保育園が撮ったものでない当時の写真は、すべてそのおばさんが撮ってくれたものだ。カメラは今よりも高価で、世間はもっと貧しかったが、子どもがいる家でも、カメラとカラーテレビは揃い始めていた。我が家にはどちらもなくて、母は焼き廻しを貰うたび「いつもすまないね」と言ったが、私の映り具合に言葉を足し添えた記憶はない。お愛想でも「せっかく撮ってくれるのに、笑顔がつくれないのかねぇ、この子は」などと冗談を挟む隙間を持ち合わせていないひとだった。
それは保育園からの帰りだったと思う。おばさんと兄弟ふたりを見送って先に部屋に上がっていた私がいつまでも目をこすり続けているのをいぶかって、こすっていた手をどかせると、顔を近づけ、目を凝らし、見入ってきた。
「あーあ、逆さまつ毛だ。おまえの目尻、そこだけカールかけたみたいに逆さまつ毛になってるんだ。付け根はアイロンかけたツケまつ毛みたいなのに、ね。でも、もったいないね。これが二重で女の子だったら、どんな宝物になったか。お父さんに似たら二重のハンサムだったのに、しょうがない、わたしに似ちゃったんだから」
母の指が直接、まぶたの縁をなぞっていく。自分の指よりもっと自分の指のように滑らかに逆さになったマツゲを、二度、三度、素直な方にカールしていく。
「もう大丈夫、鏡みておいで、べっぴんさんになったよ」
幼い記憶はそこでとまり、ペダルの軋みもやんだ。引っ込み思案ですぐに大人の後ろに隠れる男の子の細い目は、楽しさと驚きが無縁の中でも見開いた笑顔ばかりを揃えねばならない世間の塵芥を潜るうち、まぶたは拡がり、皺のような二重になった。でも、もう、「二重の女の子だったら宝物なのに」と言ってくれる声は、いない。
お盆が終わったら、9月の命日が十三回忌であることに気づかされた。