そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)3.7 < chapter.2 >
深夜の雑木林を、漆黒の獣が徘徊する。
四つ足の大きな獣は、シルエットだけならば犬か狼に見える。しかし、その大きさは犬とも狼とも違う。体長三メートル、体高二メートルを超える漆黒の獣。それはラピスラズリが変じた『フェンリル狼』である。
「……どういうことだ? 何の匂いもねえぜ……?」
ラピスラズリは人狼と同等の優れた嗅覚で、シアンとナイルの痕跡を探す。だが、何の匂いも感じられない。夕方、彼らは間違いなくこの雑木林にいた。死体発見の一報を聞き、治安維持部隊とベイカーとロドニーもこの場に駆けつけた。それなのに、今は誰の匂いも感じない。この雑木林に漂っているのは、人跡未踏の原生林のような、深い緑の匂いだけなのだ。
「いや、そんな馬鹿な。だって……なぁ?」
「ありえねぇ~。なんだってんだ? 勘弁してくれよぉ~……」
ラピスラズリの報告を聞き、途方に暮れるターコイズとピーコック。彼らも今はサーベルタイガー、フラウロスの姿に変化し、人間以上の聴覚と夜間視力で仲間の捜索を行っている。
この三種は、他の種族よりも感覚器官や運動能力、魔法技能が優れた『上位種』に分類される。姿かたち、能力、魔法特性がほぼ同系の種族であっても、人狼とフェンリルではフェンリルが、ライオンとサーベルタイガーではサーベルタイガーが、イエネコとフラウロスではフラウロスが『上位種』となる。全ての能力値において、その平均が明らかに高いのだ。
その三種が力を合わせ、全力で捜索に当たっているにもかかわらず、ここには何もない。何の痕跡も見つけることができないまま、既に雑木林の全域を四回も捜索している。しかし彼らに『諦める』という選択肢は存在しない。彼らは担当エリアを少しずつ入れ替え、五回目の捜索に出ようとした。
異変が起こったのはそのときだった。
「……なんだ? 今、何か音がしたな……?」
ターコイズの言葉に、息をひそめて耳をそばだてる。すると本当に、雑木林の奥のほうで何かが動く音がした。
それはどうやら、四つ足の獣のようだった。
「二頭いるな。うち一頭は負傷しているか……?」
「……いや、何かを引きずっているのかもしれない。そのせいで足音が乱れているんじゃあないか?」
「ピーコの意見に賛成。負傷とはちょっと違うな」
「サイズ的にどっちも小さそうだし、引きずってる物も軽そうな……?」
「他に気配はない。魔獣だとしても、この三人なら十分いける。どうする、ピーコ」
「俺が風上に回り込む。二人は風下で待ち伏せてくれ」
「了解」
「任せとけ」
散開する三頭。それぞれ体長三メートル超の巨獣でありながら、いざ『狩り』となれば、彼らは瞬時に気配を消してみせる。
一切の物音を立てず、標的に向かって進む。
ピーコックは幻術に長けたフラウロス族である。よほど凄腕のウィザードが相手でなければ、標的のすぐ後ろ、小型ナイフでも確実に急所を突ける距離にまで入り込める。
ピーコックが自分で『やれる』と思えばそれまで。無理だと思えば、風下側の二人に止めを任せるはずである。
しかし、何も起こらない。
ピーコックの動きを待ち続けたラピスラズリとターコイズだったが、五分経っても何のアクションもない。それどころか、ピーコックから『標的沈黙』の一報もないのである。
ターコイズは前脚に取り付けた足環型マイクに向かって問いかける。
「……ラピ、どう思う?」
獣の姿でも使用可能なピアス型イヤホンから聞こえたこの問いに、ラピスラズリも首輪のマイクに答えを返す。
「何かヤバイことになっている気がするぜ」
「行くか?」
「あったりめえだろ」
「だが、おかしくないか?」
「なにがだ?」
「俺はさっき、ピーコックが途中で《幻覚魔法》を使ったものとばかり思っていたのだが……」
「だから、何だよ」
「あいつが俺たちから離れていくとき、どのあたりまで『存在』を知覚できていた?」
「は?」
「俺は雑木林の入り口から二十メートルの地点、大きな栗の木の下のあたりまで知覚できていた。その先、掻き消えるように姿が見えなくなって……」
「いや、待て? 栗の木なんか生えていたか?」
「あっただろう? 暗くてもよく分かるくらい、幹の太い立派な木が」
「ねえよ。つーか待てよ。この林、広葉樹なんか生えてねえだろ?」
「なに?」
「俺が隠れてる木、杉だぜ? ほっそい木ばっかりで、どう移動しても丸見えになりそうでヒヤヒヤしてんだけど!?」
「おい、何を言っている? 俺が隠れているのは、たぶんツツジの類で……栗の木以外、ほとんどが低木じゃないか!?」
「……おい。おいおいおい、おい! ちょっと待てよ! マジでヤベエぜ!? じゃあ何だ!? 俺たちは、そもそも『別のモノ』しか見えてなかったのか!?」
「ラピ! 林を出よう! 《幻覚魔法》への対抗策を整えて出直すべきだ!」
「ああ! こうなっちまった以上、もう五感は当てに……あ? なんだ?」
「どうした?」
「いや、今、声が……?」
「声? こっちには、何も……」
「ナイルだ! ナイルの声がする! おい、『助けて』って言ってんぞ! 早く行かねえと……!」
「待て! 落ち着けラピ! それは……っ!」
幻聴ではないのか。
そんなターコイズの言葉は、ラピスラズリには届かなかった。
通信が切れ、イヤホンからは何の音も聞こえなくなった。
「……ラピまで……!」
これでは雑木林を出るどころか、この場を動くことすら危険に思えてくる。
自分の置かれた状況を再確認すべく耳を澄ませば、風に揺られる枝葉の音、何かの虫の声、小動物の動く音が聞こえる。幻聴と考えるには、すべての音が自然すぎた。聴覚に異常はないように思える。
ターコイズは適当な枝に狙いをつけ、風の魔法《真空刃》を放ってみた。
手元から放たれる魔法、その気配と微かな発射音。
切断される枝先、衝撃で揺れる枝元。
落下した枝先は下草にぶつかり、ガサッという音を一度だけ発する。
視覚、聴覚に知覚のズレはない。
どちらか一方を操作する魔法ではなさそうだ。
「……まさか、脳ミソ丸ごと洗脳されちまってるのか……?」
しかし、ターコイズはその可能性を否定する。なぜなら彼は戦闘用キメラ。十二人の人間が錬金合成されているため、精神と肉体の安定を保つ目的でいくつもの魔法呪文がかけられている。そしてその中には、幻覚や洗脳を無効化する特殊呪文も含まれているのだ。
ターコイズはその後もしばらく、自身の体に異常が無いかチェックを続けた。そして何の問題もなく動けることを確認すると、わざとらしく溜息を吐いた。
「なんだ。はじめから、俺だけが『正しい世界』を見ていたということか……」
人間の姿に戻り、脳内の『仲間たち』に問いかける。
「どうする? 誰がやる?」
すると、次々に答えが返ってくる。
〈君でいいよ、ミノル。僕の能力は、こういった状況には不向きだからね〉
〈くそったれ。俺を出せ。雑木林ごとぶっ壊してやる〉
〈帰ろうよ。ここ恐い〉
〈あ、ああ、あああ、ああああ……〉
〈死なせて。お願い、死なせて……〉
〈うるせえな、狂人と自殺志願者は黙ってろ! 俺たちは死にたくねえんだよ!〉
〈大沢君でも良いと思うけど、ディオ君に出てもらったほうが良くない?〉
〈俺? だったらピエトロでも良いんじゃないか? 探索向きだろ?〉
〈呼ばれてるよ? ピエトロ、起きてる?〉
〈無理。前々回のダメージも回復できてないし、あいつまだ起きられる状態じゃないよ。アタシも、ここはディオで良いと思うけど?〉
〈それなら僕もディオを推そうかな? みんな、それでいいかい?〉
〈異議なし!〉
〈いいぜ〉
〈ああああああー……うあああああぁー……〉
〈だからうるせえなこのぶっ壊れ! 俺もそれでいい!〉
〈決まったみたいよ? 行ってらっしゃい、ディオ〉
〈はいよ、それじゃ……〉
脳内会議の結果、ターコイズの主人格が入れ替わる。地球人『大沢ミノル』から元特務部隊員『ディオ・ターコイズ・スペンサー』へ。そしてその瞬間、肉体も主人格に最適な形状に変化する。
高い身長はそのままだが、体つきはぐっと細く。顔も髪型も、瞳の色までもが変化する。
二十代前半の、まだ少年っぽさが抜けきっていないような顔。その顔でニヤリと笑い、ディオは言う。
「戦時特装、《イビルピート》!!」
サーベルタイガーの始祖となった『神』の力。それはこのディオという人間由来の能力である。キメラ化したおかげでどの人格でも発動できるようになっているが、本来の力を使いこなせる人物はディオ以外に存在しない。
具現化された『神』の力を身に纏い、ディオは高らかに宣言する。
「おい! この雑木林にいる奴! 聞こえているんだろう? 俺の仲間を返してもらうぞ!! 二重召喚! 《タールピット》! 英霊《シャドウライヴズ》!」
付近一帯に出現するコールタールの泉。その漆黒の水面から現れたのは、タールの色に染まった漆黒のサーベルタイガーたちである。彼らは既に死んでいるが、コールタール漬けにされた肉体は朽ちることなく、英霊たちの『器』として使用されている。元々が英霊自身の肉体であることから、魂と肉体の間に無駄な抵抗がない。そのため、他の英霊とは比べ物にならない、非常に高い戦闘能力を有している。
次から次に這い出してくる漆黒のサーベルタイガーはズラリと一列に並び、同時に同じ魔法を使った。
「《剣影乱舞》!」
小刻みに振動する空気に無数の《真空刃》が乱れ飛び、人も、物も、動物も植物も、ありとあらゆるものがたちまち斬り刻まれ、振動によって粉砕されていく。
見る間に粉微塵になっていく雑木林。
進行方向五メートルほどの範囲を更地にすると、サーベルタイガーたちは一斉に前進する。
そしてもう一度、同じ魔法を使う。
震える大気。
風の刃は万物を刻み、地に落とす。
そんな単純作業を幾度か繰り返したころ、ようやく敵が姿を見せた。
「っ!?」
何の前触れもない攻撃。ディオがそれを察知できたのは、キメラ素材となった十二人のうちの一人、『大沢ミノル』の特殊能力によるところが大きい。彼には『連鎖する奇跡』という、原理も発動条件も不明な謎の能力がある。ディオはミノルの直感に基づいて身を屈め、敵の攻撃を『奇跡的に』躱していたのだ。
攻撃は単発。連射も追撃もなさそうだ。
「……なんだ? 今のは……」
ディオは敵の属性を自分と同じ風系と判断した。だが、決定的に違うことが一つある。
風の魔法に『闇』の力が上乗せされていた。
敵の正体は何らかの『闇堕ち』である。
「……ヘイ、Mr.スペンサー? 敵の正体について、ヒントをもらっても?」
無駄を承知で、自身の内の『神』に問う。
キメラ化の影響で正常な思考能力を失った『神』は、案の定、出鱈目な答えを寄こした。
「今朝の夕食はコカトリスの鉛筆が、トンネルの、マメ! サルモネラ菌のドリーム和え!! ボナンザ!!」
「OKありがとう! もういいや!!」
「めそ!」
それだけ言うと、『神』は気配を消す。
誰がどう考えても失敗するに決まっている、人間キメラの製造実験。その際この『神』は、キメラ素材に選ばれた十二人の記憶と人格を守るべく、ありったけの力を使って奇跡を起こした。
奇跡によって人間たちの人格はどうにか守られ、その代わりに『神』は力を使い果たし、精神に異常をきたしてしまった。人の言葉を話すことはできるが、その大半は意味をなさない音の羅列だ。ごく稀に正常な答えを返してくれるものの、生憎今日はその日ではなかったようだ。
『神』の力添えが期待できないのなら、自力でなんとかするしかない。
英霊《シャドウライヴズ》は陣形を円に近付けつつ、ディオの指示を待つ。どの方向から攻撃が来ても、これなら死角は存在しない。
「……闇堕ちの神……だよな? 誰だ? まさか、うちの連中じゃあねえよな……?」
独り言のつもりで発した言葉に、再び『神』が反応する。
「Do not 暗黒面! アクティブ&ポジティブ! サルモネラ菌のドリーム和え!」
「いや、だからいいって……」
「食あたり! 大当たり! 悪玉菌!」
「……ん? いや、待て? 本当に『そういう存在』なのか?」
「病魔! 災い! 神罰の代行者!!」
「……神罰の……おっと!?」
またも撃ち込まれる『闇』の攻撃。ディオはそれを『奇跡的に』回避し、攻撃が飛来した方角に向けて《真空刃》を連射する。
英霊たちはディオの動作に追従するように、同じ方向に向けて《衝撃波》を放つ。
敵の姿は見えてはいないが、ディオと十二頭のサーベルタイガーによる『面』での攻撃だ。これを回避することは難しい。おそらく敵は今、防御魔法で耐え凌いでいるところだろうが――。
「神罰は『代行』される! 攻撃してはいけない!」
「……え……?」
この瞬間、ディオは己の失敗を悟った。
「ひぎっ……ギャッ……アアアアアァァァァァーッ!」
「ぐっ……ア……がっ、ハァ……ッ!」
突如聞こえた二人分の悲鳴。
それは間違いなく、ナイルとシアンの声だった。
声がしたほうに視線を向けると、ディオの傍らに、いつの間にやら『それ』がいた。