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あの日見た空の色も青かった  作者: 木立 花音
第一章:出会いの日、8月1日
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逢坂部賢悟

「ストレス性の、心因性記憶障害しんいんせいきおくしょうがいかもしれませんね」と精神科医は、逢坂部に言った。

「それはつまり……事故の後遺症……という話なんでしょうか?」と彼は問い返す。

「いえいえ、そう考えてしまうのは些か早計です。何故ならば、事故前後の記憶はしっかりと残っているのでしょう? ですから要因は事故そのものというよりは、それ以降に感じた何らかの精神的ショックが元ではないか、と思われます。CTの結果では、頭部に強い衝撃が加わった形跡も見られなかったのですしね」

「精神的ショック」と彼は反芻した。


 今年の一月に起こしたバス事故で入院し、数ヶ月後に無事退院した後のことだった。逢坂部はここ二~三ヶ月間の記憶を、断片的に喪失している事に気が付いた。

 失った記憶がなんであるのか、自分でも皆目見当がつかなかった。

 日常生活において何の支障も無かった為、思い出す必要はないだろう、とも考えたが、念のため受診した精神科医で告げられた病名こそが、心因性記憶障害。


 心因性記憶障害とは、精神的なストレス等によって記憶が失われてしまう心の病のことだ。通常は、過去のことを思い出せなくなる逆行性健忘で、不快な体験や出来事。特定の人物等を思い出せなくなることが多いとされている。

 もう少し詳細に状況を説明するなら、春頃までの記憶は問題無いのだが、そこから現在――七月頃までの記憶が、所々欠落していたのだ。

 単純に考えれば、喪失した記憶の内容も喪失した切っ掛けも、真っ先にバス事故を疑うべき所であったが、事故当時の記憶がしっかりと残っているため、直接的な要因ではなさそうだった。

 要因を探るのは困難ですが、春先から初夏の間に掛けて、何か強いストレスを受けるような出来事があったのでしょう、と医師は告げた。


「少し仕事を休んで、療養をした方が良いでしょう。長い休暇でも取って、旅行などされてはどうでしょうか?」


 彼が一ヶ月間に及ぶ旅行をしようと思い立ったのは、医師からこのように助言されたことも、理由の一つだった。


 纏めた荷物を抱えて日の出と共にアパートを出た逢坂部は、新幹線に乗って東北本線を北上していた。


「仕事なら、とっくに辞めてたんだがな」


 飛ぶように流れていく車窓の景色を目で追いながら、彼は自嘲気味に呟いた。


 逢坂部賢悟は、埼玉県浦和市生まれの二十五歳。

 家族構成は、実家に住んでいる両親と兄弟が一人。三歳年下になる、大学生の弟が居る。

 比較的整った目鼻立ちをしているものの、ファッションに気を遣う習慣が無いことと、癖毛の下ろした髪の毛と僅かに生えた無精ひげが、パっとしない第一印象を見る者に与える。

 感情を表に出さない大人しめの性格が、更に地味な印象に拍車をかける。

 性格が地味になってしまった遠因としては、幼少期から学生時代にかけて何度か経験した、引っ越しと転校の記憶があげられるだろう。

 繰り返される出会いと別れ。常に抱え続けていた喪失への予感と不安が、次第に他人と深く関わろうとしない悪癖を生み出した。

 中学を卒業した頃に父親が転職した事を契機に、引っ越しをする事もなくなったのだが時すでに遅し。幼少期に骨組みの出来上がった性格を変えていく事は、容易ではなかった。

 高校、そして大学と進学をしていくにつれ、次第に逢坂部の居場所は無くなっていった。

 まるで空気みたいな扱いだった。自分の方から積極的に関係を築こうとしなかったので、誰からも接触を持たれなかった。恐らくは、それだけの事なのかもしれないが。

 それでも、素直に自分が悪いのだ、と受け入れられるほど、殊勝な人間でもなかった。

 さいたま市にあるバス会社に就職したのは、地元の四年制大学を卒業した後のこと。会社に大きな不満を抱いていた訳でもなかったが、大きな人身事故を起こしてしまった後では、退職する以外の選択肢はなかった。


「自分の人生には先が見えている。つまらない人生」


 ここ数ヶ月間は、それが彼の口癖だった。この先の人生に、見いだすような希望など最早なかった。

 だからこそ彼は旅に出るにあたり、一度全てのものを捨てる道を選択した。

 継続して行っていた就職活動を一旦休止し、交際していた恋人との関係を絶ったのもその為だ。


 盛岡駅で新幹線を降りた逢坂部は、そこからJR山田線に乗り換えた。終点である宮古の駅前から路線バスに乗り換え、ひたすらに目的地を目指す。

 寂れた市街地を走り抜けたバスは、次第に、遠くに海を一望できる森の中を走り始めた。


「おめさん、何処から来なすった?」


 天候が良い。空の色を落としこんだ海が綺麗だ。窓の外に視線を向け考えに耽っている時、真横の席に座っていた老人男性──とはいっても、まだ恐らく七十手前だが──が話しかけてきた。


「ああ、俺ですか? 埼玉からですよ」

「ほう、そりゃまた随分と遠い場所から来なすった。観光かなんかだべか?」

「まあ、そんなところです。俺は写真を撮るのが趣味なので、浄土ヶ浜を一度撮影しておきたいと考えまして」


 逢坂部は、手元の一眼レフカメラを手繰り寄せて見せた。


 浄土ヶ浜。この旅の目的地の名称である。

 陸中海岸を代表する景勝地で、日本の快水浴場百選の『海の部特選』にも選定されている、白い流紋岩で出来た美しい海岸線が特色の場所。浄土ヶ浜の地名は宮古山常安寺(じょうあんじ)七世の霊鏡和尚(れいきょうおしょう)が「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名づけられたのだという。

 彼が休暇を過ごす場所としてこの土地を選んだことに、さしたる意味はない。強いていえば、海が綺麗な場所だったからだ。


「ほう。浄土ヶ浜」と老人は得心したように手を叩いた。「あそこはとても景色の良い場所じゃ。良い旅になることを祈っておる」

「ありがとうございます」


「わしの一番下の息子が、ちょうどおめさんくらいの年齢になる」そう言って老人は、身の上話を始めた。彼は適当に相槌を打った。


「ところでおめさんの親は、どうしておる?」

「親ですか? 二人とも元気にしてますよ」

「元気にしとるのは当たり前じゃ。何処で何の仕事をしているのか、と訊いておるんじゃ」

 ああ、と彼は独り言ちた。「父は弁護士です。とは言っても俺が高校に入学する頃までは、普通の会社員をしていたんですけどね。母は専業主婦。二人とも浦和にある実家に住んでいます」

「弁護士とな、そりゃまた大層な仕事じゃのう。じゃあ、おめさんも、かなり頭が良いんじゃろ?」


「いやいや、俺なんて……」と言いかけてから、逢坂部は語尾を濁した。今日出会ったばかりの人間に、恥ずかしい過去の話を暴露することもないだろう。彼はこちらの素性に、気づいていないようだし。

 大した事はありません、と曖昧な笑みを湛えてお茶を濁すと、もう一度バスの外に視線を戻した。流れていく車窓の景色をぼんやり見つめている時、ある違和感に気づき視線が一点に釘付けになる。

 今、誰か立っていたよな。どうしてこんな薄暗い林の中に?


「すいません、今、そこの立ち木の根元に、黒いワンピースを着た髪の長い女性が居ませんでしたか?」


 彼の言葉に、老人は不思議な顔で首を傾げた。


「誰もおらんかったと思うぞ。だいたいこんな林ん中まで、歩きで来る人なんぞそうそうおらん」

「そう……ですよね」


 気のせいだったのか、と彼は思った。

 いや、正確に言うと少し違うだろうか。決して気のせいなどではない。あの女性の姿は老人には見えず、自分にだけ見えていた。つまり彼女は、こちら側の住人ではなかったということ?

 頭の中で幾つかの推論を組み上げてから、逢坂部は肩を竦めた。

 これから観光地に向かう所だというのに縁起でもない。余計なことに気回しをすべきじゃないだろう。そう結論を与えると、頭の中にこびりついた違和感をそぎ落とした。


 そうして窓の外を眺め続けること十数分。やがて逢坂部を乗せたバスは、『奥浄土ヶ浜』と書かれたバス停に止まる。

 老人に会釈を送ってバスを下りると、彼は、肩の凝りを解すように大きく伸びをした。そのまま視線を空に向ける。

 抜けるような青さに澄みきった空は、雲ひとつない快晴だった。


 八月一日。

 逢坂部賢悟が体験した不思議な夏が、始まろうとしていた。


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