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あの日見た空の色も青かった  作者: 木立 花音
終章:あの日見た空の色も青かった
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恋文

『拝啓――逢坂部賢梧様。

 本当は、直接口で想いを伝えるつもりだったのですが、勇気がなくて結局は手紙になってしまいました。まずはそれを謝ります。ごめんなさい。

 でも、文章でだったら、言葉にするのは躊躇われるような恥ずかしい台詞もすんなりと言える。

 そんな気も、しています。

 臆病者ですね』



 結論から先に言ってしまうと、逢坂部が白木沢帆夏と面会することを許された日から数えて六日後。彼女は奇跡的に意識を取り戻した。

 但しそれは、ほんの僅かな時間――そう、恐らくはほんの五分程。たった、それだけの時間に留まってしまったのだが。

「ゴメンな」

「俺のせいで、すまなかった」

「迎えに来たよ」

「愛してる」

 毎日欠かすことなく病室に足を運び、何度も繰り返し囁いた言葉の数々は、すっかり気が動転してしまって一つも言えなかった。それでも俺の言葉は、確かに彼女に届いていた、と彼は今でもそう思っている。

 たった五分という短い間ではあったが帆夏は逢坂部の指先を弱々しくも握り返し、眼を見つめ、ぎこちなくも口元に笑みを湛えていたのだから。



『逢坂部さんは覚えていない事でしょう。去年の四月のことです。バスに送れて大学に遅刻しそうになった私の為に、車を止めてくれたのが切っ掛けでした。

 一目惚れなんてあるんだなって、気付かせてくれたのがあなたです。あの日から私の通学時間は輝きを増し、毎日はちょっとだけ楽しくなりました。

 逢坂部賢梧さん。私は、あなたの事が大好きです』



 奇跡的に瞼が開いたあの日。確かに彼女は愛の言葉を囁いたと感じた。

「あいしてる」

 それは、たったの五文字。

 でも、「好きです」ではなく「あいしてる」

 だから、と彼は思う。浄土ヶ浜で過ごした十三日間は幻のような日々であったけれども、確かに二人の心はあの時通じ合っていたんだと。俺たちの愛は永遠になったんだと、そう信じている。

 逢坂部が帆夏の病室に通うようになってから六日後に、彼女の瞼は開き、そこから更に七日間生きた。

 合計で十三日間。

 それは偶然にも、二人が浄土ヶ浜で不思議な再会を果たし、其処で過ごした十三日間と一緒の期間だった。ここに運命的な何かを求めるのは、あるいは都合の良い妄想なのかもしれない。だが、何らかの奇跡が起こり、別れを告げるためだけに帆夏の意識が戻ったのだとしたら──彼は今でも、時々そんなことを考えてしまう。



『――お勤め、ご苦労様です。

 今はこれだけを伝えるのが精一杯です。

 まだ話しかける勇気は無いけれども、それでもただ、バスの運転席から見て左斜め後ろの特等席から、仕事をしているあなたの背中を見つめているだけでも私は幸せなんです』



 白木沢帆夏の病室に通うようになってから直ぐに、逢坂部は盛岡に住所を移した。さいたま市にあるアパートを解約して、荷物の宅配の手続きを済ませ、住所変更の届出をする為に、まるっと一日を費やすことになってしまったが。

 盛岡に戻る直前に、浦和にある実家に顔を出した。随分久しぶりに顔を合わせた気がする母親は、少し痩せたように見えた。彼女は、元気にしているのか。病気などしていないか。お金は足りているのか。良い人は見つかったのか、と捲し立てるように質問を繰り返し、彼はその全てに「大丈夫だ」と答えるに留めた。父親はただ一言だけ「頑張れよ」と口添えた。短い再会の時間ではあったものの、今まで凝り固まっていた確執が、静かに融解していくのを逢坂部は感じていた。

 盛岡に戻ってからは、家賃の安いオンボロアパートに住所を構えた。そこから毎日帆夏の病室に足繁く通い、ただ日が暮れるまで彼女の横顔を眺めていた。帆夏が自発的に呼吸をし、生きているという事実を確認するだけでも、彼の心は満たされていた。

 それでも残念ながら、彼女が息を引き取る瞬間に、逢坂部が立ち会うことはなかった。

 ヒグラシの鳴き声も次第に影を潜め、代わりに秋の虫達が夕方からの主役を務めるようになり始めたとある日の夜のこと。

 早めの夕食を終えアパートの床で寝転がっている時に、けたたましく携帯電話が鳴り響いた。画面を確認すると、着信の相手は真冬だった。猛烈な胸騒ぎがした。「姉さんの容態が急変した。今直ぐ病院に来て」

 逢坂部は着の身着のままスクーターバイクに跨り病院を目指した。けど、間に合わなかった。

 彼が病院に辿り着いた時にはもう――帆夏の呼吸は停止していた。


「ゴメンね。ついさっきまで、生きてたんだ……」唇を噛み締めながら悔しそうに呟いた真冬の身体を、逢坂部はそっと抱き寄せた。


 被せられていた布を捲り、霊安室のベッドに横たわっている帆夏の顔をじっと見下ろした。

 彼女の瞳はもう開かない。

 もう、泣くことも笑うこともない。

 もちろん、話すことも起き上がることもない。数週間前、彼女の母親に告げられた言葉が胸を抜けると、喪失感と後悔とが、心の表面に湧き上がってくる。こつこつと、泉のように。

「あなたからの手紙が届かなくなってしまったことを、日々、不安に感じています」という美奈子の言葉。日々。そんな軽い言葉で済ませられるほど、短い期間ではなかったはずなのだ。

「さようなら、二年間ありがとう」と告げた埼玉の彼女。彼女に俺は、一度でも『ありがとう』と伝えたことがあっただろうか。

「このまま恋人でいさせてよ……」と涙ながらに懇願した帆夏の言葉。それでも、「頑張って二年待ってる」と涙ながらに頷いて。

 自分のものなのか、彼女達のものなのかわからない。後悔の念は嘆きとなって、静寂した空間に浮き彫りになってくる。彼の頭の中にも反響する。すすり泣く真冬の声と、それとは別の激しい嗚咽が混じり合う。――俺の、声だ。

 どうして、と後悔ばかりが色濃くなっていく。どうして俺は、彼女達のたった一人でもいい。幸せな結末を与えてあげることができなかったのだろう。そんなことだから、こうして。

 なぜだ。なぜ俺は――


 彼女の葬儀は、帆夏が亡くなってから二日後に行われた。

 冷たい雨の降る日だった。近親者のみで行われる予定だったのだが、悲劇のヒロイン白木沢帆夏の名前は有名だったのか、それとも彼女の人望によるものなのか、葬儀には多くの人が参列していた。

 当然逢坂部も参列したし、参列者の中には高崎美奈子も居た。

 彼女は彼の姿を認めると、ただ一言、「頑張ってね」とだけ呟いた。

 その台詞は偽善者めいているから嫌いだと言明していたはずなのに、そう告げた。恐らくは憔悴しきった彼の姿に、掛ける言葉が他に見つからなかったのだろう。



『私の故郷の近くに、浄土ヶ浜という凄く綺麗な景勝地があるんです。バスの運転手である逢坂部さんだったら、知ってるかもしれませんが。

 もし、私に恋人が出来たら、その場所を二人で歩くのが夢です。

 海がとても綺麗な場所です。

 夕焼けが綺麗な場所です。

 お母さんに教えて貰った、私だけしか知らない絶景スポットもあるんですよ? 見てみたいでしょ?

 何時かそんな日が来たら良いなと思って、今から水着買ってるんですよ? バカみたいですよね』



 彼女の葬儀が終わった後、遺品の幾つかを真冬と母親が形見分けしてくれた。

 その中から出て来たのは、麦藁帽子。白と若草色、二着のワンピース。フリルの付いたブラと、青地に花柄のショーツがセットになった水着。

 真冬いわく、全て夏物の衣類で未使用だとのこと。

 それらを見た瞬間、夏の日々の記憶が鮮明に蘇ってきた。そして逢坂部は、益々わからなくなっていた。あの夢のような日々は、本当に夢だったのか。それとも現実だったのか。

 彼女と触れ合った日々が、肌の感触が、鮮明な記憶となって残っているだけに、今でも答えが見つからない不思議な出来事だったとしか言いようがない。



『今は手紙でしか気持ちを伝えられない臆病者ですが、必ずもう一度あなたの前に行きます。

 やっぱり告白は、ちゃんと言葉で伝えた方が良いと思うから』



 白木沢家の墓は、盛岡市の中心部から車で十分ほど走った郊外にあった。寺院の裏手にある、比較的小奇麗な墓地だ。

 スクーターバイクを売却し、逢坂部は再び車を購入していた。八月の末ころから何度か企業の面接を受け、何度か門前払いをくらいながらも、なんとか辺鄙な工場への就職が決まる。その初月の給料をアテにして購入したものだ。

 所詮は中古車だったが、それでも現金では買えなかった。だが、それで良いと彼は思っている。ここから一歩ずつ、やり直していければ良い。


 墓参りには、真冬も一緒に来てくれた。

 流石に双子なだけの事はある。姉の死後、伸ばし始めた髪の毛が肩の下まで到達すると、完全に帆夏の生き写しとなってしまった。

 性格は、真冬の方が少しだけ気が強い方だな、と思うけれど、笑うときの仕草、拗ねたときの表情なんかは瓜二つで、時々どきりとさせられる。

 もちろん、そればかりではない。桜色の綺麗な爪先。薄くて柔らかい唇。白磁を連想させる色白できめ細かな肌……帆夏の面影が重なるそれら全てに、心が疼きを覚えるのを感じていた。

 心臓に悪いよ。彼は内心で、そう呟いた。

 帆夏の墓前に花を手向け、二人並んでしゃがみ手を合わせる。


「ねえ」と手を合わせたまま、真冬が言った。「賢梧さん、姉さんのこと好きだった?」

 逢坂部は合わせていた手を一旦下ろして答えた。「もちろん、好きだったよ。俺なんかが『好きだ』なんて伝えて良いのか、今でも悩んでしまうけれどね」


 すると真冬も手を下ろし、困ったような笑みを浮かべる。


「そこは胸を張って言ってあげなよ。じゃないと、姉さんが浮かばれないから」

「そうだな、ごめん」

「それに、姉さんは間違いなく、賢梧さんのこと好きだったんだからさ」

「ああ……ごめん」

「謝らないでよ。謝るの、癖になってるんでしょ? もう、しょうがないな……最後、姉さんの死に顔見たでしょ? 辛い思いだけを抱えて死んでいった人が、あんな笑った顔、してるわけないじゃん。きっと、良い夢でも見られたんだと思う」


 そう、最後のあの日。帆夏の表情は笑っていた。それは自分の感傷が生み出した都合の良い妄想や幻想の類なのかもしれなかったが、真冬もこう言っているのだから、やっぱり笑ってたんだ、と彼は思う。

 少なくとも、彼女の顔は安らかだった。まるで、眠っているようだと思った。それだけでも逢坂部は、良かったと救われていた。八月十二日の夜、自分から別れ話を切り出したことで、どれ程の痛みや悲しみを帆夏に与えてしまったのか。それだけを苦心していたから。


「姉さんね、何度も私に惚気(のろけ)話をしてたんだよ」

「真冬ちゃんに?」

「そう」と言いながら、彼女はポケットから携帯電話を取り出した。「今日、好きな人が出来ました。その人は、大学に向かう途中で毎日のように会う人。私は、遠くから見てるだけで幸せ、ってね。だから言ってやったんだよ、『早く告っちゃいなよ』と。まさか賢梧さんのことだとは、しばらく気が付かなかったけど」


 真冬は逢坂部にぴったり身を寄せ、携帯の画面を差し出してくる。


「これ、姉さんが事故に遭ったあの日、私宛てに送信されてきた写真だよ。このスーツ姿の男性って、賢梧さんでしょ?」


 恐らくは事故があった当日。サービスエリアで、帆夏が封筒を逢坂部に渡した直後に撮影されたであろう一枚の写真。

 スーツ姿で佇む彼の背中をバックに、ピンク色のダウンジャケットを着てマフラーを首に巻いた帆夏が、喜色を頬に浮かべていた。

 突然友人がシャッターを切ったことで驚いたのだろうか? 目は大きく見開かれ、口が開いたままになっている。

 彼女の口の形は、『あ』に見えた。友人がいきなり写真を撮ったのに反応した、あ、だったのか。何かメッセージを伝えようと思った、最初の一文字だったのか、それはわからないが。



『それでもさし当たっては、文面でもう一度伝えておきますね。

 好きです。私と、恋人になって下さい――』



「これ、あなたも、持っておくべきだと思うから」


 そう言いながら真冬は、同じ写真を逢坂部の携帯電話にも送信する。彼はその写真を見て、彼女の笑顔を思い出して、もう一度むせび泣いた。

 良い笑顔だと思った。この先に待ち受けている悲劇など予見していない彼女の顔は、とても幸せそうに見えた。


 そして、ズボンのポケットに忍ばせておいた彼女からの手紙、その最後の一枚にもう一度目を落とした。

 事故後の辛い思い出を、纏めて封じこんでいたジップロックの袋の片隅から出てきた一枚の便箋。

 赤黒い血痕が付着したこの紙は、事故後、彼が左手にしっかりと握り締めていた物らしい。ほぼ垂直に近い崖をバスが滑落し、地面に激突する最後の瞬間、彼の手は間違いなく帆夏の右手に触れていた。

 握り締めたという記憶は残っていない。だが確かにその時、彼女はこの便箋を彼に手渡したのだろう。

 バスが落下を始めてから書いたと思われるその手紙は、筆跡も荒れ、紙もくしゃくしゃになってしまっていた。それでも、彼女の強いメッセージが、そこには綴られていた。



『賢梧さん、これからきっと辛いと思うけど、泣かないで。たとえ私が死んでも、泣かないで。

 私はあなたと出会えて、幸せだっけもん』


『あいしてます』



 二年ぶりに逢坂部は涙を流した。涙は何時までも、何時までも止め処なく溢れた。体の中に長い時間抱え続けた悲しみがじくじくと滲み出してくるように、彼は泣き続けた。

 同じように涙を流していた、真冬の肩に手を置いて立ち上がる。

 そうさ、と彼は思う。彼女が生きられなかったぶん、彼女が生きたかったと願うだけ、俺たちはこの世界を歩いていかないといけない。

 涙を拭って空を見上げる。

 ……濁っていた逢坂部の瞳は、帆夏のお陰で光を取り戻したのだろうか? 空の色はとても澄んで、青く見えた。


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