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あの日見た空の色も青かった  作者: 木立 花音
第二章:彼女と別れるまでの十数日間
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瞬かない星空

 民宿の自室に戻りテレビを点けると、逢坂部は畳の上に仰向けになって寝転んだ。まだ蛍光灯を点けていなかった為、薄い硝子窓から射しこむ淡い月明かりが、和室の中を幻想的な色に染め上げていた。遠くから鈴虫の鳴き声が微かに響き、テレビからは、地方ニュースを報道する声が聞こえていた。


『……だから知ってますよ。あなたが――胸の内に何を抱え、そして思い悩んでいるのかも』


 帆夏に告げられた言葉が、不意に脳裏に浮かんだ。

 昨日から彼女には、不可思議な言動が多い、と逢坂部は思う。帆夏自身は『予測しただけですよ』と誤魔化すような発言をしていたが、本当にそうなのだろうか?

 もしかすると、意図せず俺が見せてしまう、虚ろな視線や物憂げな仕草。その他諸々の言動などから、抱えている問題や悩み事を、見透かされているのかもしれない。


 ──本当に、どこか掴みどころのない女の子だ。


 それと同時に、強い圧迫感のようなものを胸の奥に感じ、彼女に惹かれ始めている自分に気づいて辟易してしまう。

 何を考えているのだろう、俺は。少し冷静になるべきだ。

 俺は、社会的に存在を否定された人間。仕事も辞め、鬱屈とした感情を内に秘めたまま日々を過ごしている自分と彼女とでは、境遇が違い過ぎる。

 帆夏は未だ十九歳の少女であり、夢や希望に満ち溢れている存在なのだ。不相応(ふそうおう)な好意を寄せるべきではない。


 ──第一に俺は、あと半月もすれば宮古市を去る人間なのだ。


 そう結論を与えて身体を横に向けた時、テレビのニュースが全国版に切り替わる。


『一月十三日の午前十時二十分頃に長野県で発生したバス事故について、国土交通省は過労運転や居眠り運転が慢性化していないか、安全対策の見直しについてあらためて全国のバス運行会社に――』


 ――またか。


 今年の一月十三日に、長野県で発生したバス事故の詳細について語っておこうと思う──。


 多数のスキー客を乗せた観光バスが、県道の急カーブを曲がり切れずに二十メートル崖下まで転落。乗客八名が死亡し、二十四名もの負傷者がでた。

 間違いなく、近年では最悪のバス事故。

 連日テレビの報道を大いに賑わせ、ようやく落ち着いてきた現在でもなお、安全対策への有り方等が、ワイドショーで取り上げられ続けている。

 事故の直接的原因は、無論、運転手である逢坂部の操作ミスにある。

 だがこのバスは、定員三十二名のところ五十名近い乗客を乗せて運行しており、客席は勿論のこと、通路にまでスキー客が埋め尽くす状態だった。

 事故が発生した急カーブは半径二十メートルくらいの鋭角カーブだった。乗客が邪魔で左側前部の視認性が劣悪だったため、彼は車体の左側をガードレールに擦らないよう気を取られるあまり、必要以上に車体を右側に寄せたまま、カーブに侵入した。

 この運転操作のミスにより、逆に右前輪が脱輪。そのまま車体前部から滑り落ちるように転落して事故が発生した。乗客の殆どがシートベルトをしていなかった事。(定員の関係上)立ち乗りの客が多かった事から、非常に多くの犠牲者が出る結果に繋がった。

 彼に対する裁判は数ヵ月後に行われ、裁判長は「被告は自身のミスで事故を発生させたことを認識して反省しており、被害者や遺族も厳罰を望んではいない」として情状の酌量を容認。被告 (彼)に対して禁固三年 (執行猶予五年)の有罪判決を言い渡した。

 バス運行会社は当初、事故の責任について認めようとしていなかったが、国土交通省の立ち入り調査が入ることで態度を軟化させた。

 国土交通省は会社に対して運転手の健康診断、乗務前の健康及び酒気帯びの確認、入社時の適正検査を確実に行うよう指導を行った。以降業界全体においても、安全対策への取り組みを強化する気運が高まっている。


「何度も見てきたニュースじゃないか」


 事故当時のことを思い出すと、今でも心の奥底に強い痛みの火が灯る。

 鬱々とした感情に捉われ重くなった頭を振ると、彼は部屋の電気を点けた。

 気持ちを切り替える目的で日記帳を開くと、本日分のページに、『白木沢帆夏』の名前を書き入れて、口角を僅かに上げた。


「不思議な女の子だ」まるで何かに縋るように、彼はそう呟いた。



 次の日も、逢坂部は浄土ヶ浜の海へ向かった。

 但しこの日は、午前中一杯を民宿の自室で自堕落に過ごした後、昼食を近場の食堂で済ませ、夕方になってからカメラを持って出かける。昼日中の景観は満足いくだけ撮り終えていたので、沈む行く夕陽に照らされる景勝地の姿を、撮影したいと考えていたのだ。

 真っ白な岩肌も、オレンジ色の光が当たることで、燃えるような赤に染まっている。

 何か哀愁めいたものを感じていた。そうしてファインダーを覗き込んでいた時のこと。ジャリ……ジャリ……という砂を踏みしめる足音が響いてくる。

 一度カメラを下ろして振り返ると、そこには白木沢帆夏が佇んでいた。


「あ、気付かれた。折角、驚かせようと思ったのに!」


 心外そうに腰に手を当て、彼女は頬を膨らませた。


「そんなに足音を立ててたら、気付かれるのも当たり前だよ」と逢坂部は笑顔で応える。


 帆夏は彼の言葉に答えることなく、山の方を指差してみせる。

 日が沈むよ。とでも、言いたいようだ。透き通るように白い肌は夕焼け色に染まり、深い海底のような濃紺の瞳が、真っ直ぐ彼を見据えた。

 オレンジ色の淡い光に包まれた少女の姿は、幻想的で、かつ儚く、ほんの一瞬視線を逸らしてしまったら、その隙に雲散霧消し消え去ってしまう。そんな不安を一時、感じさせた。

 自分を凝視している逢坂部を不審に思い、帆夏が瞬きを繰り返すのに気付くと、苦笑いをしながら視線を外した。

 その時海を渡る風が、サーっと吹いた。

 潮気まじりの強い風に目を細めながら、視線を巡らせていく。

 今日は砂浜にも、殆ど人の姿が見当たらない。この雄大な自然の中、夕陽を眺めているのは二人だけ。家を一歩出ると何処にでも人が溢れている関東では、考えられない光景だ。人が多い事が嫌いな訳でもないが、時間に追われ、あくせくと動き回る空気が無い田舎の景色は、見方によっては浮世離れしてすら見えた。


 日が没したのを見届けてから、帆夏は砂浜の上にゴロンと寝転がる。両足を広げて大の字になると、今日の服装は短いスカートだったので、下着が見えそうなほどに翻った裾に思わず目を奪われる。


「何をしているんだい?」


 随分と無防備なんだな、と半ば呆れつつも、彼は尋ねてみた。すると彼女は、首だけをこちらに向けて手招きをしてきた。


「星を見ているんだよ」


 なる程。自分の横に来いと言ってるんだなと得心すると、彼女の真似をして寝そべってみる。大の字になって、視線を上天に向けてみた。

 既に無数の星屑が空いっぱいに広がり始めていた。関東では見る事の叶わぬ光景。このような空を、降る様な星空、とでも表現するのだろうか。圧倒的に広く、そして高い。


「よく、星が瞬くって表現するでしょ」と彼女が囁く声が聞こえた。「そう見えるのは、その場所の空気が汚れ、澱んでいるからなんですよ。本当に空気が綺麗なところでは、星って瞬かないんです」

「そうなんだ、知らなかった……。それにしても凄い星の数だ。こんなに多くの星が光っている空を、久しく見た記憶がない」


 言いながら、彼は内心で自嘲した。あの頃――盛岡で見上げた空も、同じように綺麗な夜空だったのだろうか。空ではなく自分の心が澱んでいたから、その光景を覚えていないのだろうか。

 そして同時に思った。美奈子は……彼女も今、同じ夜空を見上げているのだろうか。


「好きな人が、居るんですか?」


 不意に聞こえてきた澄んだ声音に、彼の心臓が飛び跳ねる。これも読心術なのだろうか? 動揺から、心までが震えた。


「ど、どうしてだい?」

「いえ、なんとなく、気になっただけですよ。人が沈黙する時は、何かを思い悩んでいる時か、想い人のことを考えている時です」


 彼が首を横に向けると彼女もこちらを向いていた為、二人の視線が絡み合う。帆夏が向けてくる瞳は、あまりにも澄んだ色を湛え眩しい。逢坂部は逃げるように、再び空を見上げた。


「そうだな、好きな人が居た。俺は中学時代、盛岡に住んでいたんだ。だから彼女も、住所が変わってなければ、今でも盛岡に住んでいるはずだ。だが──」


 そこで彼は一度言葉を切った。


「もう、中三の時から会っていないんだ。それも、後に続けていた文通の文面上ではあったけれども、彼女から告白もされている。その上で──俺は逃げたんだ。彼女に返事を出すのが恐ろしくなって、一方的に文通を打ち切ったんだ。どうだ、最低だろう?」


 自身の卑劣な過去の行為に、自然とため息が出る。


「そうですね、最低です。でも──なんだか、分かる気がします」

「え?」驚いた彼は、また顔を向けてしまう。帆夏はずっとこちらを見ていたのだろうか? 再び二人の視線が絡み合う。

「人に好きだと伝えることは、凄くエネルギーを使うことです。凄く勇気の要ることです。その人はきっと、とても勇気を振り絞って手紙を書いたんでしょう。でも彼女と同じ勇気を、逢坂部さんは持つことが出来なかった。酷いことかもしれませんが、恥ずかしいことではありません。皆が抱えている弱さです。そう、私だって――」

「君も、好きな人が居るのか?」


 何故、そんなことを訊ねてしまったのだろう。逢坂部は内心で強い困惑を覚えた。

 こういう時人は、大抵の場合、同じことを自分にも聞き返して欲しかったりする。だからきっと、彼女も――好きな人が居るのか、恋人が居るのか、そう訊かれたいと思ってる。そう考えてしまったのだろうか。

 だが、それを聞いたところで俺はどうする? 彼女とは出会ってからまだ数日。年齢も、置かれている環境も、全く違う。恋の話など聞かされたところで、何もしてあげられないし、無論、助言すらできないだろう。

 数秒の沈黙を横たわった後、帆夏が淀みなく答えた。


「居るよ。好きな人」


 凛然としたその響きが、恐ろしいほど鮮烈に鼓膜を打った。予想と違った彼女の台詞に驚き、前のめりになって顔色を窺ってしまう。


「恋人は居ないけど、好きな人は居る。その人に声を掛けると、時々、私に微笑みかけてくれる。でもね、それだけなんだ。お互いの事も、まだ全然知らないの。いわゆる、片想いってやつかな……。どうですか? なかなか切ない話でしょー?」


「片想い。なるほど」


 ──じゃあ、俺と少し似ているかもな。


 ええ、と肯く彼女の声を聞きながら、驚き。落胆。複雑な感情と一緒に、後半部分の台詞を言わずに飲み込む。第一、自身の美奈子に対する気持ちも未だよく整理できてないのに、一緒にするのは彼女に失礼だろう。

 だが、それでも。


「俺は明日、彼女に会いに行こうと思ってるんだ」と逢坂部も宣言した。「その行為がどれだけ愚かで馬鹿げたことなのか、薄々とは感づいてる。何年も会ってない同級生に執着することの馬鹿らしさも、重々承知してる。でも、それでも、一度会って話がしたい」


 彼の言葉に、今度は帆夏がひとつ息を呑んだ。


「盛岡までは……どうやって行くつもりなんですか?」 

「レンタカーを借りる。昔文通をしていたから、変わって無ければだが、住所も知っている。今更彼女に会えたとして、何を伝えたいのか。何を話すつもりなのか。実のところ、俺にも良くわかっていない。それでも……一度会って過去を清算しておきたい。そんな気分なんだ」

「今更会いに行ったところで、徒労になるかもしれませんよ? 美しい思い出を、台無しにするだけかもしれません。それでも……行くんですか?」

 静かな口調で、帆夏は問い質した。

「ああ。行くさ」


 彼は、自分でも仰々しいと思えるくらいには、大袈裟に頷いてみせた。この位しておかないと、自身の決意が揺らいでしまうと感じていたから。

 そう、俺にはもう何もない。何もないからこそ、今だという気がするんだ。


「そうですか」とだけ呟くと、彼女は立ち上がる。


 ジャリっと砂を踏みしめる音が、やたらと鮮明に耳に届いた。

 考えを纏め方針を決められたことで、緊張から解き放たれたのだろうか。途端にあらゆる五感がクリアになった。それまで意識してなかった波の音が聞こえ、彼女の髪から漂う甘い匂いも、磯の香りと混ざりあって鼻腔をついた。


「では明日、私も一緒に行きましょう」

「え、どうして?」


 続いた帆夏の言葉に今度こそ驚くと、反射的に上半身を起こした。


「私の実家は盛岡市にありますからね、道案内くらいは出来ますよ。それに――なんだか目を離すと、逢坂部さん消えてしまいそうです。そんな思い詰めた顔をしてる人、一人でなんか放り出せないですよ」


 何をバカな、と一笑に付すつもりだった。だが、痛み続ける胸の内を見透かしたような帆夏の言葉に、言いたかった台詞が飛んだ。


「道案内か……成る程ね。確かにそうして貰った方が、彼女の家を見つけ易いだろうな。じゃあ折角だから、君の好意に甘えておくことにするよ」 


 本当にどうかしているな俺は。内心で酷く戸惑いを覚えながらも、そう口走っていた。

 じゃあ明朝は七時に民宿を出ようと告げると、彼女はわかりましたと頷き、くしゃりと笑った。だがそれは、嬉しさと寂しさが半分ずつ混ざり合ったような、曖昧な笑みにも見えた。


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