第9話 招き猫
フレンドシップが急に混みだした。
無駄口を叩く余裕がないぐらい、俺も夏井さんも、もちろん未智さんも黙々と働く日々。閉店する頃にはいつもみんなクタクタ。今日は、早番の雪さんが居残って手伝ってくれている。
最近、何かあったっけ。冬休み?クリスマス?ああ、クリスマスソングか。店のBGMも稲垣潤一とマライアキャリーと山下達郎とマッキーの繰り返し。たまに未智さんが角松敏生をかけて、俺が「誰これ?」って言うとぶっ叩かれたりするけど。(話してる暇がないから叩かれて終わり)。クリスマスソングを借りる人と、冬休みのワクワクした気持ちだけでそんなに客は増えるのか。…でも他に何かある?
ただ実際に、日を追うごとにフレンドシップのお客は増えていく。
「考えてみたら、あの日からなのよね」
「あの日って?」
「泉ちゃんが、ここで受験勉強するようになった日」
そう言えば、ずぶ濡れで参考書の詰まったリュックを引きずって現れた北里泉が、1階の隅っこのテーブルを占領するようになった夜を境に俺はここでくだらない話をした覚えがない。店内のBGMを次に誰が選ぶかで揉めたこともない。
「でも、北里泉が1階でただ勉強してるのと、店が混むのと何の関係があるの」
「そうよねえ」
さすがの未智さんもそこまでは分からないみたい。じっくり考える時間もなく次々と人がカウンターの前に並んで、それっきり会話は途切れた。
「お、忙しそうだね」
絶妙なタイミングで現れて、いちばん言っちゃいけないセリフをいちばん言っちゃいけない人物が言うからびっくりしますよね→宇宙人店長。
「水元さんも少しは働いてください。」
未智さんが目も合わせずに冷たく返すから、今度は俺に話しかけてくる。
「すっかり仕事も慣れたみたいだね、東野君」
「おかげさまで」
「あれから何も落としてないの?」
「おかげさまで」
“おかげさまで”って意味深で便利な言葉だと思いながら宇宙人の言葉を流していたけど、そのうちに
「そうそう、今日も勉強はかどっているみたいだね。1階の招き猫は」
と、深すぎてよく分からないことを言われて流しきれなくなった。
「招き猫?」
「そう」
「誰ですか」
「泉ちゃんだよ」
確かに、1階にいるのは北里泉ぐらいだろうけど。
「未智ちゃんは気付いてたよな。売上データ、先々週の木曜日から急に上がりだしたの。特に夜ね」
「まあ、一応は」
「それでピンと来たんだよ。その頃の変化と言えば泉ちゃんが1階に住み着いたことだってね」
「水元さん気付いてたんですか。泉ちゃんが1階で勉強してたこと」
「まあ、一応は。自分の店だから」
へえ。さすが宇宙人。
「思い出した!」
口数の少なかった雪さんが急に大声を出す。
「泉ちゃん、確かに招き猫かも知れない」
…最近、雪さんは思考回路が宇宙人っぽくなっている気がする。遠くにある結論を先に言うから、気になって多少長くても説明を聞かないと気持ちが悪い。
「“ふたば”のおじさんが言ってたもん。『いつもはそうでもないのに、あの子が来ると混むんだよ、ウチの店』って」
「それ、いつ?」
「例の歓迎会の日。私たちがお店に入った時はガラガラだったのに、10分後には満員だった。それにほら、泉ちゃんが『ここで勉強してもいいですか』って来た日!あの日も“ふたば”にいたけど途中から混んできたって、自分で言ってたじゃない」
言われてみればね。
「いるだけでお客さんが増えるなんてこと、ホントにあるもんですか」
「うん。実際そういう人っているみたい。だって、日曜日は忙しいからって泉ちゃんにアルバイト初めてもらったけど、日曜日が更に忙しくなっちゃたもん」
“招き猫”か。フレンドシップも大変な猫を飼っているもんだ。
で、その招き猫は?
ふと1階の様子をうかがうと、あまりにもシーンとして猫一匹いるとも思えない。
「今日はもう帰っちゃったんですかね」
「そんなことないんじゃないの。いつもこのぐらい静かなのよ。2階が賑やか過ぎて気付かないだけ」
「それにしても、すごい集中力だよね」
夏井さんまで感心したように頷く。心なしか、みんな声のトーンが優しくなっていませんか。まるで眠っている赤ん坊を起こさないように気遣ってる感じ。そうだ。集中してるっていうより、眠ってんじゃないの?招き猫。
確認する間もなく、次のお客が来た。その繰り返しで、気が付くと22:00をまわっていた。
「外、寒そうだね」
大窓の方を見ながら未智さんが言った。すぐ前の歩道を、傘にしがみつくように背中を丸めて人が歩いて行く。
「雨じゃなくなってきてるね。あれは」
「空君、帰り原チャリじゃ危ないよ」
「大丈夫です。今日は俺、夏井さんの車に乗っけてもらうから」
「何勝手に決めて決めてんだよー」
少し嫌そうで、少し嬉しそうな夏井さん。
「いいじゃない。空君と、私と雪と、水元さんと…みんなまとめて乗せてってよ」
「定員オーバーだよ」
「大丈夫よ。五人でしょ」
「もう一人いるじゃん」
「あ、そうか。泉ちゃんもいるか」
「猫は一人と数えないでしょ」
「猫じゃないでしょ」
「招き猫はネコなの人間なの?」
「何言ってるの、人間。ねえ、水元さん」
「あの、どっちにしても、僕は自分の車があるから大丈夫だった」
それを早く言って下さい。宇宙人店長。
「じゃ、決まりね」
「だから勝手に決めないで下さい」
そう言いながら、夏井さんはやっぱり嬉しそうだった。外が寒いせいか、店内の灯りも妙に暖かく感じられて、そこにいるみんなの顔が和らいで見える。ちょっと前まで知らない人たちだったのに、今はちょっと、家族みたい。
「何か今日、楽しいですね」
「何言ってるの空君。こんな忙しいしそれに寒いし」
「でも、雪さん含めたベストメンバーがこの時間まで揃っていることもそうないし。いい感じで夜も更けてきたし、それに明日から俺、冬休みだし!」
「空君はいつだって夏休みか冬休みでしょ」
未智さんの皮肉も気にならないぐらい、何故か心が弾む。どうしちゃったんだろう。
23:00になってもお客はほぼ途切れずに訪れ、つられて宇宙人も珍しく働き、俺と雪さんは隙あらばハイテンションで喋ってもいたので手と口が疲れ、唯一BGMに気を配ることを忘れなかった夏井さんがクリスマスソングの合間にCHARAと矢野顕子を交互に流し、黙々と働く未智さんが一番最後に無表情でエルトン・ジョンをかけたのが何となくおもしろかった。
「さてと、終わった!売上記録更新。」
閉店後、レジの精算まで済ませた未智さんがふーっと息をつく。他の四人も思わず拍手をして、その場が一気にお祝いムードになった。
「祝杯でもあげますか」
「じゃ、ビール」
って、いちばん言っちゃいけない二人(宇宙人店長と夏井さん)が言うもんね。
「二人とも、車でしょ?捕まりますよ」
「大丈夫。定員オーバーなら僕の車にも何人か乗ってくれて構わないし」
店長、ボク達心配してるの、そこじゃないです。
「はい。じゃあこれで乾杯!」
いつの間にか雪さんが全員分のコーヒーを淹れて来てくれた。
「さすが雪ちゃん、今飲みたいと思ってたんだよ」
“じゃ、ビール”はどこへやら、宇宙人が真っ先にカップを手に取る。
「へえ、これがあの伝説のコーヒー?」
そして二番目に手を伸ばす夏井さん。良い子のみんな、こんな調子のいい大人にならないでね。
「そうよ。水元さんによると、心を癒す魔法のコーヒーだからね」
未智さんまで笑顔で一口飲んだ後、「空君もどうぞ」と手招きをする。
なんか今日、みんな優しくなーい?気のせいかな。
最後に、専用のド派手なマグカップを取った雪さんが「あれ?」とつぶやく。
「ひとつ余っちゃった」
「六つあったけど。五つで良かったんじゃない?」
「でもさあ、さっき五人乗りの車で定員オーバーって話してたから、六人いると思って淹れたんだけど」
「そんな話したっけ」
「ちょっと未智、忘れたの?それじゃ空君みたいじゃない!」
しーんとした店内に五人の声が代わる代わる響いた。最後のBGMのCDが終わってからどの位時間が過ぎたのだろう。
「やっぱり五人じゃないの」
「もう一人いるって」
小さな物音がして、BGMが再開される。夏井さんが気を利かせて流したのかと思ったけど、その音はいつまでもボリュームが上がらなかった。それもオルゴールみたいな音色が頼りなくメロディーをたどるだけ。今にもかき消されそうで、
「これ、オルゴールのCD?」
俺の的外れな発言には慣れているはずなのに不思議そうな顔をするみんな。おかげで一瞬間が空いて、さっきよりも音が聞きやすくなった。
「CDなんてかけてないでしょ」
「じゃ、どこから聞こえてるの?この音」
確かにスピーカーからは何も聞こえない。かすかに響く音をみんなの耳と目が追っていく。
「ピアノ!」
雪さんが叫んだ。
俺は、今の今まで忘れていた。
この店には螺旋階段のすぐ下にピアノがあったのだった。誰も手を触れようともしない、飾り物のピアノ。
一斉に手すりに駆け寄る五人。そのまま1階のピアノを見下ろすと、そこには招き猫が、いや北里泉が、ずっとそこにいたような顔で座っていた。
「寝てたんじゃなかったんだ…」
俺のつぶやきなんんて誰も聞いていない。
はじめのうち右手でひろっていたメロディーに少しずつ左手が添えられ、時々途切れたり、進んだりしながら和音の厚みが増していく。どこか懐かしい響きがした。
「何の曲だっけ」
小声で顔を見合わせる俺と夏井さん。だけど思い出せない。
「思い出せるはずがないじゃないか」
店長がまたもや宇宙人になってニヤッと笑う。だんだんその曲が懐かしいのか新鮮なのか分からなくなってきた。
上から見守る五人には全く気付いていない。店が混んだのも、定員オーバーも、コーヒーが余ったのも、全部北里泉のせいなのに、本人はただ無邪気に鍵盤に向かっているだけ。
進んできた音が急に止まった。
一度手を離し、しばらく下を向いてじっと考えていた北里泉は、何かを確信したように小さく頷いて鍵盤に指を置きなおす。次の瞬間、予想もしなかった音がフレンドシップを包み込んだ。突然大量の水があふれ出したように足元に迫ってきて、身動きが出来なかった。
和音の上に、さっきたどたどしく弾いていたメロディーが重なって、ゆっくり加速していく。手すりを握りしめたまま、次々と生まれていく音に俺たちはクギ付けになった。
大窓の外は、その頃初雪が降っていたらしい。
宇宙ステーションみたいなフレンドシップは、凍り付くように暗く静まり返った町にひとつだけぽっかりと浮かんで、きっとものすごい光を発していたのだろう。
光の中にいる俺は、その時ただこう思っていた。
「この夜が、終わらないといいなあ」と。
気が付くとピアノの音が止んで、やっと俺たちに気付いた北里泉が2階を見上げて笑った。
「このピアノ、鳴るんですね」
何という、間の抜けたコメント。
夕方ここに来てから何も言わずに散々こっちを巻き込んでおいて、その第一声がそれ?
誰も何も言わないので、久々に的を射た質問をしてみた。
「それ、何て歌?」
北里泉は一瞬大窓の方に目をやり、すぐにこう答えた。
「未来の歌」
ピアノの音だけなのに、俺は「何の歌」だと聞き、相手も「未来の歌」だと答える不思議。
でもそれは正解だったのかも知れない。
この日、「未来の歌」はもうひとつの場所でも生まれようとしていたから。未完成だった「歌」を、北里泉ともう一人が同時に完成させていたのだから。