第10話 雪の朝
それから5分後、北里泉は最後に一つ残っていたコーヒーを一口飲んで
「熱い」
と顔をしかめた。もう淹れてから15分は過ぎてるのに。
「もう冷めたんじゃないの」
と言うと
「まだ熱いの。でも、おいしいの!」
と、こっちを見ずにもう一口飲んだ。
その周りで雪さんたちは興奮気味に話し続け
「今度さ、泉ちゃんのピアノ店内に流したら?時間決めて生演奏とか。どう?」
「お客さん、集まるかもね」
「そうじゃなくても“招き猫”だし」
「あ、そうか。招き猫がピアノ弾いちゃったら、すごいことになりそうだよね」
「あの…」
コーヒーをまだ半分も飲めていない超猫舌の北里泉が口を挟む。
「招き猫…って何ですか」
…そこから説明しなきゃ、ダメ?
帰りの車は、家の方向によって分乗。その結果、宇宙人の車に未智さん雪さん姉妹と北里泉が乗って(←なので“招き猫”の説明は二人に任せた)、夏井さんの方は俺だけになった。
「何つまんない顔してるの。当初の予定通りじゃない」
と冷静にハンドルを切り始める夏井さん。この冬最初にしてはしっかり積もった粉雪で、タイヤの音がキューキュー鳴っていた。
「そう言えば最近、海君来ませんね」
どこが“そう言えば”なの?と突っ込まれるかとヒヤヒヤしていたら、いやにすんなり夏井さんは答えた。
「あー、アイツあの後めでたく免許取れてさ、車も買ったから嬉しくて毎日あちこち走り回ってるみたいだよ」
ハリネズミがフレンドシップに現れるのは俺と夏井さん二人のタイミングが非常に多い。そのため俺は夏井さんと二人になるとどうしてもあのツンツン頭を思い出してしまう。夏井さんも、そんな風に感じているように話を続けた。
「海ねー、親のコネで就職決まって、今いちばんいい時なんだよね。もともと希望してた建設会社だし。おまけに欲しかった車も買えて、親ローンだから利息もつかないし」
「親ローン?」
「とりあえず親に全額出してもらって、就職したら毎月親に少しずつ返せばいいってやつ」
なるほど。さすが考えるね。見るからにちゃっかりしている感じだけど。何かいいなあ、順調で…って去年も誰かにそんなこと言っていたような。
「そう言えば、免許証の写真はホントにあの髪型で撮ったのかなあ」
「空君、話飛んでるよ」
「えっ、そう?」
さっきよりマシじゃない?
最近、“そう言えば”の使い方を見失っております。
翌朝、見事に町を覆った雪。
「うわあ、やってくれちゃったねぇー」
外を眺めながら、ふと昨日フレンドシップに置いて来た原チャリが心配になった。
一度気になりだすとずっと気になるので、午前中のうちに様子を見に行こうと部屋を出たら
「あら、冬休みに入ってからの方が早起きじゃないの」
母親からあたたかい朝のご挨拶。
「出かけるんなら、ついでに電球買ってきて。どうせたいした用事じゃなんでしょ」
そこまで言い当てられると素直になれなくて、黙って家を飛び出す。フレンドシップのある通りまで約2㎞の一本道。歩くと結構長く感じるな。
雪は止んで、日が差し込んでいる。
やっとの思いでフレンドシップに着くと、駐車場の隅にポツンと残された原チャリの上で、雪が半分ぐらい溶けていた。乗って帰るのは危ないかなと迷いながら残りの雪を手で払っている時、ミラーに何かが映っているのに気付いた。
車が一台停まっている。車体の色が分からないぐらい雪をかぶっているから、今さっき来たということはない。昨日のお客さんが置いていっちゃったのかな。
そして、どこからか小さな音が聞こえてきた。昔、音楽の授業で聴いたようなやつ。ベートーヴェン?モーツァルト?(これぐらいしか知らないんだけど!)なんで駐車場でこんなの聞こえてくるんだろう。それもオーケストラじゃなくてオルゴールの…。オルゴールってつい最近…ちがう、それはオルゴールじゃなくて北里泉のピアノだっけ。
その音は、どうやら停まっている車の中から聞こえているようだ。
「誰か乗ってんのかよ~」
この雪で、エンジン切った状態で一晩車の中に居たらさあ、その人は無事なのかしら。俺、ヤなんだけど。凍死の第一発見者なんて!
たぶんモーツァルトだと思う。ベートーヴェンはもうちょっと重い感じ(←完全に俺のイメージだけど)うん、でもたぶんモーツアルトってこんな感じ。軽やかでおしゃれで天才でちょっと繊細(←これもイメージ)
そう言えば(←使い方合ってる?)ハリネズミと初めて会った夜、夏井さんが話してたっけ。
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「前の日にテレビで流れた曲だとか、その日音楽の授業で聴いたモーツアルトだとか言ってさ、耳に残ってる音やリズムに合わせて歩くの…」
(第6話 「ハリネズミ」より)
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少しの間にいろいろなことを考えながら、恐る恐る車に近づく。今度は猫のノーテンキな鳴き声が聞こえてきた。そう言えば、誰だっけ?最近猫を拾ったとか言って…。
てことは?
車の窓が開いた。
「あれ、東野さん。どうしたんですか。こんな朝早く」
ハリネズミだ。やっぱりそうだ。しばらく会ってなくても変わらないその人懐こい笑顔。自分の方がよほど「どうしたんですか」だってこと、分かってる?
「凍死してんのかと思った」
「大げさですね」
大げさなもんか。
「何してたの」
「猫探し明けで、仮眠ってとこですかね」
何だそれ。
「昨日、こいつ突然いなくなって、夜中探してたんですよ。猫のクセに雪降ったらはしゃいじゃって。こっちは寒いから車で探してたんですけど、見付からないですね」
「下手すりゃ、轢くでしょ」
「ですよねェ!探しに行った猫、自分で轢いてちゃ世話ないですねー」
笑うトコじゃねーだろ。
「それで、猫ちゃんが無事そこにいるのはどうして」
「ここですよ」
「ここ?」
「そう。半分あきらめて帰る途中、ここを通った時に、自動ドアの横辺りで丸まってるのが車のライトでちょうど見えて」
「よかったですね」
「ホントです。はじめからここに探しに来れば良かった。よく考えたらこんな小さい猫の行動半径なんてこの辺までですもんね」
ハリネズミ君の言う通り小さくてまんまるい三毛猫が助手席でまどろんでいる。
「名前は?」
「セン」
「へえ、何で?」
「踏切の、線路の近くにいたから」
しばらくすると雪さんが出勤して来て、俺とハリネズミも店の中へ。雪さんは昨日の出来事が忘れられないらしく、1階の掃除をしながら一夜明けてエスカレートした構想を話しだす。
「泉ちゃんのピアノにさあ、空君のボーカルっていうのは、どう?ほら、空君は歌上手いじゃない」
「それはカラオケでちょっと上手いって言われるぐらいでしょ」
「カラオケ以外の場所で歌ったことはないの」
「ないね」
「じゃあ、例えばステージでどんな風に歌えるかは、まだ分かんないってことでしょ」
出た!最近の雪さんに多発してる宇宙人的発想。何でも「分かんない=きっと可能」って思ってるでしょ。それ(宇宙人と、雪さん両方)に振り回されてる未智さんの気持ちがちょっと分かってきた。
「…ピアノ一本で、それに合わせて一人で歌うって、音楽の授業のテストみたいですよね」
海君が、思わぬところで助け船(←俳句?)(季語は、海。)
「そうそう、俺あれ苦手だった。」
「何でしょうね。あの押しつけがましい緊張感」
それを聞いていた雪さんは、掃除の手を休めっぱなしで言い返してきた。
「私も歌のテストは苦手だったけど。でも、昨日泉ちゃんのピアノ聴いて、単純に感動したの。ピアノの音ってこんなにきれいだったんだなって思ったし。あれに合わせて歌えたらいいだろうなって!」
「そしたら、雪さん歌えば?」
「また、そういうこと言う‼私は空君の歌声いつも褒めてるでしょ(カラオケだけど)。昨日みたいなピアノと一緒に空君が歌うのを聴いてみたいの!私はいいの、聴きながら口ずさむぐらいで」
ヘンなところで遠慮深い雪さんがあんまり力説するので、うっかりその気になるところだった。
「あ、それでなければ…」
え、まだ何かあんの?
「いいよ。ピアノと歌だけじゃなくても。他に何か弾ける人がいるなら。誰かいる?」
「さあ」
一晩どころか10分毎にエスカレートする雪さんの構想を俺は止められずにいた。
「あの、ひとつ聞いていいですか」
途中から置いてけぼりになっていたハリネズミが口を挟む。
「そもそも、どうしてピアノなんでしたっけ」
こっちの不注意とは言え、俺は気が遠くなった。
「海君、そこから説明しなきゃダメ?」
昨日もこんなのあったな。
「ダメですね」
「絶対?」
「だって、分かんないですもん。それに誰ですかさっきから、泉ちゃんって」
俺はこの時まで全く気付いていなかった。北里泉と南田海は、代わる代わるフレンドシップに現れながら本人同士一度も会ったことがなかったのだ。今気づいたけど念のためトボケて聞いてみた。
「あれ、海君って北里泉に会ったことなかったっけ」
「ないですよ。もっと言えば俺この人(雪さんの方を見て)とも今日初めて話したし」
倒れそうだった。
「まあ、聞いてるうちに何となく分かるかなと思って様子見てたんですけど、途中からやっぱり分かんなくなってきて…」
「俺もちょっと気にはなってたんですよね。そのピアノ」
俺が途方に暮れている間に雪さんから昨日の一部始終を聞いたハリネズミは、そう言ってピアノに目をやった。その向こうで、猫の“セン”が日向を見つけて鞠のように寝転んでいる。
「空君、憶えてる?昨日の、どんなメロディーだったか」
「いや、全部はね…」
「私、だいたいなら憶えてるかな。確か…」
雪さんがハミングで歌いだす。聞いているうちに少しずつ次を思い出して、俺もちょっと歌ってみる。
「でも、こんなんじゃ分からないよね」
「やっぱり、今日泉ちゃんが来てからもう一度弾いてもらって…」
諦めていると、ハリネズミは首をかしげながらピアノの方へ歩いて行く。
「…分かんないですけど、もう一度初めの方から歌ってもらえます?」
ピアノの前に座ったハリネズミはそう言って、昨日俺たちが聴いた最初の和音を見事に両手で押さえながらこっちを見た。「今度は空君一人で!」と雪さんが目で訴えるので、仕方なく思い出すままのメロディーを口ずさんでみる。
それを聴きながら、ハリネズミの指は正確に、北里泉が言うところの「未来の歌」を再現してしまった。
「海君、すごい!」
いつの間にか奴の名前を覚えた雪さんが、またもや歓声をあげる。連日のエキサイティングな出来事に、もともと大きい声がますます大きくなっていた。
「いい曲ですね」
それだけ言ってさっさと鍵盤の蓋をしめるハリネズミ。
「ピアノ弾けるんだ」
俺が言うと
「4~5歳ぐらいの頃“神童”とか言われてたみたいです。親の欲目で。遊び半分で弾くのは好きだったんですけど、教室でレッスン受けたり決まった曲練習するのがキライで。サボっていたらそこで止まりましたね。よくあるパターンですけど」
そう言って笑うハリネズミは、ひとことで言うなら無邪気な奴だった。自分にどんなすごいことが出来ても、そのすごさに気付かない。それを見た人が「すごい」と絶賛しようが、たとえそれを妬むものが出てこようが、どちらも意に介さないのだ。
それともうひとつ、本当にスレスレまで肝心なことを言わない奴でもある。この日、俺と一緒に夕方までフレンドシップにいたけど、大事なことをひとつかふたつ、やっぱり言っていなかったのだった。
ところで、朝家を出たきり夕方まで遊んでそのまま夜中までバイトして帰った俺が「…電球どうしたの‼」
って母親にすんげえ怒られたんじゃないかって?
そんな、あたりまえのこと聞かないでください。




