その9 神様、幸せの対価が高すぎます
目覚ましが、鳴る。
布団を押しのけると、無防備なサキの寝顔が目に入った。
鳴りっぱなしの目覚ましの音を背後に昨日のことを思い出し、現在に至る出来事が夢でないことを確認してため息をつく。
それと同時にサキが少し顔を歪ませた。どうやら目覚ましに反応しているらしい。
「なんなのようるさいわねー……」
サキは薄目を開けると、俺を睨むように見ている。低血圧なのだろうか。
「ちょっとアンタそれ止めなさいよ。それと……今何時?」
備え付けの時計に手を伸ばし、ストップと書かれたボタンを押す。
ボタンを押してすぐアラームは止まり、俺はそのまま視線を時刻を表示しているデジタル板に移す。
「七時半」
時刻を聞くと、眉をしかめてポツリと「どうりで」ともらす。
多分、この『どうりで』というのは『眠いはずだ』などの文句に繋がるのだろう。
「アンタどっか行くの?」
「あぁ、ちょっと風呂にな」
旅行といえば朝風呂だろう。
と続けようとも思ったが、奴に十文字以上の言葉を聞く気がないことは顔を見ればわかる。
言ったところで興味もあるまい。
「ふーん。チェックアウトまでまだ時間あるわよね。もう一回寝るから、ここ出る一時間前に起こして」
それだけ言うとサキは寝相を直し、瞳を閉じた。
本当にコイツは旅行のロマンだとか、そういうのをわかっていない。
だがそれを言うとコイツも俺に対して、自分の妄想がいかに凄いかを説いてくるだろう。これもロマンなんだから、わかれ。と。
なんとも言えないモヤを抱え、ついでにタオル類や石鹸も抱え、手には部屋の鍵を持ち、荷物の中には携帯なんかもちゃんと入れて、俺は部屋を後にした。
昨晩と同じ道を歩み、一階大浴場へと足を運ぶ。
男と書かれたのれんをくぐり、引き戸を越えた先の部屋には数人分の籠が置かれていて、なんとも『ザ・脱衣所』という風情をかもし出す。
風情は脱衣所だけで感じてはいけない。素早く衣類を脱ぎ捨て、生まれたままの姿になると、軽く浮かれた気分になりながら浴場への扉を開いた。
湯気がのぼり、水の音がする。
加工された石で覆われた内風呂は、少し冷えた体を温めることに誘惑が多く負けそうになるが、俺の目的はここではない。
もう一枚の扉を開けた先、自然な石で枠を作り、自然な風と空気を味わうことのできる露天風呂。朝風呂といえばこれしかない。これでこその朝風呂。
備え付けの洗面器を手に禊のごとく体を清めると、すぐさま暖かな湯の中へ身を放り込んだ。
体……いや、身体の芯へと染み込む熱が、心の奥底から一つの言葉を湯外へ押し出す。
「生き返るー……」
しっかり三十分の入浴を済ませ、冷めないうちに部屋へ戻ることにする。
道中食堂の横を通ることで朝飯のことを思い出したが、奴はチェックアウト一時間前に起きていつ飯を食うのだろうか。俺の金を使うのならば食わないでいてくれたほうがありがたいわけだが。
部屋に戻ってからの約一時間は、目盛り三つほどの小さな音でローカル番組を楽しむことにした。
地元の催し事を紹介する女性レポーター。今日はどこそこの市場が安い、今日の昼からどこそこの川原で大鍋煮出しを行う。と、ハイテンションに言い並べてゆく。地域限定なCMも見所の一つだろう。
女性を起こすシチュエーション。
もし相手が彼女であれば、もう少し素敵で気持ちのいいものだったのだろうか。
生憎、今隣にいるのは悪魔で、起こすことにより俺に不幸が舞い降りるのが目に見えている。
だが、起こさなければそれはそれで不幸が舞い降りてくるとしたら。
起こすしかないだろう。
「おい。九時だぞ」
サキの肩を持って揺らすと、薄目を開けて俺を睨んだ。
この顔は、つい一時間半ほど前に見た覚えがある。だが負けるわけにはいかない。
「だから九時……」
「……そう」
一言答えるとゆっくりと起き上がり、枕元に置いてあった服を引き寄せた。
浴衣がはだけて見える胸元。もし相手が彼女であれば、もう少し素敵で気持ちのいいものだったのだろうか。相手がサキであることに悲しみが隠せない。もっとおいしい旅行になっているはずなのに、何故こうなのか。自分には不幸の女神でもついているのだろうか。いや、不幸の女神はきっとコイツなのだ。神は神でも死神の神だ。
などと思っていると、何故だか蹴りつけられた。
現実に戻ってみるとサキがこちらを睨みながらさらに蹴りを続ける。
「アンタ私の着替えをタダ見する気?」
そんな気は毛頭ないが、奴にはそう見えたのだろう。
「見るならお金払いなさい。払う気無いなら部屋を出ろ」
なんだか酷い言われようだが、金を払う気はさらさら無い上サキの着替えに興味もないので、さらに暴言を吐かれないうちに部屋を出ることにした。
出たといっても、ものの数分ほどで部屋に入る許可を得るわけだが。
さすが、集会予定一時間前に起こせというだけのことはある。本当に女なのかと疑うくらいに用意が早い。俺を男として見ていないゆえのことだろうが。
そんなことを考えている間にサキは荷物を纏め、まるで自分のほうが先に起きて用意をしていたと言うかのように俺の背中を押した。
尻を蹴ったと言うほうがしっくりくるのが悲しいところだ。
チェックアウト作業は全て任され、費用も当たり前のように俺が払うことになっていた。
確かに俺が払うという話で箱根まで来たが、それはあくまでサキとお袋の会話の上であって、俺自身は費用の負担を一切認めていない。断じてだ。
財布から飛び立った紙幣に後ろ髪を引かれながら、俺たちはホテルを去った。
「さ! さっさと向かうわよ! 悪の総本山へ!」