その7 事実は小説より?
泳いでいた目を正面に戻して見えた男性の顔は、ハトが鉄砲を食らった感じと言うのだろうか。落下したことに驚いているのか言い訳の下手さに驚いているのかはわからないが、視線を俺たちの頭からつま先に移すとすぐ俺を見て口を開いた。
「そうですか。それは災難でしたね。……落下の衝撃で体が痛むところもあるでしょう、どうぞ奥へお入りください。といっても、水しか出せませんが……」
さっきの言い訳で怪しまれないほどにボロボロだったのか、何故だか快く中へ入れてくれた。
玄関には長机と沢山のパンフレットが置かれている。会報や予定表のようなものだろうか。壁に貼っているプリントの「山で遊ぼう」という見出しが飛び込んでくる。どうやらオリエンテーリングのお誘いらしい。
スリッパに履き替えて廊下を進むと、少し奥目の場所にある応接間のような場所へと通された。
扉の先は大きな机と、ガラス机を挟んで置かれたソファー。
壁の天井近くに歴代の偉い人の写真が並ぶ部屋は中学時代に見た校長室にそっくりだ。イメージコンセプトがそんな感じなのだろうか。
二人して長めのソファーに座らされると、男性が奥にある大きな机からいくつかのプリントを持って向かいの席に座った。
「いやはや、びっくりですな」
気まずい沈黙でも流れるのかと思ったら、予想外に男性が陽気に話しかけてきた。
そりゃあ遊歩道から落下して青少年の家に向かう人間なんてそういないだろう。びっくりして当然だ。
そのことを伝えようと口を開きかけると、少し早く男性が自分の話を始めた。
「ここは表向き青少年の家になっていますけどね、上の人に相談して宗教法人の事務所も兼ねさせてもらっているのですよ。小さな団体ですから事務所兼本部と言いましょうか。お嬢さんに言われた時は驚きましたよ。」
逆にこっちがびっくりする話である。
まさか勘で場所を当てて、偶然見つけたなんて言うことはできまい。
「でも後半のは違いますね。私達は戦争をしたいわけでも世界中を恐怖に溺れさせたいわけでもなく、ただたんに一つの考え方に同調している人を集めただけです。それに観光案内だってしているんですよ。ここは腐っても地域密着の青少年の家ですからね」
柔らかい笑顔でそう言うと、さっき机から取り出していたプリントを机の上に広げた。
プリントには人生の平穏と大きく書かれたものや合掌の意味を説いたもの、保健だよりのように病気の予防の方法を書いたものがあり、果てには小涌谷の三つ折り観光マップまで並んでいる。
男性はそれぞれのプリントを簡潔に解説していく。観光案内のパンフレットは町の人に見所を聞き、観光者に知りたいことはないかアンケートを取って作ったらしい。保健だよりは地元の小学校に実際に配られているものだそうだ。そして本題の宗教的プリントを指した。
「私達の信念は『人生楽あるべき。楽なきところに幸せなし。苦痛や嫌なことは箱根のお山に受け取ってもらって、日々を楽しんで生きましょう』というものでありまして。役割的に言えば教会の懺悔室のようなものでしょうか。辛い時に来ていただいて心のもやを九十九の神に受け止めていただくということを主としております。このプリントだってお布施や洗脳を目的にしているのではありません。ただ、会報のようなものがないと格好がつかないと思いましてね」
言い終えると部屋から離れ、水を入れて持ってきてくれた。
水を飲みながらサキと男性の話を聞くところによると、彼のつくりだした『楽教』では、疲れた時に教団のある箱根にきて体を休めてもらうことを一番の目的にしているらしい。
ここには自然以外何も無い。だからこそ何もせず、心を無にして休んで欲しい。そして辛いことを忘れて平穏な心で毎日に戻って欲しい…と。
「明日の朝十時に集会がありますので、もしよかったら参加してみてください」
玄関先でそれを聞くと、お世話になったことに礼を言って俺達は山を下りた。
空は既に赤く染まっていて、早く下りないと麓につく頃には真っ暗になっているだろう。
宿から山までの距離はそこそこあるので念のため早く行こうと声をかけるが、サキは何やら考え事をしているらしく、俺の声は届いて届いていないようだ。
肩をポンと叩くと一瞬体をびくつかせて、思考を中断させられたことを怨むようにこちらを睨むと一言「なによ」と恨みがましく呟いた。
もうすぐ日が落ちて真っ暗になる。何の装備もしていないのに夜の山を歩くのは危険だと説得するも、理解したのかしていないのかわからない曖昧な返事をして、言う前と変わらない速度で急ぐ素振りも見せず歩く。危険かどうかより集中して考え事をできる方が重要らしい。
思ったよりも日が落ちるのが早く、三合目の休憩所に着いた頃には辺りは闇に包まれていた。所々にぽつんと外灯があるのが救いだろうか。
「やっぱり怪しいと思うのよ」
突然口を開いたかと思うとこれだ。
「……何がだよ」
呆れつつ返事をしてやると奴は大げさに身振り手振りをしながら騒ぎだした。
「あんな場所に構えてて平和な団体なわけないじゃない! 今回のは私たちを追い払う口からでまかせ。きっと明日仲間が増えると私たちを洗脳しにかかってくるに決まってるわ!」
何を言ってるんだコイツは。
怪しい掛け軸も怪しい仏像も怪しい衣装も何もないような、人のいい人間の運営する、人のいい宗教に迷惑をかけておいてなんと失礼な。
「私は絶対洗脳されないんだから。アンタも気をつけるのよ?」
「はいはい」
生返事をする頃には山を降りきり、踏み切り一つ渡ればもう宿の目の前というところに差し掛かっている。
そういえば晩飯はどこで何を食べよう。
……といっても、何を食べようが食事中はコイツの妄想論を止め処なく聞かされることになるだろう。
黙って食べるといえばなんだろう。うどんだろうか?
だが折角だから現地でしか食べれないものを食べたいものだ。……しかし、良いものを食べた所でコイツの話を聞いていては良い思い出にはならないだろう。
考えていてもしょうがないので俺は適当に目に付いた天丼屋に入ることに決めた。
「おい。晩飯ここでいいか?」
奴に否定権をやる気は毛頭無いが機嫌を損ねることのないように訊くことだけは欠かしてはいけない。
もし訊かずに決めたなら帰宅後お袋に告げ口をされるに決まっているのだから。
「別にいいけど、おごりなんでしょうね」
……さようなら俺のお年玉……っ。