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揺れる永久歯

作者: 叶 こうえ

 抜けるか抜けないかの瀬戸際にある歯は、見る者をハラハラドキドキおっかなびっくりさせる。もしこれが自分の歯だったら絶望感に襲われて好物も喉を通らないだろう。

「おかあさん、力任せに歯を磨いてません?」

 さっきゴミ箱行きにした義母の歯ブラシは、毛先部分の真ん中がだいぶ凹んでいた。隕石が落ちた草むらのように。あんなもので鏡も見ずに擦っていたら、歯茎まで削ってしまうことになる。

 私は新品の歯ブラシを利き手で軽く握り、もう片方の手で義母の薄い上唇を捲り上げて、上の歯列を軽くブラッシングし始めた。

「もうちょっと優しく磨かないと。歯周病も酷いし」

 マスク越しでしゃべっても、目を瞑り大口を開けて私の膝の上でされるがままになっている義母には、はっきりと聞こえないだろう。聞こえないほうがいいのかもしれない。

 上の奥歯二本は抜けてからずいぶんと時間が経っているようだ。補填することもなく放置された穴は、歯があったことなんて忘れたかのように平然とした体を成している。触ると滑らかだった。上の前歯二本は擦る度に明らかに動揺する。リンゴを丸かじりしたら一発で抜け落ちそうだ。

 次は下の歯。できるだけ唾が飛び散らないように、小刻み且つ静かにブラシを歯に当てる。膝に載っている頭が右側に傾いで膝から落ちそうになる。

「おかあさん?」

 右膝を軽く浮かせ、頭を元の位置に戻した。

 義母の口がだらしなく緩んでいる。眠ったようだ。力の抜けた上下の唇を捲る。

 六十代後半の口内事情なんて、こんなものだろうか。

 俯瞰して見ると、義母の歯は旬を過ぎた茹でていないトウモロコシのようだ。歯茎も紫色で血色が悪い。おろしたばかりの歯ブラシには赤い斑点が浮かんでいる。

 これはもう、徹底的にプラークを削ぎおとすべきなのかもしれない。だけどこの場には、ワンタフトブラシもフロスも置いていなかった。

 畳の上に敷いたティッシュに歯ブラシを置き、義母の頭を自分の膝から床にそっと移動させる。膝に載せていたブラウンのフェイスタオルの繊維には、義母の白髪が三本絡んでいた。それらすべてを摘まんで、近くにあったゴミ箱に捨ててから、両手にはめていたラテックスの手袋を外した。

 義母の歯磨きをする、なんてシュールな状況に陥っているのは、娘の澪のせいだ。彼女が義母に向かって「おばあちゃんのお口、臭い」と言い放ったせいで、こんなことになった。孫に言われた辛辣な一言に、義母の顔は一瞬凍った。数秒置いて、「圭子ちゃんも、私の口臭いと思う?」と、答えづらい質問を投げてくる。

「お願い、本当のことを言って。本当に臭いんだったらどうにかしないと。周りの迷惑になるでしょ?」

 義母にしては殊勝な態度だった。真実を言ってあげるほうが親切なのかもしれない。若干、これはトラップなんじゃないかと疑いながらも、たしかに義母の口は歯周病患者特有の口臭を放っていたので、正直に「臭いです」と答えたのだ。

「圭子ちゃんって、歯科衛生士だったんでしょ? ちょっと見てくれない?」

 断れるわけがない。歯科衛生士としてのプロ根性に火がついた。


「圭子ちゃん、さっきはありがとうね」

 台所の流しで皿洗いをしていると、後ろから声をかけられた。一応振り返り、義母に笑ってみせる。

「どういたしまして。また言っていただければ、やりますよ」

「その話し方やめて? 堅苦しいから」

 私は、はあ、と曖昧に返事をした。

 結婚して七年が経っているのに、未だに敬語を使ってしまう。砕けた口調にしたら、それはそれで義母は気に食わないんじゃないかと思う。

 義母が隣に立ち、生ごみ袋の口をきつく縛った。

 そういえば彼女が作ってくれた麩入りの煮物が美味しかった。澪の残した分が、袋越しに透けて見える。

「歯、すっきりしました?」

「すっきりした気はするけど……起こしてくれればいいのに」

 数分うがいが遅れただけなのに恨みがましい目で見られ、私は苦笑した。

「気持ちよさそうに寝てたので。起こしちゃ悪いと思って」

「うがいしないで寝るよりはマシよ」

 また寝ちゃったときは起こしてよ、と義母が付け加えた。

 義母が話すと、サ行だけやけに鼓膜に響く。唾液と舌が絡まった音もいちいち掬い取ってしまう。さっき彼女の歯をじっくり見たから気になるのか、はたまた、義母が「姑」だからか。

 静かな夜だ。流しの前にある小窓は全開で、目の粗い網戸には、モンシロチョウのような蛾が張り付いている。羽を畳んでするっと室内に入ってきそうで気持ちが悪い。

「ちょっと澪のこと、見てきます」

 一時間前に寝付いた娘のことが、少し気になった。ちゃんと布団に収まって眠っているだろうか。

 泡の付いた手を洗ってから、私より十センチ背の低い義母に軽く会釈して、台所を後にした。

 私たち親子にあてがわれた部屋に行くと、案の定、枝豆のように敷布団から飛び出ている娘の姿が目に映った。体を縮こまらせ、顔を畳に擦り付けて寝息を立てていた。

 ここまで寝相の悪い人間を今まで見たことがない。

 私は呆れながら、澪の体をソフトな手つきで転がして、布団まで誘導した。もうお姫様抱っこはできない。来年小学校に上がる娘は、二十キロを優に超えている。

 くすーくすーと可愛い息の音が聞こえてくる。娘の頬をさわさわと撫でてから、開きっぱなしの口をじっくりと覗いた。下の前歯が一本、グラグラしていてもうすぐ抜けそうなのだ。待機している永久歯も歯肉から透けて見えている。

 乳歯から永久歯に生え変わるこの時期は、澪にとって大事な分岐点になる。

 娘の横に寝転がり、彼女のサラサラの髪の毛を指で梳く。このまま眠ってしまいたいが、それは無理なことだった。

 まだ夜の十時。義母が布団に入るまでは、相手をしないといけない。

 私はジーンズのポケットからスマホを取り出して、夫にLINEをする。

『早く仕事終わらせて、こっちに来てよ』


「おかあさん、おかあさん!」

 甲高い声で呼ばれ、私は渋々目を開けた。

 昨晩は蒸し暑くて扇風機の風も生ぬるかったし、枕は固くて寝心地が悪いしで一睡もできなかった。朝方やっとウトウトしてきた頃に、こうやって娘に尻を踏まれて起こされた。

「なによ」

 娘が私の尻から跳ねて降りた。

「壁! 虫!」

 彼女が指でさしたのは、スパンコールの粉をまぶしたようなキラキラ光る灰色の砂壁だった。そこを足の長い蜘蛛が一匹、天井に向かって這っているのが見える。

「ひっ」

 私はぎょっとして、思わず悲鳴をあげた。

 大人の手のひらぐらいある体型にはゾッとするものの、気色悪い色ではないのが救いだった。黒一色。赤とか黄色だったら近寄れない。

「澪、虫取り網!」

「はい!」

 返事は素晴らしかったが、娘はきょろきょろ周りを見渡した挙句、「あれ、どこだっけ?」とヘラヘラ笑って聞いてくる。そうやってぐずぐずしている間に蜘蛛は天井を横切り、箪笥と壁の隙間に体を滑り込ませて消えた。

「あーあ。消えちゃった」

「どうしよう、また出て来るよね?」

 澪が泣きそうな顔をする。虫取り網をどこかにやったのは娘だというのに。昨日ぶんぶん振り回して遊んでいるのを見た。そのあとどこにしまったのか私にはわからない。またあの大きい蜘蛛が夜にひょっこり出てきたらと思うと私だって気が滅入る。

 澪が私の腕を揺すりながら「お父さんいつこっち来るの?」と聞いてくる。

「今日の夜か明日の昼、かな」

 夫は私たちほど虫嫌いではないから、さっきの蜘蛛だって平然とした態度で捕獲して外に放ってくれるだろう。

 二年前までは、蠅を手で叩くほど虫に強い義祖母がこの家に住んでいて、私たち家族を迎えてくれた。部屋のなかで名の知らない生き物と遭遇したときは、とにかく義祖母を大声で呼んだものだ。

義祖母の豪快で表裏のない所が好きだった。

一昨年の十二月――年末になったら会いに行こうと家族で話していた矢先、彼女が脳溢血で倒れたと電話で知らされた。その日のうちに病院に駆けつけたし、呆気なく死んでしまったときはショックで放心した。澪も義祖母には懐いていた。

「ひいおばあちゃんのお墓参りに行こうね、お父さんが来たら」

 澪が勢いよく頷き、「お腹すいた!」と叫んで台所に駆けていく。蜘蛛のことはすっかり忘れているようだ。

 二組の布団を押し入れに仕舞ってから、私も台所に向かった。

 台所にはもう義母がいた。

「おはようございます」

 息を吸い込んでから、義母の細い背中に声をかけた。

「ああおはよう。昨日はちゃんと眠れた?」

 こちらを振り返らずに義母が言う。

「あんまり眠れなかったです」

 私は正直に答えて義母の隣に立った。彼女の握っているフライパンを覗くと、ベーコンの上で卵の白身がプツプツと音を立てていた。黄身は三つ。澪の好きなベーコンエッグだ。

「あ、ありがとうございます。澪、目玉焼き大好きで」

 澪は隣の居間にいる。ダイニングテーブルの椅子に座って、朝のアニメが流れているテレビを見ながら、味わうようにして何かを飲んでいる。透明のグラスに入った黄色い飲み物を。 ああジュースだ。否――正しくはオレンジ果汁十パーセント入り飲料。ジュースもどきだ。自宅では特別な日――誕生日やクリスマス――にしか飲ませていない。

「澪にはいつも、牛乳を飲ませてるんです」

「たまにはいいじゃないの。ここにいる間ぐらい好きなもの飲ませてあげたら」

 私はそうですね、と同意することができなかった。

 糖分がたっぷり入った虫歯生成ドリンクを、澪にはできるだけ飲ませたくなかった。とくに今は生え変わりの時期。虫歯になりやすいのだ。

 義母がフライ返しで目玉焼きを掬い、白い大皿にさっと載せた。手際が良い。 

「そんなに澪ちゃんの食事を管理したいんなら、さっさと起きればいいでしょ」

 その通りなので、私には言い返す言葉がなかった。

「コーヒー淹れます」

 もう三人分の厚切りトーストは食卓に並んでいる。ガラスの器に入ったヨーグルトも三つ。その中には、義母特製のリンゴのコンポートが混じっている。

 コーヒーを淹れるぐらいしか私の仕事はなかった。

 レギュラーコーヒーの袋やフィルター、マグカップなどの置き場所は覚えている。義母も私もブラックコーヒーが好きだ。目盛りのないガラス製のコーヒーサーバーに乳白色の陶器のドリッパーを載せ、フィルターをセットしてコーヒー豆を目分量で二人分、袋を振って落とす。この家にはケトルがないことを思い出し、私は慌てて、やかんに水を注ぎガスコンロに載せ、火を点けた。

「澪、テレビ消しなさい」

 澪と一緒になってテレビを見ながらパンを齧る義母を睨んでやりたくなるが、実際にできるわけもなく。

 やかんでお湯を沸かすなんてここ十年、自宅では行っていない。シュウシュウと湯気の音が立った時点で火からおろせばいいのか、ピーッと笛を吹くような音が出るまで待つべきか暫し逡巡したが、後者が手堅いと感じて、そうなるまで台所に立ったままお湯が沸くのを待った。

 コーヒーをさっさと注ぎ、マグカップをふたつ手に持って、私は食卓に着く。六人掛けのテーブルはスペースに余裕がある。三年前に舅が死んでからは、上座に座る人はいない。

 まだテレビはついたままだったので、「消しますよ」と一言断ってからリモコンでテレビを消した。ちょうどそのとき外から「月の砂漠」が流れてきた。なんとも物悲しい音色だ。

「七時ですね」

このオルゴールの旋律は、毎日朝の七時、正午、夕方五時に町内放送で流れるのだ。

「今日はどうするの? 天気よくないから海に行くのもね」

 たしかに今朝は、昨日のように日差しが強くない。曇りだ。室内の電気をつけたくなるぐらい暗い。

「どうしようかな……澪、どこか行きたいところある?」

 とりあえず娘の意見を聞いてみる。

 向かい側でエレクトーンの椅子(不思議なことにエレクトーン本体は家にない)に座って足をぶらぶらさせている澪は、「海がダメならプール!」と元気よく答えた。

「澪ちゃん、お行儀悪いよ」

 下座に座っている義母が、ハムエッグを咀嚼しながら澪を窘めた。

「天気悪いからプールもダメよ。水温も低いと思うし」

「えーつまんない」

 プールプール、と娘がしつこく連呼する。口からぼろりと白身が零れた。

「澪、くち」

 腕を伸ばして澪にティッシュを一枚手渡すと、彼女は鬱陶しそうに眉間に皺を寄せて唇を尖らせた。のろのろと、汚れた顎を拭いたあと、テーブルに落ちた白身をティッシュで包んだ。

「澪ちゃん、アニメでも見る? 録画したやつがあるから」

 義母の提案に、私はウっとなる。この家で過ごすのがちょっと――いや、正直なところかなり苦痛なのだ。澪と一緒にアニメを見て寛ぐというのも、義母がいる手前難しい。たぶん正解は私が自ら進んで家事を申し出る、なんだろう。昼食の準備だとか、普段の掃除で行き届いていない場所を綺麗にするだとか。だけど私は、家事全般が苦手だった。いや、一般的なことは普通にこなせるのだけれど、義母と比較されると厳しいものがある。家事が完璧な義母の前だと、失敗したくなくて緊張してしまうのだ。

 こんなとき、義祖母が生きていたらと思う。

 毎年、年末年始とお盆にはここに来るのが慣例だった。居心地が悪いときは義祖母の部屋を逃げ場所にしていた。お年寄りの話し相手という体の良い役割があった。

 私は義祖母と仲が良かった。

 いつもクシャミを我慢したような顔をしていて、のほほんとしていて、話すことも大らかで。神経質でしっかり者の義母とは違った。


テレビの前から動かない澪を残し、私はナップザックを背負って玄関から外に出た。隣にあるガレージのシャッターを開けてなかに入る。以前は義父の車が駐車してあったが今はない。彼が他界してすぐに、義母が二束三文で売り払った。義母は免許を持っていない。

 がらんとしたガレージの壁側に、ハンドルと籠が錆びたママチャリと、購入して三年目の夫のマウンテンバイクが並んでいる。私は迷いなく後者を選んだ。自転車をついて外に出ると、チリン、と鈴が鳴る音が聞こえた。待ってましたとばかりにミーコが車輪に擦り寄ってくる。にゃあ、と甘えたようなか細い声も、艶のある黒一色の体毛も気品がある。ミーコは義母が飼っている猫だ。十年ほど前からこの家の敷地内で放し飼いにしている。たまに敷地から外に出て汚れて帰ってくることもあるのだが、夕飯時には家に帰ってくる利口な猫だそうだ。

 前輪に体を寄せてくるミーコを見下ろす。彼女は緑色の目に期待を浮かべてこちらを見上げている。

 私はハンドルを持つ両手に力を入れて、自転車の前輪だけを持ち上げた。そして軽く猫を轢いた。コロコロと車輪で背中のあたりを撫でる。すると、ミーコは気持ちよさそうに喉を鳴らした。私はほっとした。前回やったときは力加減を間違えて負荷をかけすぎてしまった。そうとう痛かったようで、ミーコはギャンと鳴いて車輪の下から逃げてしまったのだ。

マウンテンバイクはふつうの自転車と違って車輪がごつい。そのことを計算に入れていなかったために起こった失敗だった。だが運悪くその場に義母もいて、私は彼女に怒られた。そんなに力いっぱい轢いたら痛いに決まってるでしょう! と。

 義母は愛猫家だ。姑のなかでは、ふってわいた嫁よりも長年世話をしている飼い猫のほうが優先順位が高いのだろう。当たり前だと思う。私だって、自分の実家で十五年飼っているマルチーズのチェリーのほうが姑よりずっと可愛い。

 ミーコが車輪の下からするりと這い出た。にゃあ、とひと声鳴いてヒゲを震わせたあと、ガレージと家の隙間をソロソロと歩いて行き、あっという間に私の視界から消えてしまった。


 まっすぐ駅まで向かい、目当てのスーパーで買い物を済ませ、あとはのんびりと自転車を漕いだ。少し遠回りをして、海岸沿いの車道を走る。お盆休みは明日からのはずなのに、見下ろした先の海浜浴場は、そこそこの賑わいを見せていた。天気だって決して良くはないのに、波打ち際は水着姿の大人と子供でひしめき合っている。

 ペダルを軽く踏む。しょっぱい潮のにおいが鼻に突く。湿気った風が顔に纏わりつき離れない。

夫は実家に帰省すると、天気が良い日は必ずサイクリングをする。海岸の周りをニ三周すると、仕事その他で蓄積したストレスが霧散するらしい。結構なことだ。

力強くペダルを漕ぐと、風が勢いを増した。向かい風。飛び込んでくる不機嫌な空も雲も無遠慮に駐車している車の群れも、あっという間に流れて消えていく。前傾姿勢が辛くなってくる。やはりふだん使っているママチャリのほうが楽だ。だけど、義母の自転車はあまりにも古くて錆びていて、乗るのが恥ずかしいと感じてしまう。

今年の一般的なお盆休みは明日からだ。でも私は専業主婦で暇だから、「早く海に行きたい」とごねる娘を連れて、昨日から義実家に来ている。

 ――俺は後から行く。おまえは澪と先に行ってろよ。

 ノーと返される可能性を微塵も考えていない口調に、「あなたの実家なのに」と反論できない自分が情けなかった。

働いていない。家事も家政婦並みに完璧なわけじゃない。澪の育て方がこれで合っているのかなんて全然わからない。自信がない。

 仕事を辞めずに働いていたら、夫より一足先にここに来ることはなかった。お金ももっと貯まっていた。

 平坦なアスファルトをまっすぐ進んでいくと、澪が行きたがっていたウォータースライダーが売りの私営プールが見えてきた。明日は晴れてほしいなあ、と思いながらレジャープールを通り過ぎ、海岸沿いの道路を右折した。トラック一台がギリギリ通れそうな道路を突き進み、あと十回ペダルを漕いだら義実家に到着する、というときだった。前方から歩いてくる中年の男を確認し、慌てて急ブレーキをかけた。

男の顔に見覚えはなかったが、彼が抱いている猫は知っている。間違えようがない。黒い光沢のある体毛、ピンと立った耳、薄い緑色の目。

「あの、その猫!」

 わざと非難を込めて呼びかけた。私は彼の腕の中にいる猫を指さした。しかし、目の前にいる男は平然としていた。こんにちは、なんて挨拶まで寄こしてくる。なんてふてぶてしい男なのだろう。

「うちの猫です。この子」

「え? なに言ってるんだよ。俺の猫だよ」

 心外だ、とでもいうように男がしかめっ面をして見せた。

 ミーコの首に視線を走らせた。さっきまで付けてあった銀色の鈴が外されている。

「ミーコ、こっちおいで!」

 手招きしてみるが、猫は興味なさそうに欠伸をするだけだ。

 私は急に不安になった。この猫はミーコにそっくりな猫ってだけかもしれない。

 バカにしたように私を一瞥して、男が猫を抱いたまま歩き出した。

「あ、ちょっと!」

 咄嗟に声が出ていた。通せんぼするように、マウンテンバイクを彼の体に向けた。

「ミーコ、ほら、ぐりぐりしてあげるから」

 私はハンドルを持ち上げ、前輪を浮かせた。この猫がミーコなら、車輪の下にもぐってくるはずだ。

 ハンドルを握る手に汗が浮かんだ。早くこっちに来て! と祈るような気持ちで、黒猫の目を見つめた。

 猫が目をぱちぱちさせてヒゲをピンと立てた。男の腕のなかからするっと飛び出し、すとんと地面に着地した。そのまま車輪に寄ってきて、また「にゃあ」と鳴いた。期待に満ちた目を向けてくる。

「やっぱりうちのミーコです。ほら、こうやってマッサージしてやると喜ぶんですよ」

 伏せの体勢になっているミーコの伸びた背中を、優しく車輪で撫でてやると、なんとも気持ちよさそうに目を細めて、うにゃあ、と鳴いた。

 男はチっと舌打ちをして、面倒くさそうに口を開いた。

「――別に盗んだわけじゃない。道端を歩いてたから野良だと思ったんだ。可愛かったからちょっと遊んでやろうと思っただけだよ」

 自分の猫だと主張していた男は、バツが悪そうに視線を明後日の方向に向けて、小走りになって逃げて行った。


 猫が盗まれそうになった話を義母にすると、彼女は大袈裟に驚いたあと、ありがとうを連呼して私の手を握った。

「もし圭子ちゃんが見逃しちゃったら、もう二度と戻ってこなかったわよ」

 だいぶ興奮しているようで、義母の頬がいつもより赤い。口端に溜っていた唾が首のあたりに飛んできた。

「圭子ちゃんって機転が利くわよね」

 こんなに手放しで義母に褒めされたのは、今日が初めてだ。

 ミーコは居間の隅っこで丸くなって眠っている。私が買い物に出ている間に、外を存分に散歩していたのだろう。そして誘拐されそうになったのだ。

「澪ちゃんがしっかりしてるのも、圭子ちゃんに似たのかもね。テレビもね、三十分ぐらいしたら自分から見るのをやめたのよ。おかあさんと約束してるからって」

そういわれ、私の胸はじわっと熱くなった。これは嬉しい。自分のことを褒められるより何十倍も嬉しい。

 澪はミーコの傍に座って色鉛筆で絵を描いている。と、急に顔を上げて指で口をこじ開けた。白くて小さい歯をしきりに触っている。

「おかあさん、歯がぐらぐらしてる」

「ああ、下の前歯だよね。そろそろ抜けると思うよ」

 歯の話題が出て思い出した。私はナップザックから買って来たものを取り出した。

「おかあさんに、これ」

 テーブルの上に置いたのは、ワンタフトブラシ一本と、楊枝型のフロス三十本入り一パック。楊枝型なら、フロス初心者の義母でも簡単に使えるだろう。

「あとで使い方教えますね」

「ありがとう。昨日、夕飯のあと磨いてくれたじゃない? そのお陰か、いつもより歯茎のムズムズが弱い気がするのよ」

 今日は午前中から幸先が良い。こんなに義母から感謝される日が来るなんて。顔が勝手に緩んでしまい、私はさりげなく頬に手を当てた。

「なんで辞めたの。育児休暇取ればよかったのに」

 前にも言われた科白だ。高揚していた気持ちが急にすっと静かになった。

私だって、澪を産んでも仕事は続けたいと思っていた。

「最初はそのつもりだったんですけど」

 いつもならここで曖昧に笑って濁すところだったが、今日は話してしまおう。そんな気分だった。

出産を終えて一か月が経った頃、私は澪を連れて勤め先の歯科医院に挨拶に行った。昼休憩の時間帯だったから、同僚も医院長も笑顔で迎えてくれたが、雑談が終わってそろそろお暇しようとしたときに、医院長が私にだけ聞こえる声で話しかけてきた。

「産休が終わったらすぐに復帰できない? 今の感じなら、患者さんの受けも良いだろうから」

先生の顔に意味深な笑みが浮かんだ。最初は何のことかわからなかった。先生の視線が私の胸に向かっていることに気が付いて、私は妊娠前より二カップ大きくなった胸を澪の体で隠した。

 怒りより先に、未だにこんなことを言う奴が居るのかと、絶滅危惧種を見つけたような驚きを覚えた。次に訪れたのは落胆。医院長がこんなセクハラ発言をする人間だったとは。

一年しっかり育児休暇を取り、卒乳してから仕事に復帰するつもりでいた。一年ぐらい現役から離れても、十年積んだキャリアが消えるわけじゃない。なのに、十年務め慣れ親しんだ職場が、先生のたった一言で急に居心地の悪い場所に変わってしまった。

先生はわざと私に嫌われるような発言をしたんじゃないか。辞めてほしいから――自分自身を否定されたように感じてしまった。古株はお払い箱にしたいのかな。若くて元気で華やかな女の子を雇いたいのかもしれない。歯医者だって今はコンビニより多い時代で、サービス業の一面を持っている――。

「そんなわけで、衝動的に辞めちゃったんです」

 いま思うと、なんでこんなことで心が乱れたのか不思議だ。ホルモンバランスの崩れで、精神不安定になっていたのだと思う。妊娠、出産後は、ふつうならどうってことないことが、大切な人から「死ね」と言われたみたいにショックだったりするのだ。

「浅はかでした。辞めなければよかった」

 私はテーブルの上に積まれたソラマメを剥きながら話を終わらせた。義母は台所に立って味噌汁をひと煮立ちさせている。

「そんなことないわよ。辞めてよかったんじゃない? その歯医者、出産した女性はもう女じゃないって思ってそう」

 少し憤ったように義母がおたまを振った。

「澪ちゃんが小学校に入ったら働いたら? 圭子ちゃんならすぐに仕事、見つかるわよ」

「――ありがとうございます」

 台所の小窓から日が差している。昼から晴れるのかもしれない。

「澪、昼ごはん食べたら海に行こうか」

 まだ猫のスケッチをしている澪に声をかけると、彼女は涙目でこちらを見た。私と目が合った瞬間、澪が「うおおおお」とど派手な泣き声を上げた。大きく開いた口からは、血の混じった唾液が漏れてくる。

「あ、やっと抜けた?」

「怖い、怖いぃぃ」

 顔中を涙で濡らして立ち上がり意味もなく足踏みをする。澪の手から歯がこぼれ落ちる。

「大丈夫だって」

 優しく声をかけながら、彼女に近づいて背中を撫でてやる。

「もう――怖がりねえ」

 義母が呆れたように苦笑する。

 私は気にせずに、ポケットからスマホを取り出してメッセージを打つ。

『澪の歯が抜けたよ』

 定型文になりつつあった『早くこっちに来て』は、やめておく。了


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