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携帯電話が鳴って、表示に三春の名前を見たとき、ルイスは理由もなくほっとした。
週末の間、各自自宅で調査を進める手筈になっていたけれど、大した成果もなく、パソコンの画面を睨む作業に飽きた土曜の午後だった。
「夕食、食べに行こうよ。サラと一緒にさ」
急な話にルイスは驚きつつも、サラをどう誘うか、咄嗟に頭の中でシミュレーションを始めた。
昨日の今日で誘いを懸けて、がっついた男だと思われないだろうか。あれこれ考えを巡らせて返事が遅れたルイスに、三春がさらりと告げた。
「サラは、友達に夕食の約束をキャンセルされたんだって」
「何だって? 三春、サラに電話したのか?」
顔が熱くなった。なんて馴れ馴れしい真似をするんだろう。婚約者がいるくせに。
昨日、「電話してやる」とからかったのは、冗談だった。けれど、婚約者の番号とちょっとした日本語が分かるなら、ご注進の電話を入れてやりたかった。
「したよ。ルイスは考えもしなかったでしょ。いつも減らず口ばっかり叩くくせに、女の子には奥手だね」
言い返そうとして、ルイスは言葉に詰まった。
実際、ルイスがサラに電話したなら「三春が誘えって言うから」とか何とか、スマートでない言い訳をしたに違いなかった。
唸り声を洩らしたルイスに、三春は待ち合わせの場所と時間を教えた。
机を蹴飛ばさんばかりに苛立ったルイスだったけれど、三時間後、テーブル越しにサラの笑顔を見たときには、三春の手腕に感謝すらした。
待ち合わせはマリーナ・デル・レイのレストランだった。サラの滞在先だ。
マリーナ・デル・レイはロサンゼルス市の西側で、サンタモニカが近い。マリーナの名の通り、世界有数の規模を誇るヨットやボートを係留する港街だ。
宿の提供者に夕食をキャンセルされたサラが指定したレストランは、西にマリーナを望む入江の際にあった。
西日の強い時間帯は過ぎて、今は西側の空がオレンジになっていた。テラス席は風が心地良かった。
「やっぱり海の近くは、ほっとするな」
ルイスが育ったのは、ロサンゼルスよりも北西でずっと内陸のサンタ・クラリタだ。今は勤務地に近いグレンデール市に住んでいて、いずれも海からは遠かった。
しかし、祖父母がロサンゼルスは、ずっと南にあるサンディエゴに住んでいる。海軍軍人だった祖父は、最後にステーションとなった場所に引退後の住処を構えた。ルイスは小さい頃からよく預けられて、時には数か月を過ごした。
考えなしに言葉を発して、ルイスは慌てて隣を見た。三春と海の話はした機会はないけれど、複雑な思いがあるのではないか。
「うん、海の近くはね」
ただルイスの言葉をなぞった、ぼんやりした声だった。気にはならなかったかもしれない。辛いことが起こった海だったとはいえ、災害の後も毎日ずっと海と隣り合わせで暮らしているのだし。
三春よりもルイスの挙動を気にしたらしいサラが「海がどうかした?」と尋ね、三春が柔らかく答えた。
「俺の街は津波の被害が大きかったから、海が苦手かも、って気を遣ってくれたんだ。優しいだろ、ルイスは」
「本当に気を遣っていたら最初から何も言わないよ」と、いつもの調子の突っ込みは、痛ましげな顔をしたサラの前では出せなかった。
ルイスは曖昧な笑顔を浮かべるに留めた。非常に格好が悪い。サラはもう三春相手に津波の話をし始めていた。
イタリアンを中心にメニューの幅が広いのが取り柄の店で、サラはパスタとサラダを、ルイスと三春はステーキを食べる間、話題は津波から三春の婚約者の話になっていた。毎日、欠かさず電話が架かって来ることも、サラは面白そうに聞いた。
「気が強くてさ、ケンカで勝てたためしが一度もないよ」
目尻を下げまくって、三春は頭を掻く。五つ年下の婚約者とは、家が近所で昔からの知り合いだけれど、大学はお互いに県外に行って、付き合い出したのは、五年ほど前からだそうだ。
「五年? どうして結婚しないの?」
サラが、パスタのパセリが吹き飛びそうな勢いで声を高くした。
「プロポーズして婚約して、すぐに震災があったせいだなあ。落ち着くまでって言い続けて時間が経っちゃって、おまけにこの研修だもん。でも、帰ったら、ちゃんとするよ」
訥々とした説明が決意表明に変わると、サラが目を細めて頷いた。
打ち解けて来たサラは、ルイスに外見の話を振ったりしながら、自分の話をした。父親はチュマッシュだが白人に近い外見で、母親はドイツ系の白人だそうだ。
「生まれ育ちは居留地よ。でも、大学はロサンゼルス市内だったから、土地鑑もあるし、友達もいるわ」
微笑むサラと見惚れるルイスを見比べて、三春が無神経とも思われる感想を洩らした。
「ルイスもサラも半分白人だけど、サラは白人ぽくて、ルイスは違うね」
「混じり方が違うから、外見だって違うのは当然だろ」
三春の口調には嫌味がないので、肌の色を持ち出されても平気だった。サラが悪戯っぽい目をして、口を開いた。
「そうね。この中で元々のネイティブ・アメリカンにDNAで近いのは、三春だわ」
「ああ、そうかもね」と、三春が得々と頷いて、続けた。
「元々ネイティブ・アメリカは、モンゴルから来たんだよね。アジアを通って、当時まだ陸続きだったアリョーシャン列島、アラスカを経由して一万四千年くらい前に北米大陸に移住したんでしょ」
「三春、よく知ってるな。移動の経路で定住した人たちが、今の中国人や日本人、エスキモーの祖先になったと言われているよ」
少々驚きながら、ルイスは三春の説明に付け足した。
「NAUに配属されてから、スティーブに言われて勉強した」
半分照れた三春の表情が珍しくて、ルイスもつい笑った。ルイスだって、歴史文化の勉強を始めたのは配属以後だから、偉そうな顔はできない。
「大移動といえば、昨日、LWが旅人だった話が出たよね?」
唐突に三春が話題を変えた。
「昔の日本で地域によっては、他所から来た人間を『マレビト』として、神性を見出していたんだ。アメリカでも旅人を特別視する習慣はあったのかな? もっとも日本の話は、九千年も前じゃないけど」
さらに、「これも年代は全然違うけど」と、前置きして三春が語ったのは、日本の民俗学の「六部殺し」の伝承だった。
六部は霊場を巡る巡礼僧で、旅の途中である農家に宿を乞う。たまたま六部が大金を持っている事実を知った農家の主人夫妻は、欲に駆られて六部を殺してしまった。
「あら、酷い」
「言っておくけど、日本人全員が強欲じゃないから」
まるでコメディーのようなサラと三春のやり取りを挟んで、三春は物語を続けた。
「数年後、裕福になった夫婦の元に生まれた子供が、六部の生まれ変わりだったと分かるんだ。六部がただの旅人だったり、細部は違っても同じような話が、日本各地にあるよ」
馴れた風に説明する三春を、ルイスは泳ぐリスでも見る気分で眺めた。日本人全員が自国の民俗学に詳しいのだろうか。
「旅をする人間も、受け入れる側もリスクがあった話だよね」
説明を締め括った三春を、サラが眩しそうに見た。
「私たち、チュマッシュに当て嵌めれば、LWを殺してタールピットの脅威から逃れる利益を蒙った形になるのね。だけど、LWの生まれ変わりだって、八千九百年前くらいには死んでるわよ」
「そもそも九千年前のLWと、ここ千年くらいの話を比較するのはどうなのさ?」
サラの尻馬に乗って、やっとルイスは突っ込みを入れたが、三春は涼しい顔で別の話を持ち出した。
「じゃ、昔の話をしよう。ケネウィック・マンも旅人だった可能性が高いでしょ」
ケネウィック・マンは、一九九六年にワシントン州ケネウィック市で発見された男性の人骨だ。およそ九千三百から九千六百年前に亡くなったと見られていた。
ルイスはLWを調べる過程で、おおよその話だけは知っていたが、ケネウィック・マンが旅人だとまでは知らなかった。
「ケネウィック・マンの調査は、LWに比べてかなり進んでいるわね」
実にスムーズにサラが三春の言葉に反応して、説明をし始めた。
「内陸のケネウィックで亡くなって、コロンビア川の川岸に埋められけど、本人は川の水もあまり飲んでないし、主に海洋性哺乳類を食べていた事実まで分かっているでしょう?」
「へえ、そうなんだ」
正直な感想を洩らすと、三春が唇の片端を上げた。
「ネットで一番メジャーな百科事典サイトにも載ってるよ」
英語を読むのは格段に遅いくせに、LWの調査をしながらケネウィック・マンの記事まできっちり読んでいたようだ。
「けど、ネイティブ・アメリカンの部族がケネウィック・マンの返還を要求して、政府が認めないまま膠着状態なのは、知ってるよ」
サラに、NAUの職員としてあまり無様な姿は見せまいと、ルイスは言い返した。ネイティブ・アメリカンの動向は、他州でもある程度まで把握している。
ところが三春は感心してくれなかった。
「そうだね。政府が認めない理由の一つは、ケネウィック・マンの頭蓋骨が当時のネイティブ・アメリカンとは違っているからだ。頭蓋骨測定学によると、ケネウィックマンはポリネシアンか日本のアイヌだった可能性が高いんだ」
ポリネシアンは、もちろん知っている。だが、日本にアイヌという民族がいたとは知らなかった。妙に自慢げに言い切った三春に、サラが勢い付いて尋ねた。
「あなた、もしかして、アイヌなの?」
「違うよ。大陸から渡った弥生人の系譜のはず」
「あら、そう。そうなのね」
ちょっと困ったように唇を尖らせたサラの考えが、ルイスには分かった。アイヌだから三春はそんな日本人離れした外見に違いない、と思ったのだろう。
ルイスはアイヌ民族を知らないが、アイヌの人が聞いたら怒るような予感がした。
「俺の祖先の話はいいよ。ケネウィック・マンもLWも多分、旅人だった。俺たちが思うより、頻繁に移動や移住は行われただろうね。当時の様子なんて、まだ判明しない部分ばかりだ」
喋りながら三春は、顔を海のほうへ向けた。今やすっかり日が暮れていた。
テーブルのキャンドルと弱いオレンジの照明に浮かぶサラの顔が、神秘的なほど美しかった。ルイスは見惚れて、口を開かないようにするのに苦労した。
食後に会計を済ませると、サラが散歩をしようと提案した。巨大な入江には内側に桟橋のように陸地が作られていた。
道路もあるし、アパートやコンドミニアムも建てられていた。サラが滞在している場所はそういうコンドミニアムの一つだ。持ち主は、同じチュマッシュ族の女性だそうだ。
「友人の父親は、市内で弁護士をしているの。友人はマリーナ・デル・レイで、写真を撮ったり絵を描いたり、そうかと思うとハリウッドのオーディションを受けたりしているわ」
入江に面した遊歩道に街灯はあるが、決して明るくはなかった。一定間隔で細い桟橋が伸び、ボートやヨットが犇めき合って係留されている。
さっき三春が小声で「こんな場所を歩くなんて、日本のくっさいテレビドラマみたい」と耳打ちして、一人で笑った。
友達の話をするサラの表情が見えにくかった。ルイスは無難に、「多才な人なんだね」と相槌を打った。軽率な失言こそが、ルイスの最大の敵だ。
「何になりたいのか、友人自身も分かっていないと思うわ」
複雑な笑いを浮かべたサラの背後の桟橋で、何かが動いた。正確には、桟橋から伸びている細い通路の上で、もぞもぞと動いた物体が海に入った。風向きのせいで、パシャンと微かな音まで聞こえた。
「アシカだ」
三春が大きな声を出した。Z県にアシカは、いないのだろうか。三春は「おおお」と驚きの声を上げ、さらにアシカを探して、どんどん先へ行く。サラとルイスだけで話すチャンスだ。
「この辺には結構いるみたいね。海の生き物といえば、私たち、チュマッシュの祖先は、イルカだったの。伝説ではね」
「へえ」と、感心した声を出しつつ、ルイスは自分の祖先を考えた。だが、思い浮かぶ姿がなかった。
祖先の一人はアフリカ大陸を駆けていたし、別の祖先は、李王朝に仕えたかもしれなかった。母方はドイツ系だから、まずヨーロッパには確実にいた。ルイスは、どれか一つにアイデンティティーを絞れない。
軽はずみで考えなしの性格に、混血ぶりは何がしか影響はあっただろう。しかし、いい歳をして、ダディとマミィのせいばかりにはできなかった。
何か言わなくてはと焦って、ルイスは「俺の祖先はライオン狩りの名人だったといいな」と、口に出してみた。
「ライオンだった、のほうが夢があるわ。でも、夢だけじゃ、お腹は膨れないのよね」
少し強くなってきた風に、サラが髪を押さえた。サラはネイティブ・アメリカンには見えないが、チュマッシュ族として生きている。
「先祖がイルカだったら、霞を食べて生きられるわけではないのよ」
謎かけのようなサラの言葉に、釣り込まれてルイスはサラを覗き込んだ。
「どういう意味だい? イルカだってライオンだって、捕食して生きているよ」
「私たち、ネイティブ・アメリカンのカジノ経営を良く思わない人は、多いわ。部族の中にもいるほどよ。でも、政府の生活保護で飲んだくれるよりは、マシでしょう?」
サラの頬が紅潮して、語気が強かった。夕食のワインも手伝っていたようだ。
「そりゃそうだ。カジノ経営は合法だし」
あえて言葉少なく賛成しながら、ルイスは内心かなり後ろめたかった。NAUに配属されるまで、ネイティブ・アメリカンと聞けば、カジノ成金か、居留地でアルコール中毒になっているイメージを持っていたからだ。
マスメディアの世界でも、ネイティブ・アメリカンが取り上げられる機会は、ほとんどなかった。芸能、スポーツ、政治経済と見回しても、元々アメリカに住んでいたネイティブ・アメリカンの姿がない。
「ありがとう。私が小学校に上がる前には、カジノがなかったの。カジノができてから、大人たちは忙しくなって、『金だ、金だ』って言うようになったわ」
海風を避けて顔を傾けたサラの言葉が、風で途切れがちだ。ルイスは口実とばかりに、顔を近づけた。
「『金だ』って言える状況は良い状態なのよ。前は、お金を稼ぐ手段がなかったんだもの。父は働き者になって、食事のメニューだって変った。経済的な変化が、必ずしも伝統を破壊するわけじゃないわ」
サラのブルーグレーの瞳が、わずかな街灯の光を反射した。訴えかけるサラの視線の先には、ルイスではない誰かがいた。本当なら、部族の年寄りに言い分を聞いて欲しいのだろう。
「カジノの捉え方が、サラとお年寄りの問題なんだね?」
「カジノは、問題の一つよ。お互いに『分かりっこない』と、思い込んでいるんだわ。従兄に比べたら、私は〝どうせ半分白人だから馬鹿にされてる〟って僻む癖も、悪いんだけど」
自嘲の笑みが美しい顔に浮かんで、ルイスは何となくおかしくなった。
ルイス自身、肌の色で些細な差別を受けた経験は、数え切れないほどあった。「半分しか白人ではない」からだ。しかし、サラにとっては「半分も白人」だ。
いきなり笑い出してサラの感情を損ねないよう、ルイスはゆっくり話しかけた。
「さっき三春のDNAがネイティブ・アメリカンに近い話をしたけど、最近、シベリアから出土した二万四千年前の骨のDNA調査で、ネイティブ・アメリカンの祖先がヨーロッパや西アジアからも来た可能性が指摘されてるよ」
急に話題が変わったせいか、サラが目を見張った。
「知らなかったわ。それで?」
「半分白人だって、気にする必要はないんだよ。DNAで充分に近いかもしれないんだから」
精一杯の格好をつけ、ルイスは立てた指まで振ってみた。サラは見事に噴き出した。
「あはは、ありがとう。その通りよね。血が濃いの薄いのなんて、大した問題じゃないわ」
体を折って笑うサラに、ルイスは照れ笑いしか出なかった。怒り出されるよりは、ずっと良かったけれど。
息を上げながら、サラは目尻の涙を拭った。
「笑ってごめんなさい。あなた、いい人ね。元気が出たわ」
すっかり明るい顔に戻っていた。「いい人」のポジションは嬉しくないが、〝まずはお友達から〟だ。ルイスは口角を上げてみせた。
「元気が出たなら、良かったよ。居留地内の生活も、色々あるね」
「そうね。でも、問題のない生活なんてないし、私、チュマッシュの文化が好きなのよ。私の部族愛を認めない、頑固でくそったれの爺さんには負けないわ。LWの調査だって、してみせる」
大声で宣言すると、舌を出して笑った。
サラの口から「くそったれ」という言葉が出たのは驚きだった。だが、細められた目を見て、ルイス自身の目も細くなったのが分かった。
「『くそったれの爺さん』も、分かってくれるよ」
気の利いた言葉ではなかったけれど、サラは嬉しそうな声を出した。
「ありがとう。夕食を一緒にできたのも楽しかったわ」
無防備な笑顔を間近に寄せられて、ルイスは「こちらこそ」と返す反応が精一杯だった。一年前にガールフレンドと別れて、最近は女性に接する機会が少ないとはいえ、あまりに消極的だ。ルイスは自分を励ました。
「今度、二人きりで会わない?」と、誘おうとした声が、三春の大声に掻き消された。
「風が冷たくなってきたよ。もう帰ろう」
タイミングが悪い理由は、三春のせいではなかった。決して、なかった。腹は立ったけれど。