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翌日は、午前中にオフィスを出た。ペイジ博物館までは、市の北東にあるグリフィス・パークから南西に市街地を突っ切って行く道筋になる。
ルイスがハンドルを握って、助手席に三春、後部シートにスティーブが座っていた。途中の韓国街で、ひどい渋滞に巻き込まれた。
今は手放してしまったけれど、NAUに配属される以前、ルイスの足はバイクだった。ひどい渋滞に遭うたび、バイクの身軽さが懐かしくなる。
ロサンゼルス市街地は道がチェス盤のように縦横に通っているので、上手く利用すれば道路工事などを避けるのは難しくない。しかし、今日は角を曲がる度にオレンジの柵が立っていたり、迂回するように臨時のサインが付けられていたりした。お手上げだ。
ようやく韓国街を抜ける交差点では、信号が壊れていた。赤ランプが点滅して、オレンジのベストを来た警官たちが交通整理にあたっていた。
交差点で順番を待つ間、ルイスは窓を開けて近くの警官に話しかけた。
「どうして、そこら中で同時に工事なんです?」
若い白人の警官は「工事じゃないよ」と、うんざりした口調で答えた。
日差しの強さと気温の高さは相当なものだ。路上で延々と信号機の代わりを務める任務は、ちょっとした拷問に違いない。
「近所の至るところで地割れだよ。詳しい話は、ニュースでも見て。帰りはハリウッドのほうを回って行くといい。さ、行って行って」
最後は不愛想に手を振ったが、車体のロゴは見ていたらしく、パークレンジャーの場所を考慮したアドバイスはくれた。
博物館の駐車場に到着したときは、痛々しい気分が甦った。痕跡は残っていないけれども、駐車場内で人が一人、命を落とした事件は、変えようがない事実だ。
スティーブを先頭に、ルイスと三春は芝生の間の遊歩道を辿った。
土地の寄贈者アラン・ハンコックの胸像を通り過ぎて、タールピットの前に出た。タールピットの向こうは、ウィルシャー・ブールバードだ。
隣を歩く三春が鼻から息を出した。三春でも感慨深くなるのだろうか。ルイスは感慨に耽る気になれずに、昨日したタールピットに関する予習を思い出した。
かつてはチュマッシュ族やトングヴァ族も利用していたタールピットは、一七六九年にロサンゼルスに来たスペイン人の興味も引いて、記録が残っている。最初に化石が発見されたのは一八七五年で、一九○一年に古生物学に詳しい石油地質学者のW・W・オーカットによって絶滅した動物の骨と認定された。
「この土地は、ハンコックさんが寄付したから銅像が立ってるんだね?」
実は感慨深くなってもいなかったらしい三春が、緊張感のない声で訊き、ルイスは得意げに答えた。ちょうど予習の範囲だ。
「土地自体は一八六○年に以前の持ち主から買い取ったヘンリー・ハンコックが、息子のアラン・ハンコックに譲ったんだよ。後で、アランがロサンゼルス郡に寄贈したんだ」
「ふうん、お金が余って仕方がない人?」
「アラン・ハンコックは発展し始めたロサンゼルスで、石油採掘や何かで成功した事業家だよ。お金が余ってたどうかは知らないけど、豊かだっただろうね」
三春がもう一度「ふうん」と、鼻にかかった声を出して、タールピットを指差した。天然アスファルトが強く臭っていた。
「落ちても抜け出せそうなもんだけどな」
もう、ハンコック一族への興味は失せたらしい。ルイスは肩を竦めた。確かにオリンピックのプールほどもあるタールピットは、一見ただの池だ。
「表面は水だからね。だけど水の下に溜まっているアスファルトに足を取られたら、抜け出せるのはかなり運の良い部類だよ」
「かなり」の部分に力を入れて発音し、ルイスは「ほら、あれ」と、タールピットの端を三春に示した。
落ちたら出られない事実を示すつもりか、タールピットの西側に一頭、東側に二頭、作り物のマンモスが置いてあった。東側の一頭は半身がタールピットに沈んで、助けを求めているか、断末魔の声を上げている姿だ。
「馬鹿だなぁ、あいつ。普通、こんだけ臭かったら近寄らないよ」
張り巡らされているフェンスに近付いて、三春が面白そうに口を開いた。
「普通はね。でも、うっかり近付く動物が年に一頭いたとしても、何万年の間には、すごい数になるだろ」
「危機管理能力に劣るな。ダメなやつらだ」
三春は白い歯を覗かせて楽しそうだ。三春の基準は、ルイスには理解不能だった。
「そうだねえ、ダメな動物と同じに、ラ・ブレア・ウーマンは人類で唯一人、異常に危機管理能力が劣っていた可能性もあるぞう。副葬品と判断された砥石は偶然でねえ」
ルイスと三春のやり取りに、スティーブが割り込んだ。
なるほどラ・ブレア・ウーマンは愛犬と一緒にうっかりタールピットに落ちた、運と勘の悪い女性かもしれなかった。事故の場合、頭蓋骨の破損は別の理由になるわけだ。
タールピットに入った動物に関しては、いくつか定説があった。
多く発見されているダイアウルフは、タールピットに足を取られた草食動物を狙ったり、狩りの獲物を追ってタールピットに飛び込んだとされていた。集団で行動する習性だったため、群れごと嵌ったケースが多い。
肉食獣の剣歯虎や、肉食鳥類のテラトルニスも同様の最期と考えられていた。
「それじゃあ、ラ・ブレア・ウーマンは、さぞかしのけ者にされていたんでしょう。タールピット情報も貰えないくらい」
笑顔のままの三春に、スティーブもまた薄く笑って博物館を指差した。三春とスティーブの薄笑いは、モンスターと詐欺師の組み合わせにしか見えない。
これがB級映画なら、今から博物館に押し入る場面だ。ペイジ博物館はもうすでに被害に遭ったわけだが。
事件後博物館は、新しいセキュリティー・システムの導入や修理などを行っていた。今は閉鎖されている一般展示も、まもなく再開される。
エントランス付近にいた警備員に用件を伝え、ベティ・トルーマン博士に連絡してもらった。
ルイスが朝一番で電話をしたときには、かなり迷惑そうな声を出していた。しかし紹介状を無駄にしない親切さは持った学者だと思いたい。
現れたのは五十代半ばに見える、ストロベリー・ブロンドの白人女性だった。紺色のスーツに大振りのハンドバッグを持っていた。背は、高いほうではなく、ウエストの辺りが豊かだ。
薄い色のついた眼鏡と濃い色の口紅に、人を寄せ付けない感じがあった。ふわりと香水の香りがした。
博士が口を開く前に、スティーブが大声で、大げさに挨拶をした。
「トルーマン博士ですね? お時間を取ってくださって、本当にありがとうございます」
手を取らんばかりに近寄ったスティーブに、「いいえ、そちらも、お仕事ですものね」と博士は口角を上げた。スティーブのハンサムな顔は、こういう時に役に立つ。
昨日は気負ってグラハム博士にペイジ博物館に関する質問をしたけれど、ルイスが主導を取る場面はなさそうだ。オフィスで通常業務を片付けていれば良かったかと思い、すぐにラ・ブレア・ウーマンの調査はルイスの仕事だと思い直した。
トルーマン博士は展示室の入口に近い、窓際のベンチにルイスたちを案内した。ペイジ博物館は中庭を囲んで、正方形に近い設計になっている。中庭の天井は吹き抜けで、上に鉄骨が左右に渡されているだけだ。
天井に近い外側には、コンクリートの通路が通っている。通路と天井の間には十分に空間があって、中庭は上から覗き込めた。
「事件の夜、犯人たちは上の通路の手すりからロープを垂らして侵入したんですよ。そこのガラスは修理したばかりです」
誰にともなくトルーマン博士が説明した。修復されたガラス越しに中庭を見ながら、ルイスは事件を考えた。
殺害された技術員のキャシー・コーリックは共犯だったと見られているが、キャシーは裏のスタッフ用出入口から入れなかったのだろうか。
グラハム博士からの紹介状を確認したトルーマン博士は、事務的な調子を崩さず「答えられる質問には範囲があります」と、最初に断わった。
「もちろん、結構です。実は、事件があってからペイジ博物館に関して、さまざまな噂が出ています。ご存じでしたか?」
L字型のベンチで、博士に一番近い位置に座ったスティーブが姿勢を低くした。ルイスからスティーブの表情は見えず、代わりにトルーマン博士が顔を歪めたのが見えた。
「口さがない人たちは、どこにでもいますわ。当館がどうして根拠のない噂を気にしなくてはならないんです?」
先ほどとは打って変わった、調子が外れた甲高い声だ。
「失礼しましたあ。それでは、亡くなったキャシー・コーリックさんですが、ペイジ博物館に勤めて一年も経っていなかったそうで」
「お答えできませんね」
スティーブが質問を終える前に、ぴしゃりと博士は撥ねのけた。
「公式な聴取は、警察とすでに済ませています。NAUが市の部署とはいえ、業務内容が違うでしょう」
唾を飛ばさんばかりの勢いだ。
ルイスの隣に座っていた三春が、ふいに「便所」と立ち上がった。場を読んでいるのかいないのか。博士が呆れた表情になって言葉を止め、スティーブは三流の結婚詐欺師も出さない甘い声で詫びた。作戦を変更したらしい。
「本当にすみません。知的な女性とお話をすると緊張して、どうでもいい話題から持ち出してしまうんですよねえ。博士の研究はいかがです? 専門は古代生物学の脊椎動物でしたねえ?」
素で充分わざとらしいのに、さらに嘘くさい言葉でコーティングするスティーブから、ルイスはベンチの上で体を離した。
博士の怒りが炸裂すると思ったからだが、結果は逆だった。いつ博士の専門を調べたのだろう。
「あら。私の研究の話でしたら、構いませんわ」
豹変とはまでいかないが、博士は苛立った態度を治めて、出身大学の話などを始めた。三春が戻って来た。手にペットボトルを四本抱えている。
いずれもスポーツ・ドリンクとレモネードで、普段のNAUのチョイスとは違う。「どちらにします?」と差し出された飲み物のレモネードを、博士は意外なほど自然に受け取った。
「博士は趣味も良いんですね。知的でファッショナブルなんて、すごい」
スポーツ・ドリンクのキャップを開けながら、三春が感心した声を出した。ルイスには謎だったけれど、博士は眼鏡越しでも分かるほど目を見開いた。しかし静かに「どうしてそう思うの?」と尋ねた。
「お手元のハンドバッグだけで私のボーナスは飛んじゃうし、スーツなら月給が半分は飛びますね。イヤリングだって相当でしょう」
一つ一つ三春が指摘する度に、博士は照れたような微笑みを浮かべた。
「婚約者に教えられたんです。もちろん一つだって買ってやれてないんですが。アメリカにいる間に、精巧な偽物を見つけて帰りたいくらいです」
強い日本語訛りで訥々とモンスターの三春が喋るのは、結婚詐欺師のスティーブより効果があった。博士は「あらまあ、あらまあ」を繰り返し、何度もレモネードを口に運んだ。
ボトルの飲み口が口紅で染まって行くと共に、博士の態度は柔らかくなった。
「もうね、首席学芸員のジョンソン博士が療養に入ってからは、めちゃくちゃなのよ」
十分と経たず、トルーマン博士は職場の愚痴をスティーブに向かって吐き出し始めていた。
三か月ほど前にジョンソン博士が脳梗塞で倒れた際、ペイジ博物館のスタッフは当然、次席のポーター博士が責任者になるとばかり思っていた。ところが上部の自然歴史博物館は、ドノバン・マードック博士を臨時首席として派遣した。
臨時とはいえ、マードック博士は内規の変更を始めたそうで、トルーマン博士は相当にストレスが溜まっているようだった。来る前に見たペイジ博物館のスタッフ一覧表には、トルーマン博士はポーター博士に次ぐ、三番目のポジションとあった。
「ボランティアの規律だって、館員の序列だって、ひどい状態なのよ。臨時首席はどこに勤めているのか、分かってないんだわ。ここは、ペイジよ。自然歴史博物館じゃないわ」
トルーマン博士は苛立ちを隠さず、声を上げた。「分かりますよう」と、スティーブが博士の肩に手をかけた。
「市の組織だって似たようなもんですう。仕事が分かってない上司とのやりにくさったら、ありませんよねえ」
「本当にそうなのよ。おまけに若い連中の関心を買おうとして、みっともない。みっともない真似の結果が四日前の事件だわ。あんな子に鼻の下を伸ばすからよ。すぐに更迭されるわ」
得意げに言い切った博士に、ルイスは耳が大きくなった気がした。「あんな子」の話がぜひ聞きたかった。しかし切り出す糸口を思い付かない。
三春でさえ効果的な会話を切り出したのに、ルイスは全く博士と話していない。なまじ他人の地雷を考えてみた気配りが悪かったか。
「すみません」と、やっと絞り出したルイスの声を、スティーブが親し気な声で掻き消した。
「博士、もうじきランチの時間ですよ。私にご馳走させて頂けませんか?」
途中から振り向くと、スティーブはルイスに言葉を掛けた。
「君は三春にファーマーズ・マーケットでも見せてやったらどうだ?」
話を聞き出す自信はあるのだろう。ルイスは頷いて立ち上がった。三春を促して博士に挨拶をする。ポイントは一つも稼げずに試合終了だ。
「あなた、婚約者には、一つでいいから本物を買っておあげなさい。もっときれいになるわよ」
三春に向けた博士の声に、ルイスは初めて、年上の女性らしい柔らかさと温かさを感じた。
建物の外は、相変わらず日差しが強かった。別れ際にスティーブに車の鍵を渡したので、徒歩の範囲で時間を潰し、昼食を摂らなくてはならなかった。
「ファーマーズ・マーケットって、市場?」
「ああ、普通は農家が商品を持ち寄る朝市だけどね。ちょっと違う場所が近くにあるんだよ。せっかくだから行ってみよう」
近所にあるショッピングセンターの一画は、ファーマーズ・マーケットと呼ばれて、生鮮食料も売ってはいる。しかし、様々な種類のレストランが軒を連ねるフードコートでもあった。
ルイスたちは博物館から西側への遊歩道を辿った。
同じ敷地内にあるロサンゼルス郡立美術館へ向かう通路で、事件の際に警備員が通ったルートだ。小さなタールピットや発掘作業所も道すがらにあった。博物館が休館中のせいもあるが、以前から予算不足で発掘作業はほとんどされていない。
小屋が建てられ、上から発掘作業が見学できる九十一番ピットに三春が足を進めて行った。《ビューイング・ステーション》の看板を横目に内部に入ると、ガラス越しに地下に掘られた発掘現場が見下ろせた。
三十三、四フィート(約十メートル強)四方、地下一階分の深さの現場には、板壁が填められ、足場が組まれていた。タールピットの上には縦横に糸が張られて、区画を正確に分けていた。
「あれ、メタンガスかな?」
斜め下のタールピットを三春が指差す。釣られてルイスが顔を向けると、四角く区切られた区画から、黒いしぶきが上がった。
「待て。あんなに派手に出るわけない」
とっさに断定したものの、ルイスに地質学の知識はない。三春と顔を見合わせている内にも、二度、三度と飛沫が上がり、さらに太い棒のようなものが突き出た。
口を開いたまま、ルイスは声が出なかった。
生き物のような物体は、右へ左へ曲がった後に足場に倒れ込んだ。物体は動物の前足で、足場に前足を掛けたように見えた。隣で三春が息を呑んだのが伝わる。
足場を得て、前足の持ち主がタールピットから出てくるかとルイスは息を詰めた。
だが、ほんの数秒の後には、前足は氷が溶けるように形を成さなくなり、黒い天然アスファルトだけが足場に流れて黒い跡を残した。
「気色悪いな。アスファルトって変な湧き方をするね」
緊張感のない三春の声が、ルイスを落ち着かせた。
「実は学術的に貴重な場面だったかもな。見たのが俺たちだけで残念」
いつも通りの軽口を叩きながらも、来る途中に警官が、あちこちで地割れと告げたのを思い出した。
フードコートに行くと、三春はまず、ブラジルのシュラスコの店で大量の肉を買った。ルイスも同じ店で、三春よりは少量のランチを買ったが、席に着くと三春は「先に食べてて」と、消えた。
戻って来たときには、クラムチャウダー入りのパンを持っていた。赤ん坊の頭ほどある丸いパンを刳り抜いて、クラムチャウダーを流し込んだ食べ物で、普通の人間なら充分に一食になる。
「スープもないと」と、にこやかな三春に、食べ切れるか尋ねる愚は、もうしない。巨体を維持するため以上に、三春はよく食べた。
三春が高校の頃、母親は息子ではなく、牛を飼っていると思うように努めたそうだ。ルイスだって決して小食でないが、三春と食事するとティーン・エイジャーの女の子になった気がする。
「三春には驚かされるよ」
フォークを操りながら、ルイスは博物館での会話を思い返した。大量の肉を頬張りながら三春が「何の話?」と尋ねた。
「三春の顔でファッション・ブランドに詳しいなんて、詐欺だ」
子供のような膨れっ面になった自覚はあった。ずっと以前に、ガールフレンドから財布をねだられ、値段を聞いて肝を潰した経験を思い出した。
ブランド名の綴りが、ルイスと同じだったので「俺がいればいいじゃん」と紛らわしたら、瞬時に平手打ちが飛んできた。
「婚約者が教えてくれたんだって。でも、博士は、結婚指輪は地味なのをつけていたから、元々のブランド好きじゃないよ。深酒を始めたのも、最近だろ」
三春が人間観察に長けているとも知らなかった。
「アルコールの臭いがした? 博士、ストレスは相当に溜まっていそうだもんね」
「サングラスと香水は、目の充血と体臭を隠すためだろ」
なるほど、朝機嫌が悪かったのは二日酔いだったせいかもしれないし、三春が飲み物を差し出してからは穏やかになった。数日前の事件を思えば、関係者の飲み過ぎはありそうなことだ。ルイスなら絶対にやる。
「でも、服やバッグは、まさか事件の後に買ったんじゃないよね?」
「違うよ。臨時首席を詰っていたから、きっと臨時首席が来てからだ。若い連中の関心とか、鼻の下を伸ばすとか、表現したろ?」
三春の主張通りだ。ルイスは博士が口にした「あんな子」が誰か、聞くタイミングを探していたのだし。
「対抗心で高い服を買ったのか。だとしたら……」
気の毒とも浅はかとも、と続けようとしたルイスが声を出す前に、三春が口を開いた。
「さあ? もしかしたら臨時収入があったのかも。無邪気に散財した後に事件が起きる。で、臨時収入と事件が関係していると分かったら、深酒だってするだろう」
ほぼ無表情な三春は、どこまで本気か分からなかった。しかし、まったく辻褄が合わない話ではなかった。
「OK、シャーロック・ホームズ君。スティーブが話を聞き出せるように期待しよう」
締め括ると、三春は口の片端を少し上げて、クラムチャウダーが入っていたパンをちぎった。いたいけな小動物を引き裂くモンスターにしか見えなかった。
「こういう市場や賑やかな場所は、いいね。人が元気だ」
楽しそうな声を上げて通る子供たちを見て、三春がぼそりと口を開いた。三春の郷里の過去を知らなければ相槌一つで流す言葉だが、ルイスには重々しく響いた。
「A市にも市場があった? もう戻ったかい?」
「前と同じにはならない。だけど、元気には一応なってきた」
分かりにくい三春の表情に僅かな笑みを認めて、ルイスの口元が綻ぶのを感じた。
「壊す行為は一瞬、だよな。作り上げる作業は大変な時間が掛かるけど」
続いて零れたのは、軍人だった祖父が折々に口にした言葉だ。A市の災禍を思ったら、柄にもなく、しんみりした声が出てしまった。
アフリカ系の祖父は朝鮮戦争に海軍の兵士として参戦し、停戦後も駐留した。韓国人の祖母と出会って結婚し、一緒にアメリカに戻って来た。
数年の間に乗り越えた壁は一つや二つではなかったし、帰国後の生活も平坦ではなかった。一九九二年のロサンゼルス暴動も、背景にアフリカ系と韓国系の反目があったのは、周知の事実だ。
祖父母の話を聞くと、ルイスには大した障害もないと幸運に思う反面、拠って立つ文化や人種アイデンティティーが薄い心細さも感じた。軽はずみな性格の言い訳にはならないけれど。