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ルイスは首を竦めて自席に戻った。刑事たちからラ・ブレア・ウーマンの情報を聞き出してみせると胸を叩いたのに、まるで役立たずだったからだ。スティーブと三春が気にしていなさそうなのが救いだ。
「オズモンド部長刑事は、最後はちょっとむっとしてたなあ。丁寧に説明したのにい」
大声を出しているつもりはないのだろう。だが、通り過ぎるほどよく通るスティーブの声で、ルイスは思わず笑ってしまった。
スティーブの喋り方や動作が一部の人間には好かれない事実を、本人は断固として認めない。
背の低いラミレス刑事は呆れ気味な顔をしていただけだが、オズモンド部長刑事は途中から明らかに苛立っていた。金髪が掛かった広い額に、今にも青筋が浮きそうだった。
「ほら、小説や映画で、殺人事件は事件発生後の四十八時間が鍵だ、っていうじゃないですか。なのに、二日が過ぎても進展していないみたいだし、機嫌が悪かったんですよ、きっと」
半分以上はルイス自身の失策を庇うために、聞き囓りの知識を披露してみた。隣から低い真面目な声がした。
「痔疾かもしれない。そのソファーは、座り心地が悪いから」
「……三春、今のは冗談かい?」
一瞬だが反応できなかったルイスに、三春は真面目くさった顔を向けた。
「半分は」
ぼそりと投げ出された三春の言葉に、スティーブが大笑いをした。
容姿に似合わず三春は、よく冗談を言う。とはいえ、素直に楽しめるときと、あまりの不謹慎さに絶句するときに分かれる。軽率さでは自他ともに認めるルイスでさえ驚くのだから、これもまた才能だ。
ところがスティーブのストライク・ゾーンには八割五分の確率で入り、わざとらしく聞こえる笑い声を聞かされる機会が日常化してきた。
「いかん。もう、こんな時間だ。オートリー博物館のグラハム博士との約束があったんだ。急げ、君たち」
壁の時計を見やったスティーブが手を叩いた。確かに刑事たちにも、ミーティングがあると告げていた。
名前が出たグラハム博士は、ルイスも何度か会った。見事な禿頭と立派な顎鬚の持ち主だ。
外見ばかりで、博士の専門は覚えていない。ルイスの能力と性格の内、どちらの問題だろうか。
「もしかしたら、ラ・ブレア・ウーマンが盗まれた事実が博物館関係者の間で流れているかもしれない。今度こそ、ちゃんと聞いて来るんだぞう」
緑の目を優し気に細めているが、スティーブの言葉から推測すると、ルイスと三春が二人で行く予定らしい。
「三春と私の二人で行くんですか?」
「そうだよう。私は別件で忙しい。ロブレス氏を怒らせた件を説明して、グラハム博士の協力をお願いするんだねえ」
ひらひらと手を振るスティーブに見送られて、ルイスは三春と共にオフィスを出た。隣のパークレンジャーのオフィスに寄って、車の鍵を借りる。NAU専用の車はない。
「今度は、ちゃんと情報を貰えるように、話を持って行くんだね」
まるで無関係のように三春が薄笑いを浮かべるのを見て、ルイスは神経が逆立った。
刑事たちとの面談の主導を言い出した、半分は親切心だ。そもそも、ロブレス氏がいる場所で、オズモンド部長刑事の名前を出したのは、三春ではないか。
「何だよ、それ。NAUの一員なんだから、三春の仕事でもあるんだぜ。発音が悪いからって甘えるなよ」
つい声が高くなってしまったけれど、嫌な響きにはならなかった。傍から見たら、レトリバーに吠え立てるポメラニアンの図だったかもしれない。ルイスだって五フィート十インチ(約一七七センチ)はあるのだが。
何がおかしかったのか、三春は、うふふと頬を緩ませた。
「分かった。じゃあ、博士に会う前に、オートリー博物館の説明を頼むよ」
説明の時間は長く取れなかった。
レンジャー・ステーションからオートリー博物館までは車で三分ほどの距離だからだ。年代物で冷房の効きが悪いSUVの窓を全開にし、ルイスは大声で説明しながら運転した。しかも早口だ。
オートリー・ナショナル・センターは一九八八年に、俳優兼プロデューサーでテレビ局や野球チームのオーナーでもあったジーン・オートリーが設立した。博物館は、グリフィス・パーク内、ロサンゼルス動物園の向かいにあって、アメリカ開拓史文化を主に扱っていた。
「開拓史だから、ネイティブ・アメリカンの史料も大事なんだね?」
確認する三春は、いつになく真剣な声を出した。しかし、真顔で冗談を飛ばす男が三春なので、油断はできない。とりあえずルイスは真面目に応対した。
「もちろん。だけど、オートリー博物館だけでもないんだ。もう一つ博物館が絡んでいるんだ」
風を顔に感じながら、ルイスは大声での解説を続けた。
オートリー博物館が二○○三年に、ネイティブ・アメリカン文化を専門とするサウスウェスト博物館を併合した。
数十万点のコレクションを誇ったサウスウェスト博物館は、経営難からオートリーとの併合に合意した。しかし博物館自体の改装や所蔵品の修繕などが難関となって、実質的な展示はできずに閉館したままになっていた。
「へえ、じゃあ、トングヴァ族が展示品を引き上げても、サウスウェスト博物館の所蔵品から展示すればいいでしょ?」
三春が質問を投げたときには、車はオートリー博物館の駐車場に入っていた。
スペイン風を感じさせるクリーム色と赤茶色の建物の上には、国旗の他にカリフォルニアの州旗も翻っていた。
「ネイティブ・アメリカンと博物館の間は、複雑だと思う。何だったら、グラハム博士に聞いてみてくれ」
時間がないせいもあって、我ながらいい加減に答えて車から降り、きつい日差しの駐車場を足早に抜けて、大きなゲートを潜った。
中庭にいくつかあるカウボーイのブロンズ像を横目に見て、右側の博物館へ足を踏み入れた。冷房が堪らなく気持ち良かった。
受付で来意を伝えると、エントランス付近で待つよう指示された。
正面カウンターを過ぎた場所に、ネイティブ・アメリカンのブロンズ像があった。赤ん坊を連れた若い夫婦の姿だ。ふと、ラ・ブレア・ウーマンも誰かと連れ添ったかという思いが、泡のように湧いた。
刑事たちと会う前に大慌てで調べた知識は、付け焼刃もいいところだ。それでも、ラ・ブレア・ウーマンが死亡した十八から二十四歳が、当時では若いと言えない感覚は分かった。三十歳にもなれば、充分に年寄りの扱いを受ける時代だったはずだ。
ルイス自身を振り返ると、三十歳が間近に迫っていても、一人前の大人でもない。子供の一人や二人は作って作れないことはないが、育てる能力はない。
「やあ、ルイス。久しぶり」
遠くからした声に顔を上げると、初老の男が二人、エントランス・ホールに入ってくるところだった。博士の後ろにいる男には、見覚えがなかった。
グラハム博士と同じ年恰好で、ジャケットは着ているが、ネクタイはしていない。日に焼けた顔に白髪混じりのブルネットが印象的だった。
「お時間を取って下さって、ありがとうございます。こちらは日本から研修に来ている、佐竹三春です」
ルイスの紹介に、グラハム博士が鷹揚に頷いて挨拶をした。すると、ブルネットの男が一歩すっと前に出た。
「日本は、どちらからですか?」
柔らかく穏やかな声で尋ね、返事が戻る前に自己紹介を始めた。
「おっと失礼。私はトーマス・グレイといいます。以前、サウスウェスタン博物館に勤めていました。今日はボブを訪ねて来たんですが、もう帰るところです」
グレイ氏もまた学者か学芸員だ。じっと見られた三春が、不明瞭な発音で「Z県から来ました」と答えると、グレイ氏の眉が上がった。
「それは大災害に遭った地域ですね。失礼ですが、ご家族は?」
先ほどの刑事も同じだったが、Z県の名前はルイスが思うより知られている。グレイ氏もまた痛ましそうな顔で聞いた。三春はさっきよりもさらに素気なく「津波はありましたが、無事です」とだけ答えた。
ラミレス刑事へのリアクションとは、大きく違う。ルイスは思わず三春の顔を見上げたけれど、腹の中は読めなかった。
「世界の終わりのような体験だったでしょう……、ご無事で何よりでした」
グレイ氏の声は労わりに溢れるようだったが、無神経な三春はケロリと言い返した。
「世界は終わったりしません」
もしかしたら三春は、グレイ氏の伝えたい意味が分からなかったのかもしれない。
ルイスがフォローの言葉を入れようかと思っている内に、グレイ氏は「いや、これは、すみません」と恐縮した表情になり、それからルイスの視線に気づいた。
「あなたも日系で?」
日本人離れした外見なのに純日本人の三春の隣だと、ルイスのアジアの血も浮き上がって見えるのだろうか。ルイスは微笑んだ。
「いいえ、私は四分の一だけ韓国系です。よく間違われますが、ヒスパニックは入っていません」
神経質な物言いにならないよう、明るく告げたつもりだった。しょっちゅう人に説明している内容だけに、自動操縦気味の言い回しかもしれない。
「そうですか。実は私も、半分はショショーニ族なんですよ。将来は、我々のような雑種が、きっと増えますね」
細められた目には、嫌味がなかった。グレイ氏は軽く首を傾けて、もう一度、三春に向き直った。
「さっきの言葉は、被災された方には失礼でした。気を悪くしないで下さい。ボブ、じゃあ私は、これで失礼するよ」
あくまで丁寧な物腰でグレイ氏はエントランスに向かった。去り際にもう一度さっと三春を見た目には、何か強い感情が込められているようだった。
「じゃあ、私のオフィスに」と先導するグラハム博士の禿頭を見ながら、ルイスは考えた。
もしかしてグレイ氏は三春の外見が、災害での怪我の後遺症だと思っているんじゃないだろうか。
もちろん本人に「その顔は生まれつき?」などと聞いたことはないし、馴れれば味も愛嬌もある顔だ。三春の婚約者は見る目のある女性だろうと思う。
しかし万が一、本当に三春の顔が災害の産物だったら、相当に驚く。
案内されたグラハム博士のオフィスは、NAUよりもよほど快適だった。不愉快な顔をされるのを覚悟で、ルイスはまずトングヴァ族のロブレス氏を怒らせた話を打ち明けた。
「やらかしたなあ。NAUに摩擦を起こされると困るよ。ただでさえ、サウスウェストの開館が遅れてるせいで、ネイティブ・アメリカンからの突き上げが厳しいんだ」
手入れされた髭の間から覗く歯を食い縛って、博士は苦悶の表情を作った。サウスウェストの件は図らずも、駐車場で三春が発した質問への回答になっていた。
「具体的な展示品の問題じゃない。原住民族との問題を抱える博物館じゃ、イメージが悪すぎる。ロブレスさんのご機嫌が戻るように、調査を頑張ってくれ」
ドラマの登場人物のごとく、グラハム博士は音を立てて自分の額を叩いた。形だけは小さくなってみせるルイスの隣で、相変わらず悪びれない三春が口を開く。
「頑張りますので、応援をお願いしますね。まずラ・ブレア・ウーマンについて教えてください」
虚を突かれた顔のグラハム博士が苦笑する。博士の専門はネイティブ・アメリカンでもなければ、紀元前を遥かに遡る年代でもないと説明した。
「私の専門は、人類学でなくて、文化人類学なんだ。さっきいたグレイの専門のほうが、お尋ねの案件には近い」
軽く躱した博士に、珍しく三春が唇を尖らした。
さっきルイスが「三春の仕事だ」と言ったせいで、気負っているのかもしれなかった。何となく嬉しくなって、ルイスは「それでも」と元気よく口を挟んだ。
「私たちよりは遥かに多くの学識をお持ちです。ところで、外の博物館員や学者仲間の間で、ラ・ブレア・ウーマンの噂話は出ていませんか?」
「噂、ねえ」と宙を睨んだ博士は、何か思いついたようにルイスに視線を戻した。
「噂話を聞いても意味がないだろう。ペイジ博物館に直に話を聞きに行けばいい。学芸員を紹介してあげよう」
笑顔になったのと同時に博士は立ち上がり、デスクのパソコンを操り始めた。紹介状を作ってくれているらしい。既存のフォーマットに名前を打ち込んだようで、あっという間にできた紹介状を封筒に入れて、ルイスに手渡す。
「スティーブの名前にしておいた。相手は、ベティ・トルーマン博士だ。ちょっと面白い女性だよ」
ウィンクせんばかりの表情は、紹介状で面倒な役目から解放されたと思っているからだろうか。紹介状の宛名をルイスではなく、スティーブにされたのは面白くはない。
どこまでもルイスは小僧扱いか。大人の扱いを受けたければ、仕事で成果を出すしかない。
質問を思い付いて、ルイスは恭しく受け取った封筒を目の前のテーブルに置いた。
「助かります。さっそく、明日にでも尋ねてみますが、恥を掻かなくて済むアドバイスをお願いします」
「何の心配だい?」
「博物館は、ラ・ブレア・ウーマンに関して、ネイティブ・アメリカンからの返還要求を怖れている噂があるそうですね。私は地雷を踏んで、トルーマン女史を怒らせたくないんですよ」
他人様の思惑に気が回らないのは仕方がないと捉えていたけれども、努力はすべきだ。ルイスにできる範囲でも。
今度こそ失敗しないようにと、ルイスなりに考えた質問だった。隣で三春が驚いた顔をしたリアクションが、横目に見えた。
一応NAUのスタッフとして、ネイティブ・アメリカン墓地の保護及び返還法(Native American Graves Protection and Repatriation Act)くらいは心得ている。
発見、発掘された遺体と文化的遺品について、特定の部族から証拠の提出と共に返還の要求があれば、博物館などであっても、埋葬のために遺体を返さなければならない法律だ。
適応されるのは、九○年以降に発見されたものになるのでラ・ブレア・ウーマンは該当しない。とはいえ、ネイティブの部族から返還要求が起きても、不当要求と退けられない状況にあった。
さらにペイジ博物館の神経質さを指摘できるエピソードも、ルイスは見つけていた。
二○○九年にはラ・ブレア・ウーマンの復元スケッチを巡って、ペイジ博物館とプロの復顔画家といざこざが起きた。三年も掛けて無償でラ・ブレア・ウーマンの顔を復元した画家は、完成直後から博物館が態度を硬化させた事実に対して不実さをなじり、画家自身のウェブサイトでスケッチの公開に踏み切った。
額の中央で分けた長い髪に描かれたラ・ブレア・ウーマンは、若い魅力的な女性だった。当時は年寄りに分類されたとしても、だ。
ハリウッド映画女優やランウェイ・モデルの魅力とは、もちろん違った。眉は目よりもかなり上にあって、鼻はやや横に開いているけれど、目鼻がふっくらした頬に囲まれて、ルイスの目にはなんとも無垢で愛らしい女性に映った。
ラ・ブレア・ウーマンのスケッチを見たペイジ博物館側が、容貌にネイティブ・アメリカンの特徴を認め、返還要求が起きるのを恐れて、公開を許可しなかったと見る向きもあった。
現在、どこかの部族が返還要求を出している話は、ルイスが短時間で調べた限りでは、一件もない。
「いやあ、私もペイジ博物館の内部事情までは知らないよ。諸事情を踏まえながら、気を付けてベティ・トルーマンに聞いてくれ」
渋い顔の博士に、三春が急に口を開いた。
「実は、もう返還要求があって、要求に応じないための狂言――なんてことは?」
目を開いて、博士の顔が固まった。よほど馬鹿な発想だと思われただろう。
「おいおい、馬鹿だな。狂言なら真っ先にラ・ブレア・ウーマンが盗まれたって喧伝するはずだろ。博物館は盗難を公表してないよ」
慌ててルイスが三春の肩を叩くと、三春が「ああ、そっか」と低い声で答えた。
「そうそうそうそう」と、何度も頷いた博士の顔色が悪い気がした。もちろん、ルイスの思い過ごしかもしれなかった。