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サラを乗せたヘリが到着するまでには時間があったけれど、ルイスと三春は外に出てヘリを待った。
LWを持ったスティーブとオズモンド刑事が市警の防衛ラインまで辿り着き、出発した経緯は、ビバリーヒルズ警察の警官が教えてくれた。
数時間前、蜂起軍が来たと覚悟を決めたルイスの前に現れた男たちは、蜂起軍を追うビバリーヒルズ警察とFBIの合同チームだった。ルイスたちをペイジ博物館内で保護して、電話も使わせてくれた。
ロサンゼルスは固定電話でも混線がひどく、ジョセフにも通じなかった。ところが、何と三春が架けた国際電話は通じた。
「公園局のスティーブ、レディを玉座にお連れして」とのメッセージは、A市の蒲生課長がインターネットに拡散すると約束してくれた。
メッセージが伝わったか、スティーブ自身がタールピットに来ようと思ったかは分からなかった。
スティーブの件は一安心だけれど、今の心配はサラだ。サラたちチュマッシュのサンタ・イネスはサンタ・バーバラ郡内だから、サンタ・バーバラ保安官事務所が協力してくれたのはよいとして、無茶な真似をしないで欲しかった。
ビバリーヒルズ警察によると、市警と州兵の防衛ラインより南の空に蜂起軍のヘリはなかった。しかしサラの交信の前に、蜂起軍が市警側の無線に周波数を合わせて何事か伝えた話も聞いたし、安心は、できない。
周辺の電気がすっかり消えているせいで、星がロサンゼルスとは思えないほどに眩かった。ルイスはペイジ博物館の外の傾斜に腰を下ろした。左膝は折れた木の枝とガムテープで固定した。
応急処置をしてくれたビバリーヒルズの警官によると、「多分、単純骨折」だそうだ。三春は上半身だけ博物館内の売店にあったTシャツに着替えたが、下半身はドロドロのズボンのままだ。
「スティーブたち、車で来るつもりかな?」
「迂回を嫌がらなければ、辿り着けるだろう」
さっきから焦れるルイスを三春が宥めていた。
また、小さな地震が起き始めている。犬の骨とアスファルトが鬩ぎ合っている状態に違いなかった。早く次の手を打たなければ、再びアスファルトが勢いを盛り返してしまう。
ルイスは上半身だけを捻って、左手の交差点方面を見た。交差点のずっと手前、ペイジ博物館のエントランス前には、ビバリーヒルズ警察のポリスカーが停まっていた。
コワルスキー巡査長とバートン巡査という警官が数時間前からここを拠点にしているお蔭で、三春とルイスは博物館で息を殺さずに済んでいる。手当てをしてくれたのはコワルスキー巡査長だ。
急に若いバートン巡査が、ポリスカーから飛び出した。「おおい」とルイスに向かって手を振った。
「蜂起軍のヘリが二機、防衛ラインを越えて北側に飛び込みました。サンタ・バーバラからのヘリを止めるつもりかもしれません。危ないから、博物館内に入ってください」
「ロサンゼルス市警側は何もしないんですか?」
「さあ? 不明です。とにかく、敵はサンタ・バーバラの目的地が、ここ、ラ・ブレアだと分かってますから、周辺は危険です。空から掃射でもされたら、大変だ」
「何てことだ」と首を振って三春が立ち上がった動作に、ルイスは倣えなかった。命懸けで飛んでくるサラが危ないのに、ルイスが館内で待つのは、抵抗があった。
「俺にできることは、ないかな? せめて外で待ちたいよ」
地上なら駆け付けられるのに、空では手出しが叶わない。もどかしくて地団駄を踏みたい気分だ。市警のヘリ部隊は何をやっているんだろう。気持ちで蜂起軍のヘリを撃ち落としたかった。
「無理だよ。俺たちが撃たれたら、アスファルトを止める人間が、それだけ減るんだぜ」
あまりにも平淡な声を出した三春に、ルイスの気持ちが昂った。
「冷たいじゃないか、サラが危ないのに!」
つい声を裏返らせてから、三春がひどく昏い目をしている表情に、やっと気が付いた。
大災害の日、三春と婚約者は、それぞれどこにいて、どう行動したのかは知らない。しかし、お互いに心の底から心配し、無事を祈ったのに違いなかった。
「うん……」
三春が困ったように小さく返事をした。
「ごめん、三春。今のは勢いだ」
慌てて三春の腕を取ると、全身を捩ったせいで、左膝から突き抜ける痛みが走った。
「いや、気持ちは……分かるよ。でも、今は本当に、できることは全然ないし」
サラの心配は少しも変わらなかったけれど、三春の低い声に逆らう気持ちは、もう湧いて来なかった。
結局、何かあれば中に駆け込む手筈にして、ルイスたちは博物館の正面玄関前で待機した。
サンタ・バーバラのヘリには既に、蜂起軍のヘリの情報が届いているはずだ。さっきまで飛んでくるなら西からだとばかり思っていたが、迂回して北や東から来るかもしれなかった。ルイスは、ひたすら上空からの音に神経を払った。
やがて遠くから微かにパラパラとローターの音がし始めた。北の方角だ。三春も顔をそちらの方角に向けた。
ヘリの音が次第にはっきりとして、ルイスが「サンタ・バーバラかな」と口を開こうとした時、西からもヘリの音が聞こえ出した。
二機とも蜂起軍ならば、館内に駆け込むだけだ。だが、片方がサンタ・バーバラだったなら?
「約束通り、館内に入ってください」
ポリスカーの脇に立ったバートン巡査が硬い声を出して、こちらを向いた。ヘリのローターの音がどんどん近くなった。釣られるように、心拍数が上がった。
ポリスカーの無線が鳴る。コワルスキー巡査長が「え、サンタ・バーバラのヘリが?」と聞き返す大声が聞こえた。サラはどうした?
次の瞬間、全く思いも寄らない音がした。
ヘリの音より遠くに耳鳴りに近い音がしたと思ったら、あっという間にヘリよりも大きな音で、魔風のように飛んだものがあった。
ラ・ブレア周辺の空気が震えた。轟音に、耳が痛くなりそうだった。
「空軍だ」
通り過ぎた音の反響が消えないうちに、バートン巡査が叫んだ。また、ポリスカーの無線が鳴り出して、コワルスキー巡査長の興奮した声が響いた。
「超音速機? よくもあんなに低空で飛ばしたもんだね」
三春がすっかり緊張の解けた声で出した。
コワルスキー巡査長が「え、陸軍のヘリ部隊も出てる? そうですか」と無線と話すのも耳に入って、ルイスは今度こそ地面に膝を突きそうになるほど、ほっとした。
陸軍のヘリ部隊なら蜂起軍の敵ではない。サンタ・バーバラのヘリは安全だ。
名前を呼ばれて顔を上げると、三春の顔が少しぼやけた。
「サラが着くまでに、洟水だけは拭いておきなよ」
笑った三春も、少し鼻声だった。
館内のトイレで顔を拭き、再び表に出た時、大型のSUVが敷地内に入ってくる光景が見えた。バートン巡査が誰何する声に、「ロサンゼルス市警のメル・オズモンドと、レクリエーション・公園局のスティーブ・アイラーズです」と、コメディアンのような言い回しで答えるのが聞こえた。
ルイスは三春と肩を叩き合った。
SUVに本物の蜂起軍の代表、アンディ・オースティンが乗っていた事実に度肝を抜かれてから、サンタ・バーバラのヘリが敷地内の芝生に着陸するまで、大した時間は掛からなかった。
盛り上がった気持ちを必死に抑えるルイスの前に、サラは誇らしげに若い女性をエスコートして現れた。
白っぽいワンピースを着た女性は、あまり目がよく見えないらしい。ヘリから降りる際も、ヘリの同乗者に抱えられていた。
「こちらは、レネ・シスコ。サン・ホアキンのヨクット族から来てくれました。百年に一度のシャーマンと言われています」
居並ぶ男たちに向かって、サラが説明した。
レネは黒い目と黒い髪の持ち主で、暗い中で見ると顔立ちが復顔されたLWに似ていなくもなかった。背は五フィート、一インチ(約一五五センチ)程度で、年齢は二十代前半くらいか。
「こんにちは。お役に立てると良いのですけど」
クリスタルのグラスを鳴らしたような、良く響く美しい声だった。
「さっそくですが、ラ・ブレア・ウーマン――LWは、どこにいます?」
いったいレネはどんな力を持っていて、これから何をするのか説明は一切なかった。とにかく、一々聞けない雰囲気の中、スティーブが籠を抱えてレネに近付いた。
細い笛の音のような悲鳴が洩れた。
「こんなに汚れて。何をしたんですか?」
灯りは数個の懐中電灯だけの状態で、ルイスにはどう汚れているか分からないけれど、レネの見えない目には明らかなようだ。オズモンド刑事が「ふへぇ」と間抜けな驚きの声を洩らした。オズモンド刑事は何か知っているのだろう。
「人の血を少々……。すみません」
身体を縮めてスティーブが答えた。どうやらルイスたちが考えた通り、スティーブは切り札を出していた。見事に外れだったわけだが。
ゴゴゴ、と音がして地面が震えた。
「急ぎましょうね。お水と砂を」
レネの短い指示に、サラが侍女のように動いた。今日はTシャツとジーンズ姿だ。ヘリに駆けて戻り、すぐに重そうなポリタンクと布袋を持って降りた。ルイスは動けなかったけれど、三春が手を貸した。
今、全員が立っている場所は、溢れて大きくなったタールピットに近い、芝の上だ。芝の上に籠を置くと、レネは籠の前に跪いた。
「皆さんも腰を下ろしたほうがいいですよ」と、指示されて、レクリエーション・公園局も、保安官補佐官も市警も皆、だらだらと座り込んだ。
足を楽に組んで、レネは籠からLWを出すと、砂を掛けてこすり始めた。手を動かしながら、ルイスには分からない言葉の歌を唄った。
若い母親が子供の世話をする調子だったレネの歌声は、間で少し詰まって、涙声になるところもあった。しかし、概ね緩やかな美しい旋律を繰り返していて、ルイスは途中で居眠りしそうになるほどだった。
頭を揺らしたルイスを、本当に眠っていると思ったらしく、オズモンド刑事とオースティンが声を潜めて話し始めた。
「オズモンド刑事。ロン・ニミッツに、伝言を頼めないか? 『過去に囚われないで、前に進め。君には、その力がある』とね。ロンの将来はクロスビー弁護士が面倒を見るよ」
真摯なオースティンの声に、オズモンド刑事が少し笑った。
「いいですよ。あなたとクロスビー弁護士の関係を教えてくれるならね」
「昔、事件の逮捕者が精神病患者で、犯行の手順の詳細が明らかにならなかった。実は深い背景があって、犯人は他にいたんだが、上部からの捜査結了の圧力を、私は受け入れた」
聞いているオズモンド刑事は、黙っている。ルイスは全身を耳にした。
「クロスビーは上部を動かした一人だ。クロスビーは自分の家族を守る目的があった。しかし、逮捕者の家族は崩壊した。死者も出た」
ことさら声に表情を出さずにオースティンは説明し、付け加えた。
「スティーブは、よく知っているよ。この事件でスティーブの人生も変わったしな」
思いも寄らない名前が出て、ルイスは顔を上げそうになった。けれど、動けば会話が中断するだろう。
「なるほどね。あなたがスティーブに説得された理由は、その事件が関係してるんですか?」
重要な告白を聞かされた風もなく、質問を投げるオズモンド刑事に、オースティンは「ああ、そうだ」と、低い声で答えた。
それから静かに長い息を吐いた。
ルイスは少し待ってから、不自然に見えないように、ゆっくり顔を上げた。
いつの間にかレネは砂を使い終わり、ポリタンクの水でLWを洗っていた。少しずつ水を掛けて丁寧に指で撫でた。良い香りがすると思ったら、ハーブらしい植物も使っていた。
そうしている内に、歌が二重に聴こえる状態に、ルイスは気が付いた。レネの外に唄っている人物は、サラではなかった。歌声は、レネの膝元から響いていた。LWの歌だ。
LWとレネの声は高くなり、低くなり、響き合って芝生の上を、タールピットの上を流れて行く。誰も咳一つせず静まり返って、LWとレネの歌の世界に漂っていた。