22
恭しく籠を抱えて入ってきた初老の男は、黒っぽいスラックスに白いシャツ姿だった。ネクタイこそ締めていないが、オースティン同様、清潔な印象だ。しかし顔色は、ひどく悪かった。
「初めまして。私はトーマス・グレイといいます」
静かに名乗った声に、スティーブが表情を変えた。
「あなたは以前、サウスウェスト博物館にお勤めでしたね? オートリー博物館でグラハム博士を訪ねた際に、私の部下に会ったでしょう?」
緊張した空気を破って、スティーブの語尾が「でしょうー」と伸び、グレイが薄く笑った。
人種は、判別しにくい。白人とアジア人が入っているようにも見えた。中背で、痩せている。
LWの知識をオースティンに与えた人間なら、ネイティブ・アメリカンに詳しいのに決まっているし、元サウスウェスト博物館に勤務なら頷けた。
「ああ、レクリエーション・公園局の方たちでしたっけ。今日は、あの日本人は?」
興奮したスティーブとは対照的に、おっとりと静かに話すグレイが聞いたのは、佐竹三春に違いない。誰にとっても印象に残る男だ。
「置いて来ましたよ。こんな危ない場所に連れてきたら、日米間の国際問題になりかねません」
「それは良かった。早く日本へ帰るといいね。二度も世界の終わりを見る必要はないでしょう」
急に「世界の終わり」などと言い出したグレイは、どういう男なのか。
「先生?」とオースティンが怪訝そうな声を出した。
「今のは物の譬えですよ。それで、代表。こちらは、どういうご用向きですか?」
「あなたがアンディに、LWの情報を吹き込んだんですね? 残念ながら、決定的な点で情報に間違いがあるんです」
オースティンが何か言う前に、スティーブが口火を切った。グレイは慌てた様子もなく、「ほお」と、むしろ面白そうに目を見開いて、籠を丁寧にデスクの上に置いた。
メルでも知っているネイティブ・アメリカンのバスケットだ。薄い茶色の布が掛けてあるが、中身がLWだろう。
「LWとは、ラ・ブレア・ウーマンですね。私の知識の。どこに間違いがあると?」
「あなたは、かつて、自然歴史博物館でインターンをしていて、ハミルトン博士からLWの話を聞きましたね? 博士の話を元に、独自で研究をされたのでしょう」
「オートリー博物館のボブ・グラハムが、昔話でもしましたか?」
白っぽく乾いた唇をわずかに開いて、グレイは笑ったような形を作ったが、目は皮肉っぽく歪んでいた。
グラハムとはメルは知らない名前だが、オートリー博物館はサウスウェスト博物館を吸収した団体だし、専門が近ければ、世界が狭くて当然だ。
「いいえ、ベン・マルティネス氏です。マルティネスさんは自然歴史博物館でハミルトン博士と仕事をし、博士が引退し、亡くなってから以後も、遺族と交流を保っていました」
スティーブの言葉は半分、オースティンに向けられているようだ。
オースティンは眉を顰め、何事が起きているのか見極める表情だ。きっと、メルも似たような表情をしているだろう。
「ああ、マルティネス。あのプライドのない男」
片手を上げ、優雅とも芝居がかっているともとれる仕草でグレイが応じた。節をつける話し方は、どこか楽し気に聞こえる。
「いつまでも技術員で飼い殺されて、なお上役の尻にキスするしか能のない男ですよ」
「私は、そうは思いませんでしたがね。ともかく、ハミルトン博士は、自然歴史博物館でずっとLWの世話をしていました。ペイジ博物館が設立され、ご自身が引退されるまで、LWの研究を続けたんです」
真顔で説明するスティーブを、グレイは口角を上げたままの表情で見上げ、軽く頷いて先を促した。
「博士の研究で判明した事実があります。LWはタールピットに捧げられた人身御供ではない。地霊と結びついて力を得、誰かを助ける精霊ではないんです」
芝居がかったグレイに向かって、詐欺師のようなスティーブが長々と喋る。B級ミステリー映画の一場面のようだが、現実だと、より不穏だ。
「面白い。では、LWが助ける存在でなければ、何なんです?」
両手を胸の高さで広げたグレイは、わざとらしく首を傾けた。痩せた首の筋が浮く。余裕ぶった態度を支えている理由はあるのだろう。メルは黙ったまま、腹に力を入れた。
「LWは大きな力を持った呪術師でした。北からロサンゼルスにやって来たLWは、チュマッシュを脅かす存在になって殺害され、タールピットに封印されました。LWを発掘してから、完全に目覚めないよう、自然歴史博物館とペイジ博物館では、LWの近くに新しい天然アスファルトを置いて牽制してきたんです」
スティーブの額には、うっすらと汗が滲んでいた。対するグレイは、いかにも涼し気だ。
「ほうほう、それで?」
「分かりませんか? 目覚めたLWがするのは、破壊行為だ。LWの威力は今、自然災害の形で表れていますが、この先、どれほどの被害が出るか分かりません。LWを手放してください」
拳を握ったスティーブの言葉に、メルはふと今、卓上の籠を撃ち抜いたらどうなるのかと考えた。
LWの活動が止まれば万々歳だが、九千年もタールピットの中にあって力を失わなかった「呪術師」が、拳銃の弾丸くらいで消失すると思うのは、安易に過ぎるか。
「オズモンド刑事、馬鹿なことは考えるなよ」
メルの視線の先を掴まえたオースティンが声を掛けてきた。メルは顎を小さく振って、否定した。スティーブは緑の目をグレイに据えたままだ。
グレイは、教え子を見守る教師めいた顔で手を打った。
「素敵だ。実に面白い説ですが、マルティネスが立てましたか?」
「いいえ、ハミルトン博士の研究です。ペイジ博物館の現首席学芸員のジョンソン博士なら、同じ情報をお持ちのはずです。今は面会謝絶ですが。あなたはLWとコミュニケートしていると周囲に吹聴しているそうだが、どのようにされてるんです?」
攻める角度を変えたスティーブに、メルはLWとの「コミュニケーション」は自分も興味があったと気が付いた。グレイが失笑する。
「困りましたね。LWとの会話は、私の中のネイティブ・アメリカンの血が行っているので、口で説明できる種類ではないんですよ。しかも、ネイティブなら誰でもできる類の会話ではありませんし」
グレイの大人ぶった物言いに、スティーブは一歩も引かなかった。
「LWが蜂起軍に力を貸すと伝えたんですか? だとしたら、あなたは利用されているだけですよ。いいですか? LWはチュマッシュが恐れた呪術師です。ネイティブを傷つける行為など気にしないし、天然アスファルトから遠ざかるために誰かを利用しても、少しも不思議ではありません」
一見すると平行線の言い合いだが、スティーブの言い分が通っていた。
メルは成り行きを見守っているオースティンに目をやってから、口を開いた。
「スティーブも指摘しましたが、地震も暴風雨も、蜂起軍を避けていませんね。数日前には、サウス・セントラルに落雷もあった。ただの無差別攻撃だと思いますがね」
急にスティーブの援護射撃を始めたメルに、グレイが「今、気が付いた」顔をした。
「失礼ですが?」
「これは、どうも。ロサンゼルス市警強行殺人課殺人係の、メル・オズモンド巡査部長です。ペイジ博物館強盗殺人事件の担当です。あなたが犯行を教唆したわけですね?」
「いや、参りましたね。この期に及んで、殺人事件がどうの、とは。独立への動きは、最早、小さな殺人事件を追いかけ回す段階じゃありません。分かりませんか?」
先ほどの失笑に続いて、今度は苦笑した。「やれやれ」と言いながら腰をオースティンのデスクに凭れさせて、両手を肩の高さで広げてみせた。
「あなた方、白人は、何万人のネイティブ・アメリカンを殺しましたか? 今、独立のために戦っているアフリカ系も、ヒスパニックの祖先をも、どれだけ虐げてきたか」
メルに向けられたグレイの瞳に、怒りはないように見えた。グレイは言葉を継ぐ。
「オースティン代表のように、新しい社会のために踏み出さなくては、皆が辛いばかりだ。大局が分からない人間が多過ぎる。オートリー博物館のグラハムに、それとなく話を持ちかけたら、怯えて、話になりませんでした」
隣でスティーブが表情を動かした。三春たちがグラハム博士から何か感じ取っていたかもしれない。メルは構わずに口を開いた。
「詭弁は結構。被害者だった過去を持ち出せば、今、何をしてもいい理屈は、成り立ちません。白人が入る前はネイティブ同士だって、抗争や戦争があった史実は知られていますよ。あなた、本当にLWとコミュニケートできているんですか?」
グレイの理屈もメルの言い分も、とどの詰まりは、手前勝手な言い訳だ。抗争をしていたネイティブ・アメリカンなら迫害してもいいはずはなかった。
ただ、メルはグレイを少し挑発してみたかった。
「馬鹿を言うな。LWとのコミュニケーションは完璧だ」
やっとグレイが、余裕ぶった顔をやめて、忌々しそうな声を出した。
急に、誰かが笑った。中年と初老の男だけが緊迫した雰囲気を出す部屋で、堪え切れずに誰かが高い声で小さく噴き出した。
続いて「うふふふ」と笑う、若い女の声がした。グレイのすぐ後ろ、デスクの上の籠からだ。
四十数年の人生で、メルは幽霊を見た経験はないし、そもそも第六感をまず信じない。しかし、今は勘に従おうと、メルはグレイに詰め寄った。オースティンとスティーブは、凍りついている。
「あんたは嘘つきだ。LWとコミュニケーションなんて、取れていないだろう」
間近に顔を寄せると、グレイの灰褐色の瞳が一瞬ぎらっと強い光を放ってから、ふいに緩んだ。
さらに弱々しく伏せられた時に、メルの後ろからスティーブが声を掛けた。
「もしかして、本当は知っていたんじゃないんですか? 私たちはハミルトン博士の研究に辿り着くまで時間が掛かってしまったが、あなたは、ずっと以前から調べていた。LWがロサンゼルスを破壊する怪物だと知っていて、嘘の情報をアンディに教えたんじゃないんですか?」
詰問しながら次第に激昂するスティーブを、メルは振り返って片手で止めた。背後のグレイは黙っている。
メルが再び顔を戻すと、グレイは驚いた表情で固まったままだった。凝視するメルの視線に、ゆっくりとグレイが応えて、融けるように頬を弛緩させた。
「先生?」
オースティンが聞いた。縋り付くような声だった。
「すまない、オースティン代表。私の絶望は、君より深かったんだ」
静かな声でゆっくりとグレイが、デスクのオースティンのほうを向いた。全く力みがないようだった。
「あなたがロサンゼルスを破壊したかったと? 組織を利用してまで資金を調達してくれた、あなたが?」
まだ信じられない表情で、オースティンがグレイを見た。
「私は、もうロサンゼルスの大地に、どんな夢も描けないんだよ。先祖が代々、住んで来て、自分も生まれ育ったアメリカにもね。組織の件は、亡くなった妻の置き土産だ」
淡々としたグレイに、メルはジョージの言葉を思い出した。「バックは犯罪組織だ」と声を振り絞っていた。ジョージは何を見聞きしたのか。
「グレイさん、お話の組織とは、何の組織です? 真っ当な会社とも思えませんが」
メルが口を挟むと、オースティンの顔に、はっきりと苛立ちが浮かんだ。オースティンに余裕がなくなってきている。逆にグレイは飄々とした風で答えた。
「コロンビアの麻薬カルテルさ。私の妻は、コロンビアの出身でね。若い頃にフィールドワークで現地へ行って、知り合ったんだ。職場で認められない私を、よく支えてくれた」
「コロンビア人全員が、カルテルに関わりがあるわけじゃないでしょうが?」
ロビーで見たロケット・ランチャーを思い返して、メルは顔が強張った。
メキシコ、コロンビアといった中南米の薬物密売組織は、FBI、市警、保安官事務所から国境警備隊に至るまで、共通の敵だ。組織の金の力と人海戦術は、常に司法機関の悪夢だった。
「妻の兄が組織の人間でね。妻が資金洗浄を手伝ったお蔭で、仕事をなくしても食べられた。独立運動の支援もできた。だが、所詮は汚れた金だ。私は研究者として最後に、LWの力を確かめたかった」
満足げに息を洩らしたグレイの頬が少し上がっていた。しかし、顔色自体は悪いまま、言葉を継いだ。
「だから、オースティン代表にLWと引き換えに、資金協力を約束したのさ」
「あなたの行動は、めちゃくちゃだ」
つい本音を零したメルに、グレイは満足そうな微笑みを投げた。
「世の中がめちゃくちゃだから、合わせたまでだよ。私の先祖も妻も、私自身も、あまりにも報われなかった。だから、九千年もタールピットに閉じ込められた、最も報われない魂に、土地を捧げたいと思ったんだ」
メルが返す言葉を探す間に、オースティンが口火を切った。
「実は、破壊神のLWを手に入れるために、何人の人間を、私たちは殺したと思ってるんです?」
尋ねるよりもオースティン自身に問い掛けるようだった。
「さあ?」と答えたグレイは、どこまでも落ち着いていた。
「今まではLWの起こす現象が、独立軍の勢いにもなったんだから、元は取れただろう。死んだ人間の数を数えても、意味はない。君の家族も、私の妻もね。今だって、外の戦闘で、命を落とす者がいるんだし」
グレイの嗄れた声に、オースティンが拳でデスクを殴りつけた。スティーブが静かに動いて、デスクに置かれた籠に手を伸ばした。
「ああ、それ」と、気が付いたグレイが奇妙に明るい声を出した。
「もう、タールピットに戻しても、LWの力は止まらないよ、次の新月までの二十日ほどはね。私が見つけた呪法で陸ガメの甲羅を使って、地の力を受けにくくした。ロン・ニミッツが時間を稼いでくれたお蔭だよ。二十日もあれば、ロサンゼルス郡一帯が更地に戻るには充分だろう」
オースティンがロンを使い、岩田和也たちに目を向けさせて作った時間を、ロンとオースティンはグレイがLWとのコミュニケーションを成功させるためと信じていた。
しかし、グレイは、LWの正体が露見した場合に備えて策を施していたらしい。万一のための保険は、掛けていたわけだ。
グレイを殴り倒す衝動を抑えるため、メルは自分の腕を押さえた。だが、スティーブは目を見張ってから、引き攣った笑顔を作った。
「へえ。でも、LWを抑えるジョーカーは、どうです? 私たち、用意は充分にありますよ」
「何だって?」
訝しげな声の語尾は、銃声で掻き消された。オースティンが抜いた銃は、至近距離でグレイの胸と首を、容赦なく撃ち抜いた。
反射的にメルは、スティーブを庇いながら後ろに下がった。口径の小さな銃で、執拗に撃たれたグレイは床に崩れた。さっきスティーブが届かなかった籠が、グレイの身体の下敷きになった。
銃声を聞きつけた男たちが、殺気立って部屋に飛び込んで来る間に、オースティンは弾倉の中身を残らずグレイの身体に撃ち込んでいた。
跳弾がなかった理由は、オースティンが小さな口径を使ったからだ。
「どうしたんです?」
驚愕した男たちに「犯罪者の処刑だ」と答えたオースティンは、顔色が悪かった。
「スティーブ、LWを抑えるジョーカーがあると言ったな? どこにあるんだ、それは?」
名前を呼ばれて、唖然としていたスティーブが我に返ったようだ。しかし「ここに」と訳の分からない言葉を口走った。
「ちょっと、混乱してませんか?」
目の前で人が撃ち殺されたのだから当然の反応だが、LWに関しては、今、スティーブだけが情報を握っている。メルはスティーブの肩を掴んで揺さぶった。
「大丈夫ですよ。オズモンド刑事、手を貸して。グレイさんの身体をどけて、LWを回収しましょう。非常時なんですから、現場保全とか、言わないで下さいよ」
思ったよりも丈夫な神経を持ち合わせているようだ。
メルは「ここ、市警の管轄じゃありませんから」と、スティーブに合わせて、グレイの身体を掴んだ。
首と胸部に弾が集中して、大した出血量だ。本人は何も感じない内に、あちらへ行ったのに違いなかった。
スティーブは籠から飛び出した骨を戻し、取り残しはないか周囲を確認して、籠をデスクの上に戻した。グレイの血が大量に掛かった籠は、籠だけで充分に猟奇だ。
目を伏せてスティーブは「作戦完了です」と、珍しくぼそりと発音した。
「スティーブ、どういう意味だ?」
「LWの能力を抑えるのに、一番よい効果があるのは、人間の血液なんです。しかも、大量のね。いざとなったら私と部下とで用意するつもりでしたが、あなたがしてしまいましたね」
人間の血液は、グレイが掛けた呪法を無効にする力があるのかと、メルが聞こうとしたときに視界が揺れた。
地震だ。ここ二日の間に無数の地震で少しは馴れそうだが、思うようにはいかない。
しかも、地鳴りを伴った大きな地震で、メルは思わず目の前のデスクに手を突いた。床に置かれたグレイの遺体が滑った。
「スティーブ、どういうことだ。LWの力は封じられたんじゃないのか? それとも、この地震に限って、ただの自然現象だとでも言うつもりか」
気丈にオースティンが声を張り上げた。オースティンの疑問は、もっともだ。
「こんなバカなことが」
籠を抱いて顔色をなくしているスティーブが芝居をしているとは思えなかった。相当に予想外の事態らしい。とすると、先の解決策はあるのか。
「オースティン代表、大きいですよ」
さっき室内に入った男の内二人が、ドアにしがみ付いている。開け放したドアの向こうからは物の倒れる音や、悲鳴が響いていた。