19
数分で着いたワシントン・ブールバードの持ち場には、既に鉄柵や、螺旋状になった鉄条網が置かれていた。この交差点に、さらに本署から持って来たオレンジの柵やコーンを加える手順になっている。
ワシントン・ブールバードは片側二車線に加えて、中央に電車のレールが敷かれた、幅の広い道路だ。サンペドロ・ストリートと交差する南側に柵を敷設するよう指示があった。
付近には小さな商店やガソリン・スタンドなどはあっても、繁華街ではない。今はどこも、しっかりとシャッターを下ろしていた。
あちこちの壁に派手な落書きが目立つのは、サウス・セントラルほどではないにしろ、ストリート・ギャングが跋扈する地域だからだ。ここから自然歴史博物館は、ほんの数分の距離だ。
バリケードの敷設に手間は掛からず、敷設が終わると、することがなくなってしまった。西の空が夕焼けで眩しいオレンジに染まっていく景色を、メルはドアを開けっぱなしにしたポリスカーの後部座席から、ぼんやり見た。
他の刑事たちは各々家族と連絡を取ったりしているが、電波の状況は良くないようだ。
南の方角に目を向けると、黒煙が上がっていた。焼き討ちか、州兵との激突だろう。いずれ州兵のラインが突破されて、防衛ラインまで蜂起軍が来るような事態になれば、実質もう後がない。
「何を考えてる?」
娘との電話を終えたエドが、近付いて来た。ジョージの妻子も心配しているだろうが、メルはジョージの妻の番号は知らなかった。「生死不明」の情報は、家族にとっても有難くはないはずだ。
万が一の事態になれば、市警の人事課に家族の連絡先はある。
黙って首を振ったメルに、唇の片端を上げてエドが「昔を思い出すか?」と、聞く。メルは下唇を突き出して見せてから、口を開いた。
「装備だけは、もっとマシだったぜ。上官がロクデナシな状況は同じだけど」
警備中隊から装備を渡されたとき、真っ先にアサルト・ライフルのスカーに手を伸ばしたメルを、エドは何か言いたげな顔で見ていた。メルの過去を思い出したらしい。
実際、「昔」メルがアサルト・ライフルを手にしていた状況は、敵がラインを突破しようとも、市民の安全を心配する必要はない場所だった。
苦笑と共に、もう一度ゆっくり首を振って、メルは立ち上がった。伸びをする。
「あの時は、もっと気楽だったよ」
かつて二年制のコミュニティー・カレッジを出た後、メルは陸軍に志願した。深く考えていなかったどころか、何も考えていなかった。当時、父親の事業が失敗したせいもあった。
陸軍に籍を置きながら四年制大学の卒業資格を取れたらいい、という程度の志願動機だった。入隊後まもなく湾岸戦争が勃発したときには、後の祭りだった。
「砂漠の嵐」作戦で心身ともに絞られ、仲間を亡くしたり、脳が凍りつく体験を何度かした後には、少々性格がシニカルになったとは思う。
別れた妻に言わせると、戦争体験がメルの性格を歪めたそうだ。別れた妻は陸軍に入隊する前のメルを知らないが。
やっとの思いで帰国し、晴れて除隊が叶った時には、もうカウンターに座って客の相手をする類の仕事をする気は一切なくなっていた。
陸軍で戦場経験があるロサンゼルス市警の殺人係の刑事は、ハリー・ボッシュという、これまた有名な小説の主人公がいるせいもあって、メルは、ほとんど人には告げていなかった。エドは数少ない一人だ。
「湾岸戦争の頃に比べれば、『なんで入隊しちゃったんだ』って後悔はない。けど、だからって、今が歓迎できる状況じゃないだろ」
つい正直な感想が出た。エドが気の抜けた笑いを浮かべてから、表情を変えて東の空に顔を向けて指を差した。
「地震と雷の次は、何だろうな?」
エドの指の先には、夜の色の空よりもさらに黒い雲が、かなりの勢いで広がっていた。
雨は、陽が完全に沈む前に降り出した。
八月に雨らしい雨が降るのは珍しかった。
異常気象がオースティンの手元にあるLWの仕業なら、オースティンが述べた通り、軍ですら、蜂起軍を制圧するのは相当に梃子摺るのではないか。
大粒の雨を見てぼんやりと考えたメルだったが、すぐに考え事どころではなくなった。
風が恐ろしく強くなって、ポリスカーを横転させんばかりに吹き荒れ、合間に雹が降った。
幸い、防衛ライン周辺で大きな被害は出なかったが、北東のグレンデール市や北のバーバンク市では、オレンジほどもある雹が降り、被害は甚大のようだ。
街の街灯を始め、わずかに電気が点いていた区域も、ほぼ完全に停電した。送電線が倒れたのかもしれず、現在の状態では市の水道・電気局の修理は期待できなかった。
唯一の救いは、暴風雨で蜂起軍も大きな動きが取れない点だ。
ただ、嵐に紛れてゲリラ部隊がダウンタウンに入るかもしれないと、歩哨は二人一組で二時間交代になった。
メルは引退間近のレイモンドと組んで、二番目に出た。ヘルメットを被って《ポリス》と大きく書かれたウインド・ブレーカーを着込んだ。ところが、バリケードの前に立つと、あっという間に下着まで水が沁みた。
「制服警官の頃を思い出す」と、レイモンドが感慨深げだったのも、最初の十分間だ。
凄まじい吹き降りの中でじっとしているのは、体温を奪われるだけなので、バリケードに沿って、うろうろと歩き回った。個人用のレシーバーも渡されてはいるが、一々聞く気もしない。
電気がなく、夜間外出禁止令の敷かれた町は見事に沈黙していた。暗闇に目が馴れると、街並みを眺める余裕も出てはきた。しかし、普段との違いに、今いる場所がどこか分からなくなりそうだった。
長い二時間が過ぎて、待機場所のポリスカーに戻ると、無線は相変わらず忙しく喚いていた。
「××で要応援。○○でバックアップ必要!」ロサンゼルス市警だけでなく、周辺都市警察の連合軍も人手が足りていない。
市内で起こっている事件は、蜂起軍の暴動だけではなかった。動揺した人々が起こす事件や交通事故もある。各分署のパトロールも刑事部も天手鼓舞だし、忙しさでは消防署も同じ状態だ。
保安官事務所も機能せず、警察は手一杯の状態だ。ロサンゼルス全域の治安と安全が崩れようとしていた。
携帯電話が鳴った時間は、明け方に近かった。
嵐は一向に止まず、あちこちの排水溝が溢れて、次の被害を生みつつある状況だった。ロサンゼルスは大量の水を処理できるように作られていない。
つい、ポリスカーの運転席でうとうとしかけていたメルは、自分の携帯の音で飛び上がった。
オースティンか、あるいはジョージかと武者震いをしながら表示を見ると、NAUのスティーブ・アイラーズからだ。
「こんな……に……せん。しかしお休みに……たってことは……でしょう」
印象深い、人を小馬鹿にした風に聞こえる喋りが気にならないほど、電波の状況が悪かった。こんな非常時でも繋がる状態に感謝すべきかもしれないが。
「大事な……です。あの、……ていますか?」
聞こえているか、と訊いたのに違いなかった。数回、大声で言葉を交わして、相手がメルに大事な話がある状態は理解した。だが、その程度の情報を得るだけで、体力を消耗しそうなほどだった。
「今、どこです? 直接……て……ます」
あまり考えることもなく、メルは現在地を告げた。極秘行動ではないし、持ち場から離れることはできない。
「……くらいで……ます。じゃ」
電話は切れた。隣に座っているエドが、呆れ顔で見る。
「終わってくれて良かった。鼓膜が破れちまうよ。それにしても、この嵐の中で運転するのは、骨だろうな。あっちこっちで排水溝から水が溢れているはずだ」
「辿り着いてくれることを期待するしかないよ」
フロントガラス越しに見上げた東の空は、夜明けも近いはずなのに、明るくなる気配すらない。どこからか千切れて飛んできた小枝が、音を立ててガラスに当たった。
スティーブがパークレンジャーのピックアップ・トラックで現れるのに、一時間以上も掛かった。
幸い、一時間の間に暴風雨は弱まり、辺りも、かなり明るくなっていた。
トラックの屋根にはパークレンジャーが公園内で使用する非常灯が点いて、緊急の公用を示していた。
ハンドルを握っている男は、先だってメルに電話をしてきた、日本人に見えない日本人の三春だ。一際げっそりと顔色が悪い。
とはいえ、こんな時に顔色が良い人間は、躁病患者か、独立を企てているオースティンくらいだろう。
「途中でいっぺん、パンクさせてしまって」
首を振りながらスティーブが助手席から降り、狭い後部座席から、ルイスが這い出てきた。途端に、ぐらりと地面が揺れた。暴風雨が弱まったら、次は地震だ。
大きくはなかった地震が治まると同時に、スティーブはメルの肩を掴まんばかりに詰め寄った。
「オズモンド刑事。オースティンはLWについて、とんでもない誤解をしてますよ。オースティンは知らずに、虎を檻から出したんです。早く捕まえないと、ロサンゼルスは壊滅します」
「虎で、ロサンゼルスが壊滅?」
スティーブの興奮ぶりに同調できず、首を捻ったメルに、スティーブは木霊が返るほどの勢いで「LWです」と叫び、さらに続けた。
「LWには、やはり力があるんです。しかし、オースティンは、間違った捉え方をしている」
呆気に取られたメルをよそに、スティーブは大きく深呼吸をすると、説明をし始めた。
自然歴史博物館の旧職員と連絡を取り、ペイジ博物館の初代首席学芸員の遺品を調べたスティーブたちは、恐るべき発見をしていた。
LWは当初、人身御供としてタールピットに捧げられた旅人だと思われていた。ところが実は、北部から移動して来た、強力な呪術師だった。
チュマッシュがLWを殺し、LWの力を甦らせない目的でタールピットに沈めた――が正解だ。オースティンが演説で説明した、独立戦争のために目覚め、今、独立軍に力を貸している状態は、事実ではなく、大きな誤解だ。
昨日から遺品を調べ、ノートの読解にあたっていたスティーブたちは、メルに電話する少し前に、初代首席学芸員の遺したノートの記述を確認したそうだ。
「私も、独立の声明を聞きました。オースティンは、勘違いをしている。どういう理由でLWを操れると思ったか分かりませんが、思い違いです。昨夜からの暴風雨も、今の地震も、LWは独立軍のために起こしているんじゃない。ただ単にロサンゼルスを破壊したいだけです」
拳を固めて力説するスティーブは、相変わらず嘘くさいが、内容まで嘘だとは思えなかった。ただ、頭が完全には従いて行かないだけだ。
「とりあえず、LWに力はある、と仮定して動いたほうが良さそうだな」
辛うじて自分を納得させる線を見つけながら、メルは昨日のロンとの会話を思い返した。ロンは「センセイ」が、LWとの交信に成功したと燥いでいた。
交信の話をスティーブに告げると、緑色の目に不穏な光が過ぎった。
「LW関係の軍師ですか。以前からアンディがLWの力を知っていたとは思えない。LWの話を吹き込んで、利用するように知恵を付けた誰かがいるんですよ。しかも、不十分な知識でね。すぐアンディに伝えなければ」
今度はイライラと足踏みを始めた。
「アンディ? あなた、オースティンを知ってるんですか?」
いきなりファーストネームで呼ぶあたり、言葉の綾ではないだろう。メルの質問にスティーブは、ぺろりと舌を出した。いい大人が、切迫した状況でするリアクションとは思えなかった。
「昔、ちょっとね。しかし、向こうが覚えているかどうかは、疑問ですよ」
スティーブの肩越しに、三春とルイスが驚愕した顔を突き合わせたのが見えた。ルイスたちも知らなかったようだ。メルは咳払いを一つした。
「伝えるといっても、オースティンと連絡が取れるかどうか。実は、オースティンの携帯電話に伝言を残しているんですが、架かってきませんし、ご存じの通り、電波の状況は最悪です。メディアでも使ってみますか?」
「いやあ」と、スティーブは首を横に傾ける。
「直接、独立軍に行ってみようと思うんです。刑事さん、同行してくれませんか? 市警のウインド・ブレーカーを脱いで」
スティーブの言葉が終わらない内に、南の方角で落雷のような音が聞こえた。
何かの爆発かもしれないし、大勢の人間の叫び声ともとれた。後に続いた音は、間違いない銃声だ。州兵が仕掛けたとは思えなかった。独立軍は朝が早いらしい。
市警とFBIの連合軍が守るワシントン・ブールバードの防衛ラインの南には、一マイル(一・六キロ)先に州兵の防御ラインがあった。防御ラインでの押し合いではないか。
エドやウィルたちも、厳しい表情でバリケードに近寄った。
メルのポケットで携帯が鳴った。今度こそオースティンか、と期待して見た表示には、見慣れた「ジョージ」の表示があった。誰かがジョージの携帯を使っている可能性もあった。
胃が捩れるような感覚を味わいながら出ると、荒い呼吸音がして「メル」と、聞き慣れた声が耳朶を打った。さっきとは打って変わって電波の状況は良好だ。
「お前、無事か」
つい大声を上げたメルに、刑事たちが注目した。相手が誰かは、すぐに分かったはずだ。
「いえ、あんまり無事でもありません」
弱々しい声は、どこか空気が抜ける音もした。歯でも折られたか。
どこに拉致されているのか聞くと、逆にジョージは、メルの配備を尋ね、近くに無線があるかと聞いた。無線で市警の警官に伝えたい話があるので、電話をスピーカー状態にして無線の前に置いて欲しいと続けた。
「誰がお前に、市警からの裏切りを勧めるアナウンスをしろって言ってんだ?」
いくら何でも不自然な申し出に、背後の意図は、すぐ分かった。
メルが厳しい声を出すと、電話口で肉を殴る嫌な音がして、誰かが「早くしろ。警察の無線は傍受してるから、下手な小細工をしたら、すぐ分かるぞ」と、怒鳴った。
「分かった」
誰の指示にしろ、随分と陰湿なやり口だ。メルは短く返事をしてポリスカーに戻った。無線用のマイクを取り上げ、所属を伝えて断りを入れた。
「殺人係のジョージ・ラミレス刑事から、アナウンスがある」
指示通りスピーカー・フォンにした携帯から、ジョージが張り上げた声が聞こえた。
「市警の兄弟、オレはジョージ・ラミレスだ。今、独立軍と一緒にいる。よく聞いてくれ。オレたち市警は、ならず者の集まりだし、虚勢だけの臆病者も多いよな。……だけど、独立軍に寝返っちゃダメだ。連中のバックは、犯罪組織だぞ。オレは、市警の警官として死ぬ。負けるな、LAPD(ロサンゼルス市警)!」
最後は泣き叫んだジョージを、周囲が電話口から引き離す物音を聞いて、メルは慌てて無線を切り、電話を取り上げた。
「おい、聞こえるか。その男を殺すな。オースティンに伝えろ、『センセイ』でもいい。我々はラ・ブレア・ウーマンに関して、独立軍が掴んでいない情報を入手した。聞いておかないと、後悔するぞ。これから、パークレンジャーと独立軍本部へ向かう。ラミレス刑事に危害を加えれば、情報は渡さない。いいな」
あまり理屈は通っていない。電話の向こうの誰かは、分かったような分からないような声を出して電話を切った。
ポリスカーの外に出ると、すぐ脇に立っていたエドの目が赤かった。
少し離れた場所でバリケードを守っている他の課のほうから、「LAPD! LAPD!」と掛け声が響いて来ていた。皆、さっきの無線を聞いていたようだ。
「私はパークレンジャーじゃありませんけど? まあ、行きましょうか」
感動を堪えたとも、ただの苦笑とも思える表情で、スティーブがメルの肩を叩いた。