16
サラとの電話からきっかり三十分で、ルイスの運転するSUVはステーションの駐車場に滑り込んだ。
離れた場所に、サラのセダンが停まっていた。近付くと、後部ガラスの罅と、右側のボディーの凹みが目についた。
サラはステーションの中にいた。パークレンジャーも皆、出払っているが、留守番の女性職員がNAUのオフィスに通してくれていた。サラに怪我はないように見えた。
「街の中は、ひどい状態です。道路が陥没したり、信号が壊れたりして、そこら中で事故です。強盗も多発しています」
立ち上がったサラが口を開いたとき、ズンと音がして、足元が大きく揺れた。身体が硬直し、胃が持ち上げられる感覚がする。幸い、揺れは続かなかった。
とはいえ、サラはよほど驚いたらしく、顔が真っ青だった。言葉が続かないサラを見て、スティーブが「街は聞いていたよりも悪いようですねえ。あなたの車を見れば想像がつきます」と、告げた。
続けて、自然歴史博物館に勤めていたマルティネス氏に会って、聞いた話を掻い摘んで伝える。
「そういうわけでマルティネスさんは、LW自体が災いだと考えています。強大な力の呪術師をチュマッシュが退治し、タールピットに沈めてLWの復活を防いだそうです。LWが自然歴史博物館に所蔵されていた頃の学芸員は、わざわざタールピットから天然アスファルトを運んでいたそうです」
説明に、叩かれたような顔をしたサラは唇を噛み「アスファルトを運んで」と呟いた。
「どうでしょう、マルティネスさんの説に賛成は、できますかあ?」
スティーブの声にいつもと同じ呑気さがあるのに、ルイスはほっとした。だが、サラはどこかが痛い顔で微笑んだ。
「もし仮に人身御供だったとしても、九千年の積もり積もった恨みがあるかもしれませんね。外に出てアスファルトから離れたら、手当たり次第に乱暴したいかも」
いくぶん茶化した言い方だけれど、笑えない昏さがあった。LWに実際どんな力があるか、誰も確かな情報はない。
「いや……」と、何か言いかけたスティーブを遮って、サラは表情を引き締めた。
「私、これから居留地に戻ります。年寄りが動揺している理由は、口碑を秘密にしている間に、ロサンゼルスが不穏な状態になったせいです。きっと関係があるんだわ。今なら、きっと素直に教えるはずです」
「わざわざ、あなたが行く必要が? 従兄さんがいるでしょう?」
「今、私が年寄りたちと向き合う状況が大切なんです。双方にとって」
切迫した表情でも、サラの目はどこか遠くを見ている。
ふいに、またルイスの視界が揺れ、次の瞬間には地鳴りと共に部屋全体が震え出した。電気が消えた。とても立っていられない。
必死で机にしがみ付き、何とか机の下に潜り込もうとした。サラも同様だったが、三春が「ダメだよ」と声を上げた。
「外に行くんだ。でなかったら、そこのキャビネットの脇で丸くなって」
恐ろしい揺れは続いていた。デスクの上の書類が音を立てて床に落ち、天井が軋む。
身体がいうことを聞かなかった。三春が泣き顔のサラの肩を掴んで、机の下から引っ張り出した。
「急いで、ルイス。スティーブも!」
サラが三春の腰にしがみ付いて、ゆっくりと出口に向かい、スティーブがルイスに手を伸ばした。
外に出て危険はないのだろうか。オフィスのドアがひどく遠かった。
やっとドアまで辿り着いたときに、揺れが小さくなったのにルイスは気が付いた。先を行く三春も足を止め、まもなく揺れは完全に止まった。
「しばらく外に出ていてもいいと思うよ。ここは他に建物もないし、電線もほとんどないから、安全」
三春はどこまでも冷静だ。スティーブが頷いた。カリフォルニアは全米の中では地震が多い事実で知られているし、九四年のノースリッジ地震では、莫大な被害を出した。ルイスも何度か大き目の地震は体験しているが、今のは人生で最大の規模だった。
「バッグを置いて来ちゃった」
踵を返したサラが、バッグを持ってくるのを待ち、パークレンジャーのオフィスにいた二人の女性職員も、一緒に外に出た。
遠くから警察や消防車のサイレンが微かに響いたが、屋外は平和だった。プラタナスの葉が涼しげに揺れ、樫の木が木陰を作っている。ここからは、コンプトン方面は見えなかった。
「三春、大事な物を落としていたわよ」
サラが取り出した物は、三春の二つ折りの携帯だ。
「あれっ」と、間の抜けた声を上げて、三春がズボンのポケットを叩く。
「ダメでしょう。婚約者が怒るわよ」
ふざけたサラが、携帯を開く真似をして手を止めた。なぜかスティーブが「あ、ちょっと」と、サラに近付こうとした。
スティーブの手を避けたサラが、複雑な表情を三春に向けた。
「婚約者は、これに電話してくるの? 三春のご家族も?」
「そうだよ。何を言ってるのさ?」
三春は、どこまでも呑気な声を出している。だが、ルイスはスティーブの渋い表情との対比に、不穏な予感を覚えた。
「サラ、携帯がどうしたんだい? 三春に返してあげなよ」
思わず口を開いたルイスに、サラの顔が歪む。一呼吸を置いて思い切ったように、開いた携帯をルイスたちに向けた。
「これで、どうやって通話ができるのよ?」
電源が入るどころか、古い携帯は開いたのが不思議なほどだった。
画面は割れて、あちこちに赤サビが浮いている。ダイヤルのパッドの文字も、ほとんど見えなかった。
そういえば、三春が携帯で話す時、電話機本体が見えるほど近くにいたためしはなかった。三春の大きな手で隠れていたせいもあるけれど。
「ええ? おかしいな」
三春の様子は変わらない。ゆっくりとサラの手から携帯を取り上げて、しげしげと眺めた。
「本当だ、画面が割れてるね。電源も入らないみたいだし。でも、美紗子も親も、これに電話を架けてくるんだけど」
「三春、上司の蒲生さんに伝言を頼んで、新しい番号に架けてもらうのはどうだい?」
建設的に聞こえる意見を述べたスティーブが、一番おかしかった。機能していない電話機に架かる電話は、いったいどこからだ。
ルイスは急に、足元が覚束なくなる気分に襲われた。
三春は記憶を探るように、片目を瞑って宙を睨んでいた。
「地震、が、あったな、さっきみたいに。それで……、それから津波の警報が出て」
「思い出さなくていい。考えるな!」
スティーブがそれほど大きな声を出すのを、初めて聞いた。しかし三春に届いた様子はなかった。
誰も口を開けずにいる空気の中、鳥の囀りだけが長閑に響いた。ルイスは自分の呼吸音をうるさいほど大きく感じた。
やがて太い首をぐるりと回して、三春が大きく目を開いた。
「美紗子は死んだの? 親父とおふくろも?」
ルイスの心臓が鳴った。サラが口を両手で押さえる。スティーブがそろそろと三春に近付いて、肩を掴んだ。
「蒲生さんは、君をとても大事に思っている。職場の仲間や、友達もだよ」
スティーブの真摯な声とは対照的に、およそ無感動な三春が再度、はっきり訊いた。
「でも、美紗子は、もういないんだろ?」
「そうだ。美紗子さんは三年前に亡くなった。君のご両親もだ」
歯を食い縛るようにして告げたスティーブに、三春が一瞬ほけっと弛緩した表情を浮かべた。
次の瞬間、巨大な日本製フランケンシュタイン三春は膝から崩れ落ち、支えようとしたスティーブと一緒に倒れて地面に転がった。下が芝生だったのが、幸いだった。
失神した三春を、スティーブはすぐ起こさなかった。
ルイスたちは三春の近くに腰を下ろした。レンジャー・ステーションの隣のパーク・フィルム・オフィスの前庭だ。遠くにまだサイレンと、ヘリコプターの音が聞こえている。
青々とした芝生の上に手足を投げ出している三春は、一見、熟睡しているようにしか見えなかった。実際、心地よさそうな寝息がさっきから聞こえている。
しかし、閉じた目蓋からは大量の涙が流れていた。
「眼球が溶けて流れちまいそうだ」
髪まで濡れている三春を見て、スティーブが首を振った。
スティーブが三春の携帯電話に気付いたのは、三春が転属になって間もなくだったそうだ。偶々、三春が電話を「受け」て本体を開いたときにライトが点かない状態に気付き、割れた画面も見えたと説明した。
「それで、わざわざA市の三春の上司に連絡したんですか? あちらも英語が分かるんですか?」
ルイスは苦笑まじりにスティーブに尋ねた。
どんな顔をしていいか、分からなかった。サラはさっきから何度か、口を開きかけては俯く動作を繰り返している。
「最近は電話通訳があるんだよう。ロサンゼルスで三春の監督にあたる私が、A市の上役に挨拶をしても不自然じゃないだろう?」
単刀直入に三春の不審な携帯電話について尋ねたスティーブに、A市の蒲生氏も直截に話してくれた。
三年前の大災害のときに、三春は婚約者と両親を亡くしていた。震災後、「しばしば混乱する」場面があり、医師の診察を勧めたけれども本人は退けた。普段の勤務には支障はなく、周囲の人々も多かれ少なかれ心に傷を負った状態なので、無理強いはしなかった。
今回のロサンゼルス長期出張は、蒲生が三春を押し込んだ。転地療養になるかとの期待があったそうだ。
「目を覚ましたら、また婚約者と家族がいない現実を忘れてないですかね?」
訊いてルイスは、忘れていればいいと思っている自分に気が付いた。
三春には、婚約者の可愛さや聡明さについて、惚気るのが似合っている。日常生活にも支障は全然ないようだし。
「でも、それじゃ、いつまでも三春は前に進めないわ。何度も今みたいに思い出して、毎回、辛い思いをするんだわ。逃げてちゃ、駄目なのよ」
スティーブよりも早く答えたサラの声は、真剣そのものだった。
「私、もう行かなくちゃ。暗くなる前に着きたいから」
宣言するように言って、立ち上がった足がふらついた。反射的に転ぶまいと踏み出した足の先にあったのは、三春の手だ。
「×××……」
日本語だが声の調子だと「痛い」とかだろう。うーんと唸りながら、ゆっくりと上半身を起こすさまは、まさに眠りから覚める怪物だ。
かつて三春が目を覚ます姿を、目を細めて見た人々は、もういない。ルイスは胸が絞られながら、「気分はどうだい?」と声を掛けた。スティーブとサラも息を詰めて見守っていた。
「あ? ああ、ルイス。俺、どれくらい寝てた?」
「三十分くらいだよ」
三春は頬を膨らませてから、ゆっくりと息を吐いた。目が腫れていた。
「そうか、色々と思い出した。……多分、もう大丈夫」
痛みを堪えた顔で三春が微笑む。
「無理するなよう」
普段通り嘘っぽい声を出したスティーブに、三春の笑顔が少し柔らかくなった。
「お言葉は嬉しいですけど、今は、潜り込めるベッドもありませんからね。日本行きのフライトだって、さっきの地震でキャンセルですよ、きっと」
スティーブに答えて立ち上がり、身体を伸ばす三春の姿を、サラが眩しそうに見た。
「良かった。私、もう行きますね」
駐車場へ歩きかけるサラが、ルイスは急に心配になった。
今いるグリフィス・パークからサンタ・イネスに行くには、高速五号線を北上し、一三四号線、一○一号線と乗り換える道のりだが、もはや高速道路が必ずしも安全とは限らないのではないか。
九四年のノースリッジ地震では、高架が崩れたし、サラの車は、すでにあちこち破損していた。
「どうしてもと言うなら、止められませんね。グリフィス・パークが絶対に安全と保証もできないし。ただし、私の車を使いなさい。あなたの車よりも少しは丈夫です」
スティーブがポケットからキイ・チェーンを出して、車の鍵を外した。
確かにスティーブの車は大型のSUVだ。目を見開いて躊躇するサラに、スティーブは駐車場のSUVを示した。
「非常時に、常識だの礼儀を振り翳すのは、間違ってますよ。どう行動するべきか、三春に聞いてご覧なさい」
災害に関する話の振り方は、三春に酷だとスティーブは思わなかったらしい。三春は、あっさりと「スティーブの車で行きなよ」と、頷いた。ハラハラした人間は、ルイスだけだ。
三春がぐるりと顔を回して、ルイスを見た。
「ルイスも一緒に行ったら? 万一のときに護衛になるでしょ?」
考えを読まれたようで、心臓が跳ねた。さっきから、心臓に掛かる負担が半端じゃない。
「私なら、大丈夫よ。ルイスはロサンゼルスでする仕事があるでしょう? 職員だもの」
「そんなの、関係ない」
柔らかく、しかし、即座に辞退したサラを叩く勢いで、三春が断言した。
「関係ないんだ」
二度目にはルイスの顔を覗き込んだ。鼓動がさらに早くなった。
家族と婚約者を亡くした災害のときに、三春も選択を迫られたのだろうか。サラとは数日前に会ったばかりなのに、気になってどうにもいたたまれない。
今後、サラと会えなくなったり、サラが傷ついたらと思うだけで、心が破れそうだ。
しかしティーンエイジャー並みに舞い上がったままはいられない。今、市職員の立場を放棄したら、将来もずっと幸せになれない気がした。
「俺はロサンゼルスで、頑張ってみるよ。動物園のイベント撤収も、まだ完了していないし。サラ、気を付けて。向こうに着いたら、知らせてよ」
精一杯の恰好をつけたものの、もう一人のルイスが胸の中で「後悔するぞ」と叫んでいる。
仕方ない。どっちを選んでも後悔するんだろうと、自分を宥めた。
「揉めているヒマはないよ。サラ、行くなら急いで。気を付けて」
スティーブの言葉に勢いよく返事をしたサラは、鍵を受け取って水色のSUVに駆け寄った。スティーブの妻が気に入って選んだ色だ。
知り合って間もない若い女性に車を貸したと、スティーブがうんと叱られればいい。スティーブの妻がスティーブを叱り飛ばせるほど平和な時間が、早く来ればいい。
駐車場を出て行くサラに手を振りながら、ルイスは強く思った。平穏な日々を取り戻すために、ルイスは何ができるだろう。