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LAダウン  作者: 宮本あおば
14/28

14

 朝一番でメルは、ジョージたちと打ち合わせをした。係長の渋面に向き合わなくて済むのは実に清々しい。

「報告は、こまめに」と指示を出した課長への報告は、車の中から電話を架けた。昨日からの経過と今後の予定を伝えると、課長は電話越しでもはっきり分かるように、鼻を鳴らした。

 ロン・ニミッツの偽証に関して、メルがロンに揺さぶりを懸けてみる、と伝えたのがお気に召さなかったらしい。

 メルからすれば、証人や犯人への心理的圧力は聴取テクニックの一つだし、殺人係の刑事なら皆、使う手段だ。

「とにかく、内規に抵触する真似はしないように。普段から、そんな乱暴な聴取をしているのか? ヤングの監督不行き届きだな」

「いえ、普段は決して」

 係長の名前を挙げて忌々しそうな声を出した課長に、メルは鉄面皮の嘘を()いた。

「そもそも君が、ロンにすっかり振り回されているんじゃないのか。捜査における効率の重要さも、ヤングは伝えていないのかな?」

 聴取テクニックは一部が係長のせいになったが、痛いところを突かれて、メルは言葉が出なかった。

「君みたいな優男は、舐められやすいんだ。言いたくないが、白人だしね。もっと気合いを入れないと、殺人係の刑事なんて務まらないよ」

 辛うじて「はぁ、気をつけます」とだけ答えた理由は、不愉快さよりも呆れた気分が勝ったせいだ。お蔭で余計な言葉を口にせずに済んだ。

 ヒスパニックやアフリカ系への人種に関する発言はご法度だが、白人へなら大丈夫、という態度は個人的に許せるとしても、課長自身、本署の殺人係の刑事を務めた経歴はなかったはずだ。

 なにか、まだブツブツ続けている課長に、「相方のラミレス刑事は、ヒスパニックですし、気合いが入っているから、大丈夫です」と嫌味に近い返事をした上で切った。

 ジョージは別行動で、ティムの遺族に会った後、ウェスト・ハリウッドに行く手筈になっていた。

 課長との会話の間に、車は高速一○一号線から分岐して北へ向かう一七○号線に入っていた。

 予めの電話もなく聴取の要請に現れたメルに、ロンは「ええ、またッスか」と面倒そうな顔をした。

 しかし、わざと嫌そうな表情を作り、次はどうやって警察を振り回そうか、と楽しんでいるようにも見える。

 前回と前々回は、ニミッツがふざけているとは思わなかった。だから、課長の言葉に呆れている場合ではないかもしれない。といって今、急に強面(こわもて)ぶる作戦ではないため、事務的に伝えた。

「ともかく、一緒に来てもらおうか」

「困ったな、授業もあるし」と、呑気な風のロンの後ろから、ヒスパニック系の男が顔を出した。ロンと同じほどの身長だが、痩せて足を引き摺っていた。混じり気のない白人に見えるロンに、似た容貌は全くなかった。

「け、警察の方ですって? うちの子が、何か?」

 男がロンの父親に違いなかった。昨夜、調べた内容によると、ロンと父親に血の繋がりはなかった。資料から、メルがイメージしていた人物像とは違っていた。

 おどおどしながらも、息子を気遣う態度に、嘘はないようだ。親子が稀代の嘘つきでなければ、だが。

「ええ。先日の息子さんが目撃した事件で、新事実に関して照合する必要が出ました。ご面倒でも、署まで同行してもらいます」

 作り笑顔で説明したメルに、ロンがやけに明るい声を出した。

「父さん、証言の照合だってさ。心配しないでよ、オレ、何も悪いことはしてないよ」

 テレビ・コマーシャルのような爽やかな笑顔で宥め、メルに「行きましょう」と声を掛けた。どこの良家の子息かと聞きたくなる態度だ。

 ロンを後部座席に乗せ、本署のあるダウンタウンに向かう道を戻りながら、メルは先ほどの父親の態度について考えた。

 あれほど警察に対して及び腰になる理由は、トラウマ的な経験でもあるか、あるいは後ろ暗い部分があるかだ。

 ロンの父親は息子の不法行為を知っているのではないか。マリファナ喫煙のような可愛い犯罪ではない。使えそうな材料に内心で大きく頷きながら、メルはアクセルを踏み込んだ。

 ロンを通した場所は先日と同じ、強盗殺人課近くのインタビュー・ルームだった。

 もはや馴れた調子で、さっさと椅子に腰かけるロンは、いつもの軽い調子だ。車の中で無口だった間に、作戦でも立てたか。

「そんで、新事実って、なんスか?」

 茶色い目の奥に、わずかな緊張を見て取って、メルは意識的に笑顔を作った。課長がどういう方針だろうと、ロンに「揺さぶり」は必要だ。

「お父さんとは十四歳からの付き合いなのに、仲が良いんだね。逆らえない事情があるのかな? お母さんが存命だったら、違っていたかもしれないのにね」

 プライベートな話題は、嫌らしいうすら笑いを浮かべて持ち出すのが定石だ。ロンの顔が強張って、一瞬どす黒く変わった。

 思った以上の効果だ。しかし、すぐに引き攣った笑いに変えた。

「やだなあ、調べたんスか? プライバシーの侵害じゃないんスか? オレ、ただの証人ッスよ。ひどいな」

「必要があったからだよ。君が偽証をしているのが、父親の無理強いや脅しならば、止めさせないといけないからね。六年前の事件だって、父親が関係しているんじゃないのか? ノース・ハリウッド分署は事故だと判断したけど」

 深刻ぶった芝居でメルが告げた内容は、昨夜、一瞬だけ考えた話だった。

「そんな訳ないッスよ。うちの母ちゃん、ワイルド過ぎちゃって」

 偽証した、とメルが指摘した点を、ロンは見事に流した。

 ロンの母、サンドラ・ニミッツは六年前、ロンが十七歳の時に違法薬物の摂取過多で亡くなった。サンドラ・ニミッツがデイブ・エステべスと二度目の結婚をしたのは、亡くなる三年前だ。

 息子のロンは十四歳だった。最初の夫とは、ロンが四歳で離婚しており、エステベスと再婚するまでの間に、何度か薬物使用と売春、児童虐待の検挙歴があった。

「じゃあ、どうして和也と仲が良かったと嘘を吐いた? 和也たちが殺された夜、君は、いったいどこで何をしていたんだ? 父親の具合がしょっちゅう悪くなる原因は、ドラッグのせいじゃないのか? ドラッグ代は、どこから出てる?」

 穏やかに畳みかけると、ロンが困った笑顔を作った。

「ちょ、刑事さん、話が飛びすぎッスよ。そりゃ、和也とは長い付き合いじゃなかったけど、友達だったスよ。親父は関係ないし、マジ、クリーンっす。何だったら、検査して貰ってもいいス。けど、ハンパな理由だったら訴えるッスからね」

 茶化しながらも目つきに剣呑な色を滲ませたニミッツを、メルは笑い飛ばした。最初にロンを証人として連れて来た時から、会話は録音していない。今はメルに有利だ。

「ハハ、どうせ訴えられるんなら、もっとドラマになる真似をしないとな。パノラマACで、親父さんの素行を聞き回ってもいいぜ」

 パノラマACはロンの父親が勤める空調の会社だ。笑った顔のままでメルは続けた。

「言っておくけど、君が偽証したのは犯罪として成立する。だから、身上調査に毛が生えた捜査を違法だって訴えても、弁護士代のムダだぜ」

 半分以上はハッタリだったが、ロンは反応した。顳顬(こめかみ)を震わせて唇を歪め、開こうとした口を、一度ふっと閉じてから「そんな真似させるか」と、小さく吐き捨てた。

「何を言ってんだ。むかつくガキだな。どんな情報が出るか、親父を引っ張って逆さにして振ってやるよ」

 揺さぶりも佳境だ。メルも声音を変えて、ロンに迫った。「逆さにして振る」のが得意なのはエドだが、ロンは知らない。

「やめろ、くそったれ。どうせ、もうすぐ市警なんか踏み潰されるんだ」

 ついに声を荒げて机を叩いたロンは、自分の言葉で我に返ったように固まった。

「そうか、誰が市警を踏み潰すんだい? LW?」

 今度は我ながら不愉快になる猫なで声で、メルは聞いた。もう少しだ。

「違うって、今のは言葉の綾で」

「綾でも何でも、話してもらうよ。今、全部話して後の情状酌量を狙ったほうがいいんじゃないかな?」

 俯けた顔を再び上げたロンは、さっぱりした表情になっていた。

「弁護士を呼んでください。弁護士が来るまで、もう話しません」

「ッスよ」を連発した話し方も変わっていた。ロンは弁護士を呼んでゲームオーバーだと思っているかもしれないが、これこそ、メルがもっと早く辿り着くべき道だった。

「分かった。弁護士に連絡したらいい。携帯は持ってるだろ?」

 わざと溜息を吐いて、メルは肩を竦めてみせた。

「誰に頼むか決めてるのかい?」

「ネットで探しますよ」

 短く返事をして、ロンは携帯電話の小さな画面を操り始めた。メルは席を立ち、壁に凭れて観察した。画面に触れるロンの手つきには、戸惑いがないようだ。

 やがてロンは画面を押して、携帯を耳にあてた。

「オレ、ロン・ニミッツって者です。刑事事件の証人になったら、難癖つけられちゃって。今、市警の本署にいるんですけど、話したくないんで弁護士さんにお願いしたいんです」

 もう「ッスよ」は使わないと決めたのかもしれなかった。相手方がロンを待たせる間、メルはテキスト・メッセージでエドを呼び出した。ついでにジョージにも「そっちの様子はどうだ?」と、テキストを送った。

 やがて電話を終えたロンに、メルは世間話のように「なんて弁護士?」と尋ねた。

「ジョン・クロスビー弁護士事務所ってとこ。広告の感じが良かったから」

「そう。きっと仕事もできるんだろうよ」

 弁護士が到着するまで、メルもインタビュー・ルームで待つ必要はなかった。トイレなどの際には壁のインターホンで知らせるようにと伝え、廊下に出た。胸がざわついた。

 ジョン・クロスビーと来たか。

 本署殺人係の刑事として、殺人犯を裁く法廷に出る行為は日常茶飯事で、自然に犯罪被告弁護士とも顔なじみが多かった。ジョン・クロスビーは七十過ぎの弁護士だ。

 かつてはやり手だったが、最近、事件の担当は、まずしない。数人の弁護士を抱えた事務所を経営している。敏腕揃いとの評判だが、腕に相応して、値段も高かった。

 誤認逮捕などで逆ねじを食らわすつもりでなければ、いや、仮に訴訟が目当てであっても最初に弁護士を雇う際に払う依頼手付金は、高額だ。

 授業料の支払いに苦労する学生が簡単に出せる金額ではなかった。ニミッツが手付金や弁護士料を心配しなくていい理由があるはずだった。

 メルは手応えに頬を膨らませた。

 インタビュー・ルームから殺人係へ戻ると、エドがメルの机に腰を乗せて待っていた。

「ついさっきコンプトンで、派手なドライブ・シューティングがあったってよ」

 車から銃を乱射して路上や室内にいる人間を撃つドライブ・シューティングは、ストリート・ギャングの抗争では珍しい事件ではなかった。しばしばギャングの構成員だけでなく、構成員の家族や友人、近所の人間までが被害に遭って、抗争が泥沼化する事態は警察関係者の頭痛の種だ。

「派手って、被害はどれくらいなんだ?」

 コンプトンと聞いて、昨日の抗議行動がメルの脳裏に甦った。

 プラカードを持った男たちが抗議していた事件は、エドが担当だった。抗議行動とドライブ・シューティングが全く無関係なら、エドがわざわざ話題にするはずもなかった。

「狙われたのは市役所と隣の郵便局だ。近所の銀行も弾を撃ち込まれた」

「ギャングの抗争ってレベルじゃないな。昨日、エドの事件に抗議をした連中がいたようだが?」

 変に抗議の話題を避けても意味がない。ストレートに訊いたメルに、エドは顔を歪め、細い鼻梁に皺を寄せた。

「抗争じゃねぇよ。もっと悪い感じだ」

「じゃあ、暴動か」との質問が喉まで出かかった。メルの頭の中に一九九二年のロサンゼルス暴動が甦った。

 ロドニー・キングに対する警官の暴行に端を発した暴動は、サウス・セントラルを中心に六日ほど続いた。今日、ドライブ・シューティングがあったコンプトン市の隣がサウス・セントラルだ。

「サウスウェスト分署は、ピリピリしてるだろうな。昨日の抗議行動との関係は、今、保安官事務所が調査中だ。言っとくが、俺らの管轄だって、クレイジーだぜ。今朝だけで、もう二件も、殺人事件が回ってきた」

 黙っているメルに向かって、勢いよくエドが喋った。

「ロサンゼルス中、どうかしちまってるな」

 気のない相鎚を打って、メルはジョージからテキストの返信が来ていない状態に気付いた。ウェスト・ハリウッドの保安官事務所で気を取られる話でも聞いているか。

 念のために電話をかけたが、呼び出し音の後に留守番電話サービス・センターに繋がった。メルは顔を上げてエドに声をかけた。

「ジョージはまだ、ウェスト・ハリウッドにいるとは思うんだ。俺もそっちで合流して、郡立美術館とペイジ博物館に行く予定なんだが」

「証人の弁護士は、どうするんだよ?」

 エドが眉を神経質に上げて尋ね、メルは口角を上げた。

「さっきテキストで呼び出したのは、弁護士の対応を頼むためさ。緊急事態で外出したとか理由をつけて、待たせてくれ」

「待たせたくらいで尻尾を出すタマか?」

 もっともな質問を投げてきたエドに、もう一度メルは微笑んだ。

「だから、ついでに弁護士の調査も頼むよ。ロンにジョン・クロスビー弁護士の名前を伝えて、いざって時には依頼するように指示を出したヤツがいるはずだから」

 指示を出した人物が、ティムと和也殺害の実行犯かは分からない。だが、必ず関係している。ペイジ博物館の事件とも無関係ではないだろう。

 メルの笑顔での注文に、エドの顔が渋くなった。

「厄介な調査だな、おい。ロンの共犯者と繋がってるのが、ジョン・クロスビー本人とは限らないだろ。事務所の弁護士の一人かもしれないじゃないか」

「とりあえず、ジョン・クロスビーのチェックをしてくれ。他の弁護士が来れば、そいつの調査を」

「そんな時間、あるかよ」

「お前よりもウィルに期待してるんだよ。ああ、それと、もう一つ」

 頼みごとをしながら、メルは思い立ってEメールを確認した。受信箱を見て、思わず口笛を吹きそうになった。

 検視官のオフィスからラボに回った傷口の検査結果が、届いていた。長い警官生活で、これほど早くスムーズに検視や検査結果がやってきた例はなかった。上部が動くと、全ての扉が面白いように開く。

 しかし内容に目を通して、メルは唸り声を上げた。ティムと和也の傷口からは、ごく微量の天然アスファルトが検出されていた。ロンに犯人はLWだと主張させた黒幕は、恐ろしく手の込んだ真似をしたわけだ。

 万が一にも本当に九千年前の人骨が犯人だったら、今後、市警の捜査方法は大幅に変更されるだろう。幽霊の捜査も範囲と改変されたら、メルが辞表を出す日も近い。

 車を北西のウェスト・ハリウッドに向けて、メルは再度携帯を確認した。ジョージからの着信はなかった。ティムの遺族に引っ掛かっているとは思えない。ウェスト・ハリウッドにいるはずだ。

 メルが借り出したのは、白と黒のポリスカーではなく白い無地の公用車だが、無線は付いている。スイッチを入れると、手配係(ディスパッチャー)が緊張した声で警備部の警備中隊へ出動要請を伝えていた。サウスウェスト分署からの増援要請らしい。

 どうもコンプトンが、さらに騒がしい状態になってきた。

メルは窓の外に目をやった。車は韓国街を通り抜けたところで、ビバリー・ブールバードの両脇には静かな住宅街と商業地区が交互に現れた。

 ビバリーヒルズやベル・エアほどではないにしろ、近辺に一戸を構えるには、それなりの資産が必要だ。コンプトンの一部や、サウス・セントラルとは、雰囲気が全く違った。

 メルは、コンプトンを考えた。自由の国だと国民は主張し、権利は平等だと法は謳うが、機会は違うし、見えない壁や天井は、そこら中にある。

 メル市内の中流家庭に育って、学校に行く行為も帰宅して食事を出される日常も当然だった。それでも、十六歳で何十万ドルもする車を乗り回す連中を、羨んで育った。

 一方で子供たちが構われず、食事もろくに与えられない地区がある。ストリート・ギャングが幅を利かせて、抗争や警察の手入れが絶えない。

 子供たちの目に映る羽振りの良い大人はギャングとドラッグ・ディーラーで、学業に励んだり、額に汗して働く意味は、まず学べない場所だ。

 サウス・セントラルやコンプトンの空気は、住民同士の馴れ合いと、鬱屈したフラストレーションでできている。日ごろは内部や近隣のストリート・ギャング同士での諍いに留まっているが、一たび火が点けば、フラストレーションが外部に向く可能性は高かった。

 不穏な考えを弄んでいる間に、メルの車はウェスト・ハリウッドに着いた。相変わらず、華やかで小洒落て、かつ平和なエリアだ。

 フレンドリーなウェスト・ハリウッド保安官事務所ステーションの交通係は、にこやかに「ラミレス刑事? 来てたけど帰りましたよ」と、告げた。

「事件当夜のカメラの記録を再確認したい要望でしたから、ある限りの記録を見てもらいました。見た後は、捜査係の誰かと話していたと思いますけど」

 メルは礼を言って、交通係を後にした。ステーションは広い建物ではない。赤レンガの外観で一階建てだ。

 一応、屋上にヘリポートは作ってあるが、常駐のヘリはいなかった。

狭い建物の中で捜査係を訪ねると、先だっての警部補がメルの顔を見るなり「やあ、すれ違いかな?」と、白い歯を見せた。警部補の名前は確か、アンディー・オースティンだ。

「ラミレス刑事なら、一時間以上も前に帰ったよ。事件当夜の犯人の逃走経路の再確認だって? 役に立てなくて悪かった」

「一時間ですか? 事件当夜について、ラミレスと、どんな話をされました?」

 質問を繰り出したメルに、オースティン警部補は「一時間くらいだと思うな」と、呑気そうに繰り返し、さらに続けようとした時に、ヘリの音が聞こえて来た。

 聞こえ出してからあっという間に大きくなったヘリの音は、ステーションに降りようとしていた。コンプトンの事件の関連かと考えたが、メルは口にする前に打ち消した。

 保安官事務所は、ロサンゼルス市の東に隣接するモントレー・パーク市に本部を置いている。モントレー・パークはウェスト・ハリウッドよりも、よほどコンプトンに近かった。

「いや、もう二時間近くなるかな。……市警も色々と大変そうだし、ちょっと息抜きをしたい時があっても仕方ないんじゃないのか?」

 話の分かる教師のような警部補の物言いに、メルは引っ掛かりを感じて無理やり微笑んだ。二時間前なら、メルがジョージにテキスト・メッセージを送る前だ。

「ヤツ、愚痴でも零してました?」

「先々が大変そうだっていう世間話さ。具体的な話は、何も」

 警部補も微笑みを返す。ここで意味深な笑みの交換会をしても進展はない。メルは交通係のときと同じように形通りの礼を口にして、外に出た。もう昼近かった。日差しが刺さるように強かった。

 ステーションの人々を疑うわけでもなかったが、メルは一応、L字型の駐車場をチェックした。さらに念を入れてジョージの携帯に電話をしながら、日差しから顔を背けて歩いた。

 ジョージが借り出した公用車はなく、電話は先刻と同様に数回ほど鳴って、留守番電話サービスに繋がった。

 警部補は息抜きの脱線を示唆したが、ジョージがそこまで考えなしだったためしはない。脱線しないわけではなく、現場の刑事として脱線ありの状況と、あり得ない状況の区別は、ついた。

 本署の殺人係に配属されて日は浅くとも、状況判断ができない刑事に分署から本署への栄転はなかった。いくらポンコツ揃いと評される市警でも、だ。

 車に戻り、エンジンをかけてから、メルはエドに電話した。メルからと表示が出たせいだろう。

「弁護士は、まだだぜ。ロンは静かなもんだ。案件は、ウィルが汗だくでこなしてる」

エドの第一声は長かった。

「ジョージが消えた。ウェスト・ハリウッドのステーションは二時間前に出たらしい」

「マジかよ? 車もないんだろ? 手配係から無線に呼びかけさせる手もあるけど、息抜きだったら、庇えないぜ」

 今しがたジョージの脱線はないと考えたばかりだが、改めてエドに指摘されると、「万が一」の言葉は浮かんだ。

 家族の関係から、妻には内緒の火遊びまで、コンビを組んでからジョージの生活は把握していたつもりだが、完全ではなかっただろう。

 口を引き結んで、メルが考えたのは十秒だ。

「いいよ、手配係への連絡を頼む。それとウィルは近くにいるか? ティムの遺族に連絡して、何時にジョージと別れたか聞いてもらってくれ」

 本当に脱線だった場合、ジョージに失点がついても仕方ない。今、事件を追う以上に重要な案件はないし、優先順位が分からない相方なら、いないほうがマシだ。

 エドが「へえ」と、珍しく驚いた声を出した。性格はきついが、パートナーを大事にする点では人後に落ちないエドだったら、何があってもウィルの尻を拭っておくだろう。

「お前は、どうするんだ?」 

「ステーションであと一つ確認したい話がある。後は、予定通り郡立美術館とペイジ博物館に回るよ」

 エドが「了解」と言い終わる前に、メルは電話を切った。

 踵を返してステーションに戻る。真っ直ぐに捜査係に向かって、ノックの返事を待たずにドアを開けた。

 固まって話していた六人の男たちは、異様な緊張感と共に、一斉に振り向いた。何かが起きたらしい。

「どうした? 何か忘れた?」

 一際ぐんと背の高いオースティン警部補が、男たちを掻きわけるようにして前に出た。声に平静を装っている状態が感じ取れて、メルのセンサーが鳴り出した。

「すみません、一つ、聞き忘れた質問があって」

「市警のお家芸を出すほど大事な話かい? 『あと一つだけ』って」

 警部はウィットに富んだ冗談のつもりかもしれないが、こういう場合には面白くなかった。聞き込みで「あと一つだけ」を連発する刑事は、七十年代に人気のあったテレビ・シリーズの主役だ。襤褸のトレンチコートが目印だったキャラクターだが、主演のピーター・フォークは近年、亡くなった。

「いいえ。私は、どっちかといえばノワールなほうで」

 苦笑と共に、これまた、どうでもいい話を持ち出して、メルは警部補の背後の男たちを伺った。警部補と同じ捜査係の保安官補佐官たちだが、発している空気が、どうも変だ。

「ガールフレンドが沢山いるのかい? そりゃ、羨ましい」

 メルが挙げたのは、ジェイムズ・エルロイのキャラクターで、ロイド・ホプキンスはやはり市警の殺人係の刑事だ。テレビ、映画、小説の世界で主役を張るロサンゼルス市警の刑事は多い。即座に判別のついた警部補は物知りだろうが、俳優にはなれない演技だった。

「もてる性格じゃなくて、女房に逃げられた経歴が。ついでに、出身高校も同じです」

 おやおやと顔を顰めてみせた警部補だったが、ふと目の表情を昏くした。

「いいじゃないか、生きてるなら」

 口元は微笑んだ形になっているけれど、顔どころか、身体全体に影が差したようだ。警部補の左手の薬指に光る物を確認して、メルは素直に「失礼しました」と目を伏せた。警部補の後ろから、補佐官たちがやけに剣呑な空気を放ち始めた。

「いや。で、聞きたい質問って何だい?」

「さっき、私の顔を見て、すぐに『すれ違い』と仰いましたが、どうして私がラミレスを探してると思ったんですか?」 

「ラミレス刑事が、君と合流する予定だとか何とか、言ったからさ」

 数分前は拙い演技だったが、今度は、まずい言い訳だ。トレンチコートの刑事が活躍した時代ではあるまいし、今日び、捜査中の刑事同士でのすれ違いなど、まず起きない。

 警部補は、メルとジョージが合流できなかった事実を知っていたから、すれ違ったのかと聞いた。

「本当に?」

 静かに尋ねた言葉に被せるように、警部補の背後から甲高い声が飛んだ。

「市警のマヌケさの尻をこっちに持って来るな。付き合っていられるか」

 まだ若い赤毛の男だった。すぐに警部補から「黙ってろ」と一喝されて、首を竦めた。補佐官たちがこれだけ緊張している理由は、何だ。ジョージの行方が知れないのと、どんな関係がある。

「君が何をどう考えたのかは知らないが」

 メルに向き直った警部補が話しかけたとき、デスクの上の電話が鳴った。一度目のコールが鳴り終わる前に、クルーカットの男が取った。

 電話の相手の言葉までは分からなかったが、興奮した大声はメルの耳にまで響いた。受話器を持つ男の背中が、痙攣したように震えた。

「了解! 合流します」

 短く返事をした男に、周りの男たちが「おお」と、どよめきを上げた。

状況が分かっていない人間は、メルが一人だ。電話を切る間際に、男が受話器に「ルール・LA(ロサンゼルス支配)」と、言葉を放り込むと、空気が変わった。

 市民の安全を守る組織ではなく、まるで試合前のフットボール・チームの控室だ。

 何かが起きている。しかも、歓迎できる風向きではなさそうだ。

「合流して、どうするんです?」

 男たちを向いていた警部補が、メルの声に、振り返った。茶色の瞳が驚くほどの生気に溢れていた。

「君は、面白い男だ。一緒に来るといい。ラミレス刑事は迷わなかったよ」

 ジョージが補佐官たちと同行しているわけか。図らずも行方が分かってしまった。心から補佐官たちに同意したかは、かなり怪しいが。

 言葉に詰まったメルに、警部補は宗教者のような微笑みを投げる。背後から赤毛が叫んだ。

「行きましょう、オースティン警部補。もう、市警に構う必要はありませんよ」

 補佐官たちの目的地は、どこだ。今、補佐官たちを止めるのは、不可能だろう。むしろメルは、ステーションからどうやって脱出するかを考えるべきかもしれなかった。

 何やらハリウッド映画でも却下されそうな筋書きが、現実に展開しているらしい。

興奮して足摺りする男たちに「先に行ってろ」と手を振って、警部補がメルを覗き込んだ。

「細かく説明しているヒマはない。ロサンゼルスをマシな場所にするんだ。協力しろ。我々は単なる夢想家じゃない。計画は必ず成功させる」

 説得力のある声だった。微笑んだ瞳はそのままだが、目の底から強い意志がメルを掴もうとしていた。メルは、ゆっくり口を開いた。

「残念ですが、遠慮させてもらいます」

 警部補の目に焦点を置きながらも、肩の動きに注意した。撃ち合いになっても、最初の一発を急所に食らわなければ、反撃のチャンスはあった。

「君は分かっていない」

 微かな苛立ちが含まれた言葉が終わる前に、開けっ放しのドアから「オースティン警部補!」と、呼ぶ声がした。

 廊下からは、尋常でないざわめきが伝わってきた。何事か計画しているのは、捜査係だけではないらしい。

「あなたを待っているようですよ。私は帰ります」

 メルはドアのほうへ顎をしゃくってみせ、ゆっくり歩き出した。

「分かってからでは遅いんだ」

「結構ですね」

 辛うじて落ち着いた声は出たものの、建物を出る前に撃ち殺されるか、拉致される可能性は高かった。廊下に出ると、少し離れて赤毛が立っていた。よほど警部補が心配なのか、近くにいないと不安なのか。まず、後者だろう。

 メルを見て歯を剥き出した。

「市警らしい、馬鹿な犬だ」

「頭の一つも撫でたくなるだろ?」

 半ばやけくそで、メルは急がずに出口に向かって歩き出した。すれ違う職員や補佐官たちに対して目顔で頷くと、相手も上気した顔で頷き返した。

 いったいどれだけ大勢の人間が関わっている計画で、何をどうする予定になっているのか。出口とは逆方向から、ヘリコプターのローター音が聞こえ始めた。

 エントランスから出たメルが振り返ると、ヘリコプターがゆっくりと浮上して行った。ヘリポートで見送る大勢の声がした。無邪気な声援が、メルの胃を冷たくさせた。

 公用車では、無線がヒステリックに喚いていた。

 コンプトンで起こったドライブ・シューティングが、あっという間に暴動に発展し、あろうことか、暴動を煽って先導しているのが保安官補佐官たちだと、パニックになっていた。

 今しがた聞いた「合流」の意味が分かった。ウェスト・ハリウッドの連中は、コンプトンに応援に駆け付けるのに違いない。

 普段、大きな事件のときは協同で動く保安官事務所側からは応答がなく、周辺都市の警察も大混乱になっている状況が、無線で分かった。

 九・一一のニューヨーク市そこのけだ。

 サンタモニカ・ブールバードに車を出しながら、メルは無線を取り上げた。所属を伝えて続けた。

「ウェスト・ハリウッドのステーションでも、コンプトンに合流する動きが見られた。数名はヘリでコンプトンに向かった模様。『ルール・LA』の合い言葉に注意されたし」

 クーデター云々という言葉は、使おうかと思って、止めた。革命だのクーデターといった話が何より好きなFBIは、もう出動の準備を始めているはずだ。

 常日頃は「鬱陶しい存在だ」と思っているFBIの参入をあてにしている自分に気付いて、メルは舌打ちした。

 一九九二年の暴動とは違った試練が、街にも市警にも訪れようとしている。メルは遠い南の空に、うっすらと立ち上った煙を認めた。


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