マリーゴールドの花束を
ifエンドの話を書くかもしれません。
「愛してるよ」
ひとつも笑ったところのない顔で、笑みに見える形を作り、温度のない声でその人は、愛の言葉を放った。
だから私も舞台に上がったピエロの気分で笑ってみせる。そして同じようにおざなりな愛を告げることにした。
「はい。わたくしもお慕いしております、コーエンさま」
私がその人に嫁いだのは二十三になった春のことだった。
生まれつき体が弱く子供を産むことが難しいとされた私には結婚など夢のまた夢であった。
子爵の優しい父と穏やかな母、優秀な兄は家族思いで、女としては不具である私を見捨てはしなかったが、やはり後継を産めない私に良い婚姻話などあるわけがなく、打診されるのは年の離れた男やもめの貴族か女遊びの激しい放蕩息子のような相手ばかりであった。
私としてはこのまま家にいて迷惑を掛けるよりも、いっそもらってくれるのなら誰でもいいから結婚してしまいたいと願ったが、それは父が許さなかった。
「結婚したとして不幸になるのが目に見えている相手にお前をみすみすくれてやることはできない。今日まで大切に育ててきたのはそんなことのためではないのだから。
せっかく我が家に生まれてきてくれたのだ。幸せになってほしいと思って何が悪い」
父のその愛に私はどうしようもないほど不出来に生まれた自分を呪ってしまいたかった。が、そんな私に父は、家族は、愛を注いでくれたのだ。無駄にはできない。愛に応えるには私はその愛の分だけ自分を愛さなければいけない。
貴族の結婚など損得での繋がりだという人も多い中、一生を決める大事な決断だと大切に考え、目に見えない“幸せ”を重要視する父は貴族としては異端であれ、最も尊敬に値する人だと思った。
そういうわけで私は二十三になるまで家族のそばで仕事の手伝いや勉強をしながら幸せに暮らしていた。
しかし時を重ねれば変わっていくこともあって。兄が結婚した頃からだろうか、自分の存在に違和感を感じ始め家が窮屈に思うようになった。また幸せそうな兄夫婦を見るにつれ自分には訪れることのない幸福に胸が掻き毟られるような気分になることが増えた。
父もそんな私の変化に気づいたのだろう。庭に小さな離れを作りそこに移ってはどうかと聞かれた。私はありがたくその言葉を受けることにした。
一人きりの気ままで気楽で、少しだけ寂しい生活に慣れた頃、離れに兄が嬉しそうな様子でやってきた。
「俺の友人が、お前を嫁にもらいたいと言ってきたんだ!」
詳しく聞けばその方には年の離れた弟君がおり、自分に子ができなくても構わないと言っていると兄は言った。だから私は気兼ねせず嫁げると。
そんな虫のいい話があるだろうかと思ったが嬉しそうな兄に水を差すこともできず、つい戸惑う。
「あいつは本当にいいやつだから安心しろ。きっとお前を幸せにしてくれる。父さんも初めは渋っていたが先日“彼ならいいだろう”って納得してくれた。
結婚だけが幸せとは言わないが、結婚することで得られる幸せもあるってことをようやくお前に教えられる」
兄の実感ある優しい言葉に否やなど述べられはずもなく。「私でいいのなら」と返すことしかできなかった。
教えられた相手の名はコーエン・ヒッテンフェルド様。
夜会を賑わせる貴公子のお一人だった。適齢期のお嬢様方が結婚まではいかなくとも、一度でいいからダンスのお相手だけでもと夢見る憧れの美男子。
どうしてそのような人が今まで独り身だったのか尋ねると兄は「ああ、あいつには元々婚約者がいたのだけどね、不幸にも結婚する矢先に事故で亡くなってしまったんだ。それから不幸が続いて、今日に至るまでチャンスとタイミングが合わなかったらしい」と教えてくれた。
しかし彼ほどの人ならば相手など掃いて捨てるほどいるだろうに本当に私が相手でいいのだろうか。そんな不安が顔に出ていたのか、兄はこうも言った。
「この間、一緒に夜会に行っただろう? あのときお前のことを遠くから見せたんだ。そしたら一目で気に入ったみたいで、すぐに“もう決まった相手はいるのか、紹介してくれ”なんて言ってきてさ。お前は夜会で人と会うのを嫌うから今度な、って言ったんだよ」
銀の髪が見事な青年は冴え冴えとしたアイスブルーの瞳を瞬かせる。まつ毛一本の動きまで目を見張るような美しいその姿に私はたじろいだ。
「初めまして、レーナ嬢。俺はコーエン・ヒッテンフェルド、よろしくね」
「は、はい……」
優雅な身のこなしに爽やかな笑顔。まるで童話の王子様のよう。本当にこの方が私の夫になるというのか。私は不思議でならなかった。
そのままひっそりと私たちの婚姻は済まされた。私の年齢が年齢なだけにあまり大仰にしたくなかったのだ。ただでさえ騒がれる相手との結婚である。必要以上に目立ちたくなかった。
それから私の居住は彼の屋敷へと移された。伯爵を賜る彼の屋敷は思っていた以上に、静かな場所であった。屋敷自体もそう大きなものではなく、使用人の数も我が家と変わらないのではないかと思えるほどだった。
「あまり、人が多いのは好きじゃなくてね」
不思議に思った私が問うとコーエン様は眉尻を下げてそうおっしゃった。気心を知っているものだけでいいのだという考えは私にも理解出来る。ただ上流である伯爵家としては珍しいなと、そんなふうに思った。
コーエン様との生活はその屋敷の有り様のように静かなものだった。時折姪や甥が遊びに来る離れ暮らしをしていた時よりも静かかもしれない。
私は憧れていた兄夫婦の生活とは違う今の暮らしに少しだけ違和感を覚えていたが、それも子を成せないための違いだと思うことにした。
子供というのはいるだけで空間が明るくなる。実家にいた頃とは違うのも仕方ないんだと。
けれど、その考えだけでは、だんだんと自分を誤魔化せなくなっていった。
「愛してるよ」
就寝前、コーエン様はいつも口にする。
結婚して半年を過ぎたあたりから繰り返されるその言葉。初めはただただ純粋に嬉しかったけれど、回数を重ねる毎にその言葉の重みが何もないように聞こえだした。
──まるで儀式か呪文のよう。もしくは儀礼的な挨拶。
極めつけは、その妙に澄んだ瞳だった。鏡の中を見ているみたいな瞳は目の前の私に対して何の感慨も抱いていないのだというような色をしていた。
物語のヒロイン気分で新婚生活を送っていた私はここに至るまでしばらく気づかなかった。自分には訪れないと思っていた幸運が思わぬところから降って湧いたのだ。少しくらい浮かれたって許してほしい。
でもやはりというか、必然というか。
不出来な自分に降って湧いた幸福は、それに相応しく穴の空いた幸福だったのだ。
刺繍糸が足りなくなり、自室から出てメイドを探していた時のこと。いつもの部屋付きの侍女はたまたま出払っていたので私は直接メイドを探すことにした。
そんなことをせずに部屋に篭っていれば良かったと今なら思う。
そうすれば、美青年に見初められた幸運な令嬢という都合のいい幻想に浸っていられたのだから。
「奥様はほんとうに瓜二つよねぇ」
休憩中なのだろう、炊事場に置かれたテーブルに二人のメイドがいるのがちらりと見えた。声を掛けようとして、その前に発されたメイドの言葉に私は動きを止め壁に張り付く。何か予感めいたものが働いた。
「シッ、声が大きい。わたしも同感だけれどそれはここでは禁句よ」
「わかってる。けど……」
「あんたの言いたいことはわかるわ。奥様がいい人なだけに余計ね」
「でしょー!? あんなにお優しい方なのに旦那様にとっては身代わりなんだもの! あたし奥様に同情しちゃう」
「こら、そこまでにしな! あの方のことは絶対に秘密なんだから」
“瓜二つ”、“身代わり”、“あの方”、これまでにも微かに感じていた違和感の答えがそこにあった。
兄は言っていたではないか。コーエン様には元々の婚約者がいたと。その方が亡くなってしまったが故に彼は独り身であったと。
やむにやまれぬ事情が重なったことは事実かもしれない。だがコーエン様のそのお心は常に、私の知らぬその方のそばにあったのだ。
彼は私を愛してなどいない。あの言葉は私を通してその方に捧げているのだ。
きっと私が現れなければ結婚などせず、その方だけに心を捧げ、弟君に跡を継がせるつもりだったのだろう。
私に子が成せないのも彼にとっては好都合であったはず。なぜなら身体の貞節も守ることができるのだから。
この国は女性のほうが貞節に厳しいが、かと言って男性に貞節が求められていない訳ではない。
心に決めた以外の女性に触れることを嫌悪する男性はそう珍しいものではなかった。
私がどれだけ亡くなった婚約者様に似ているかは知らない。けれどコーエン様にとって私は『生きた姿絵』のようなものなのだ。
そうとも知らずに浮かれる私のなんと滑稽なことか。惨めを通り越して笑いたくなった。
メイドたちが動き出す気配を感じて私は足早に去った。部屋に戻ると侍女が戻っていて姿が見えなかったことを心配された。もちろんさきほど見たことを言えるわけもないので「気分転換に少し外を歩いていたの。ごめんなさいね、心配させて」と普段通りを意識して答えた。
しかしつい顔を背けると窓辺に寄せられた丸テーブルの上の作りかけの刺繍が目に入る。
ヒッテンフェルド家の家紋をハンカチに縫っていたのもの。完成したらコーエン様に渡そうと思っていた。
──渡す日は、きっと来ない。
作りかけのそれを糸がないからと言い訳して私は鏡台の引き出しに深く押し込んだ。二度と日の目を見ることがないように。
その日から私は自分を道化と思うことにした。私は与えられた役目をこなすだけのピエロ。滑稽な笑みも言動も芝居のための仮面だと思えば、まだマシだ。
私に与えられたものは仮初のものだけれど、一度はどんな相手でもいいと思っていた結婚だ。幸い、コーエン様は人として貴族として、まっとうな方で、金遣いが荒いこともよぼよぼの老人でもない。それどころかあまり物欲がなく、見た目は芸術品のように整っている。……これで心まで欲しいなんて贅沢か。
父が望んでいたような幸福な結婚とは少し違うけれど、傍目から見れば人も羨む恵まれた生活に見えることだろう。私が笑ってさえいればすべては円満に行く。
木漏れ日を浴びながら日課の編み物をする。体の弱い私の小さい頃からの趣味。ふと視線をあげると窓越しに新緑の木々が見えた。実家にいるときに兄と散歩したことを思い出して、なんだか私は少しだけ寂しくなった。
あんなふうに誰かと庭を歩くことなんてもうできない。……ましてやコーエン様となんてきっと。
「編み物はもうおしまいかい?」
意識が庭から、ドアの方へと移る。やわらかな声の主は、たった今想像していた当人だった。
「コーエン様……」
「天気がいいからよかったら一緒に外に出ないかと思ったんだ。もちろん君の体調次第だけど」
「え……」
「気が進まない?」
「い、いえそういうわけでは。でも急にどうして」
まるで考えていたことを悟られたかのようなタイミングで私は狼狽える。喜びよりも戸惑いが先についてでた。
「俺たち、あまりお互いを知らないまま結婚してしまっただろう。だからもっと交流すべきかなって」
「そうですか……」
「……君はそうは思わない?」
はいとも、いいえとも言い難かった。知りたいとは思う。けれどその澄んだ瞳の先にあるものまでは知りたくなかった。私が身代わりなのはいい。彼が私と結婚しようと思った理由としてそれほどわかりやすく納得できるものはない。でもそれを本人から告げられるのはまた別だ。
私は少し悩んで、答えを決めた。
「私もそう思います」
──道化なのだ、私は。与えられた「妻」という役割をまっとうしなくては存在する意味がない。
「……それでね、ランドルフは顔を真っ赤にしながらエリシテ嬢に告白したんだ」
「そんな経緯だったのですね。兄は詳しくは教えてくれなかったので知りませんでしたわ」
「きっと妹には恥ずかしい姿を知られたくなかったんだろうね」
「でもコーエン様の裏切りによって知ってしまいました」
「うんだからランドルフには俺が言ったってことは秘密にしてくれる?」
「ええ、心得えております」
兄のプロポーズまでの過程をコーエン様が教えてくれながら二人で庭を歩く。私たちはちょっとした秘密を共有して、仲睦まじく歩く、幸せな夫婦に見えているだろうか。
コーエン様の笑い声がうなじをくすぐり、私をエスコートする手はやさしい温かさを持っている。こんなにも近くで、温度も匂いも表情も見えるのに、感じるのに、心は驚くほど遠く影も見えない。
その笑顔は本心? 私の顔はうまく笑えている?
コーエン様が私を見てくれる日はいつかくるのでしょうか。
……いいえ。そんな日はこなくてもいい。身代わりでもなんでも、私を選んでくれたことに変わりはない。心をコントロールすることが難しくて、彼の本心を知りたくなってしまうけれど。
今はただ、このまま。穏やかな時間を過ごせれば。他に望むべくもないのだ。
気がつけばもう二十五になっていた。今も私は硝子のなかの出来事のように平穏な日々を過ごしている。無味無臭の毎日は、乾燥してパサパサのクッキーを紅茶なしに食べているのと同じものみたいだと思う。
最近、よく思うことがある。
私もコーエン様のように誰か一人を一途に愛し、愛されたい。
私が愛すべきコーエン様はすでに相手を見つけてしまっている。だから、私は夫を持つ身ではあるけれど、愛を、探してみたいとそんな風に思うのだ。
「夜会に行きたい?」
「はい」
結婚してすぐは何度か行ったが、もうだいぶ足が遠のいている。コーエン様も私もあまり社交の場が好きではないために今まではそれでもよかったが、愛……つまり殿方との出会いは夜会にでも行かなくては達成できない。世の奥方たちは、そうして一夜限りの恋を楽しむのだという。
「どうして急に」
「……気分転換、でしょうか」
「レーナはあまり夜会が好きではなかったよね?」
「たまにはいいかなと。……私が行くのは何か問題がありまして?」
「いや、体調を崩さないくらいなら止める理由はないよ」
蒼い瞳がきらりと光るのを見て背筋がツっと冷たくなる。殺気、というのだろうか。思わず怯えが体に出そうになるが、怯えは己にやましいところがあるせいだ。アヴァンチュールは暗黙の了解、白日のもとに晒してはならない。
私は静かにコーエン様の目を見て笑った。
「では、行って参りますね」
久々の夜会。煌々と輝くシャンデリアに優雅に踊る貴族たち。ワインやシャンパンを片手に談笑を楽しみ、若い男女は良縁を、大人たちは秘密の恋を、各々求めて渡り歩く。
きらびやかなその光景に、私は軽くめまいを覚えた。
今夜は壁の花となって過ごすのだろう。やはり性に合わないことをしようとするものではない。一夜限りの恋なんて私には無理だったのだ。誰かに見初められるはずもないのだから。
コーエン様はここにはいない。今日は他の抜けられない仕事上の付き合いでの夜会があるから。そこに私が行かないのは必要がないため。たまたま一人で、退屈していたから、なんて理由で夫を裏切ろうとしてみたけれど。
「私にはここがお似合いよね」
「……そうでしょうか」
ふと漏れた独り言に、返事が来て私は驚いてその声の方に振り向いた。
紺色の髪に金色の瞳をした青年がシャンパンを片手に私を覗き見ている。
「朝露できらめく薔薇に心惹かれない男がいるとは思えませんが」
にこり。口角をただ上げただけの笑みがこんなに似合う男性がいたとは。一歩間違えば酷薄な笑顔に見えてしまいそうなのに、その鋭いオーラが逆に彼を魅力的にしている。
優しい雰囲気のコーエン様とは、まるで正反対の人だと思った。
「……夜に浮かぶ月に焦がれない女がいないように?」
相手の髪と目を揶揄した言葉を返すと彼は少し目を見開いて驚いたようだった。それからちょっと苦笑気味に唇を開く。
「どうやら、あなたの方が一枚上手らしい。一曲お願いできますか?」
カーティス・マゼランと名乗った彼は上手いとは言えない私のダンスを華麗にリードする。硬派に見えた彼は意外にも饒舌で、一曲の中で私は何度もくすくすと笑ってしまった。聞けば年もそう離れていない。
「ご結婚はなされないの?」
「生憎相手に恵まれませんで」
彼の父である子爵が急に逝去されてまだ代を継いだばかりだという彼にはそれこそ縁談がたくさんあろうものなのに。
「でしたら私のような既婚者と踊っている場合ではないのでは……」
「そうつれないことをおっしゃらないで」
……彼を一晩の過ちにするには美しすぎるし、キレイすぎる。
「可憐なお嬢様たちの邪魔をするわけにはいかないわ。私はこれで」
曲が終わり、輪を抜け一礼して去ろうとする背中に声がかかる。
「待って、待ってください」
「…………なにか?」
首だけをそちらに向けて、尋ねる。きっと……よくないことが起こる。そんな気がした。
「また、お会いできますか」
金の目は強く光を灯して、私を見る。
いけない。その目は。
「会わない方がいいと思いますわ」
「──三日後、ダルトン伯の屋敷で行われる夜会でお待ちしております」
精一杯の拒否も聞こえないような彼の台詞と突き刺さる視線を感じながら、私は駆けるようにその場を歩き去った。
「はあ……」
ロッキングチェアに座って進まない刺繍針を眺める。
「どうかしたのかい。君がため息なんて珍しい」
「コーエン様……いえ、明後日のドレスをどうしようかと」
「ああ、ダルトン邸のか」
「……はい」
「俺の意見でよければだけど。俺はあの紺のドレスがいいと思うよ」
思わず息を飲む。何故なら私もそのドレスを着ようかと思っていたから。そしてその色は……。
「いつもあれにはシルバーのボレロを合わせているだろう?」
そうだ。あのドレスはそういう組み合わせを好んでしていた。たかがドレスなのに、こんなにもいけないことをしている気分になるのは、私の気持ちのせい。そして思わせぶりな言葉に踊らされているせい。
「今日はこの前よりも一段と魅力的だ」
「……ありがとうございます」
「元気がありませんね。どうかしましたか」
「いえ、そんなことは」
「もしかして……私のせいで浮かない顔をしておられる? そうであれば喜びを感じずにはいられないのですが」
蠱惑的な色をしたカーティス様の瞳は、熱を孕んで潤んでいる。もしこれが嘘ならば彼は素晴らしい役者になれるだろう。
……別に嘘でもいいのかもしれない。
でも、それならコーエン様だっていいじゃないか。あの方も心無い愛の言葉をくれる。
この方も、そう。
だけど、どうしてこんなに心を揺さぶられるの。
「失礼。私の言葉が気に障りましたか」
「いいえ、そうではないのです。ただ……、私は、貴方には相応しくありませんから」
「誰がそれを決めるのですか。私には貴女より惹かれる人は、いない」
受け入れてしまいたい。ぐらつく心を制御できなくなりそうなその時だった。
「レーナ?」
「コーエン様……」
涼やかな彩色の美貌と通る声の主は、私の夫であるその人。今日は一緒にやってきていたがコーエン様は自身のご友人と会話に花を咲かせていたので私は一人で会場を回り、カーティス様と顔を合わせていた。
「そちらは?」
「カーティス・マゼラン子爵でいらっしゃいます。この前の夜会で知り合いまして、ご挨拶を申し上げていました」
「そうか。妻が世話になったようで。夫のコーエン・ヒッテンフェルドだ、よろしく」
「ええ、お噂はかねがね。奥様よりご紹介いただきました、カーティス・マゼランでございます。こちらこそよろしくお願いいたします」
恙無く挨拶をする二人を見ながら、ざわつく心を押し込む。やましい関係ではない。……今は、まだ。
「少し妬けてしまうな」
帰りの馬車の中、コーエン様がぼそりと漏らす。
「何がですか?」
「彼だよ、カーティス・マゼラン。会うのは初めてだったけど話はよく聞くんだ。織物業で名を挙げている今一番の貴公子さ。そんな彼と妻が知らぬ間に知り合っていたのだから」
「まさか、何かお疑いに?」
「いいやそうじゃないけどね。愛しい妻の近くに魅力的な男が現れたら夫としては気になるんだよ」
「そういうもの、ですか」
「ああ。そういうものだ」
私はその言葉になんと返せばよいのか。
貴方の察する通り私は彼に惹かれている、と?
貴方は私のことなど愛していないくせに「愛しい妻」?
二年もそばにいて、私は彼の本心を少しも知らない。愛を探す前にしなければいけないことがあるのではないか。そんなことを今更思い知らされた。
カーティス様へ本格的に思いを寄せてしまう前に、確かめなくてはいけない。
知りたくはないし、知ったところでどうしようもないことではある。だけどわたし自身、知らずにはいられないこと。
裏切りの理由を探しているのかもしれない。コーエン様が私を身代わりにするのなら、私もカーティス様を身代わりに。そのための理由が。
「話ってなんだい」
「……聞きたいことがあります」
「いいよ。レーナの聞きたいことを教えて」
「コーエン様の昔の婚約者様について、です」
コーエン様は息を飲んで、目を見張った。やはり、亡くなったかの方を忘れてなどいないのだとその目でわかった。
「どうして? どうして知りたいのかな」
「私を選んだ理由かもしれないと思うからです」
「君を選んだ理由? それがなんで俺の婚約者の話になる?」
「私は子を産めぬ身です。女としての価値はありません。だから良い縁談もなかった。そんな私を娶るのは自身に瑕疵があるか、酔狂な人だけです。そんな私を貴方は選んだ」
彼は頭の回転が早い人だから、私の言わんとすることを察したらしい。
「まさか、それで? 彼女のことを?」
「はい。私はその方に似ていると聞きました」
コーエン様はふう、と押し殺した息を吐いて、ぐっとこちらを見る。
「初めて君を見た時、似てると思ったことは否定しない。けど、君と彼女を同一視してはいないよ」
「……信じるにたる理由がありません。私自身に価値はなく、他に想い人がいる人には都合のいい女です。身代わりでなければ、なぜ私をお選びになったのです?」
私の追求に諦めたような顔をしたコーエン様は少し俯いて、笑った。
「そうだね、ごめん。正確に言えば、確かに君にあの子の面影を思い浮かべていた。それがきっかけで君と婚姻するに至ったことも認める。でも今は違うよ」
「どう、違うと?」
「君はあの子とは全然違うってことを知った」
姿形が似ていても趣味や思考は違うのだから、二年も一緒にいればその幻想も砕けるというものか。
──私が裏切る理由もなくなってしまった?
「……では、私のことをどう思っていらっしゃるのですか」
この二年、ずっと聞こうと思って聞けなかった言葉。私が身代わりではないというのならあの睦言も嘘ではないというの。
「いつも伝えてるじゃないか。……愛してるよ」
変わらない笑顔と、優しい体温。それらをただ信じられたら、どれほど幸せだっただろうか。
見上げた先のコーエン様の瞳に映る私は、絶望し蒼褪めた顔をしている。温度の感じられない愛の言葉はもう聞き飽きてしまった。
そして思う。私の心を。
私はもう、彼の言葉を信じられないのだと。疑心から始まってしまった私の考えはもう覆せないほどに凝り固まってしまったのだと。
「レーナ。君は、俺と結婚して幸せかい?」
幸せが何か、私にはもうよくわからない。
作りかけの刺繍がついたハンカチに包んだ、マリーゴールドの花束を抱えて私は崖の上を目指す。
実家と、それからコーエン様に一通ずつ手紙を書いた。裏切りへの謝罪と、これまでの感謝を。二、三枚の用紙に収まってしまう私の人生。そのすべてを置いて、私は海の見える岸壁を目指す。
青い空には太陽が燦々と輝き、緑を揺らす風が気持ちいい。
登りきった先には、空よりも海よりも深い青の髪を持つ人が待っていた。
「……来られないかもと思っていました」
「貴方をおいて、どこに行けというのですか」
私はすべて捨ててきてしまったのだから。
「その花は?」
「過去への餞です」
そう言ってから、私は花束を海に向かって投げる。潮風に煽られて高くも遠くも飛ばないけれど、ばっとオレンジの花びらが舞うのは妙に美しかった。
「本当に後悔しませんか」
「私はもう選んでしまいましたから。貴方こそ、私でいいの? 私は……」
「ええ。貴女以外はいらない」
私はただ彼……カーティス様を利用しているだけなのかもしれない。滞留し続けた想いや環境を変えるためだけに彼の手を取ったのかもしれない。
でもこの胸の高鳴りを信じた。目の前の瞳の熱を信じた。
さようなら、コーエン様。
ごめんなさい。貴方を愛せなくて。信じられなくて。
「行きましょう」
差し出された手を迷いなく握り返して、私は元来た道を行く。
──もう振り返ることはなかった。
不出来な作品ですが、お読みくださりありがとうございました。