「潤」
『潤』
今朝の天気予報では降水確立五十パーセント、五分五分ならと賭けてみたのだが見事に負けた。最後までこれか、全くツイてない。
目的地に着き、木の下で雨宿りを始めてから十五分、人通りも無く、濡れた空気が身体にまとわり付いて気持ち悪い。
仕方ない、濡れながら行くか。足を踏み出そうとしたそのとき、人の声が耳を打った。
「入って行きませんか」
いつのまにやらそこに居たのは傘をさした青年、飾り気の無いシャツとズボンには全く飛沫が飛んでおらず、穏やかな瞳でたたずんでいた。
「傘、入って行きませんか」
青年は繰り返すと、傘を傾けた。その優しい声音に、優しい瞳に、ほんの少しだけ燻っていた怪しむ心などきれいさっぱり流されてしまっていた。
青年は変わった空気を持っていた。笠原 潤と名乗ったきり、会話らしい会話は無かったが、それが少しも苦には感じられない。
……相合傘など何年ぶりだろう。なんだか照れ臭いが、嫌な気分ではなかった。
家に着くまでがあっという間に感じた。玄関の前で交わされた言葉は、ほんの少し。
「濡れませんでしたか?」
「ああ」
「……よかった、それじゃあ僕はこれで」
「ああ、ありがとう」
たったこれだけ。それでも何だか優しい気持ちになれて、玄関の扉を開けて「ただいま」と言ったら、奥から駆け出してきた同居人に殴られた。
呆気にとられている間に、同居人はやいのやいのとまくしたて、しまいには泣き出してしまう。
「ばかばかばか! どうして何にも相談してくれないんだよ!」
その右手にはくしゃくしゃになった紙が握られており、ちらちらと見える文字は……嗚呼、思い出した。
それは同居人宛てに書いた手紙。端的に言えば、遺書だった。あの青年と出会った場所――海沿いの崖の上――から飛び降りるつもりだったから、同居人には今まで世話になった礼を伝えよう、と。
あの青年と出会わなければ、きっと飛び降りていた。今、胸に縋り付いて泣きじゃくっている同居人とも二度と会えなくなっていただろうと思うと、今更悲しくなって涙が出た。
頬を伝い滴り落ちる涙としゃくりあげる同居人の涙とで服が濡れて、ああ、折角雨には濡れなかったのに、とぼんやり思った。
《幕》