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自分探し?

作者: 六野 幸一


   自分探し?


                            六野 幸一



「突然だけどお父さん、今日からひきこもることにしたから」

 はあ? 何を言ってんだこの人は。

 久々に原島家の家族三人が揃った夕食、特に会話はなかったが、みなが食べ終わると突然、オヤジが言い出した。

「会社は辞めてきた。早期退職、てやつだ。退職金が割増しで出たから、それで住宅ローンは繰り上げ返済した。残りはこれだけだ」

 オヤジは預金通帳をハンコとカードとともに、テーブルに置いた。母は事態が呑み込めていないのか、ポカン、としたままだ。

「ローンを返し終わったら、もうたいした額は残っていない。でもこれで、由依の大学の、残りの学費には足りるだろう。あとは申し訳ないが、和枝、働いてなんとかやってくれ。由依も、学費以外はバイトでもして稼いでくれ」

 通帳を開いてみる。確かに、私の大学の、残り一年半の授業料には充分足りる。しかし一家の生活を支えてゆくにはきっと、全然足りないだろう。

 それにしてもどうしろというのだ。私はすでにバイトをしているから、別にかまわないが、母は結婚以来二十五年間、ずーっと専業主婦だ。天然だし、要領悪いし、どこかに勤まるとこがあるとは、到底思えない。「毎日ヒマだし、パートにでも出ようかしら」と以前、オヤジにも、私にも言ったことがあるが、誰も本気にしなかった。

「大学卒業から勤め続けて三十年。もう疲れた。限界だよ。悪いけど思うようにさせてくれないか」

 私達の目を見ず、他人事のように言うとオヤジは、返事も聞かずにそそくさと、奥の書斎に入って行ってしまった。リビングに残された私と母は反論するどころか、しばらくは言葉もなく、呆然としていた。


「ちょっと、あんなこと言ってたけど、どうすんの」

 長い沈黙の後、私は母に言った。黙ってはいそうですか、という話ではない。

「でも、辞めちゃったんならもうしょうがないでしょ。きっとお父さんも、いろいろあったのよ」

 うーん、やはりこの女、危機感がない。いろいろあったなんて、サラリーマンしてれば当たり前だろう。

「まあ三十年も頑張って働いてくれたんだし、しばらくは思うようにさせてあげましょ。私も外で働いてみたかったし」

 こうしてオヤジのひきこもりは、何ら話し合いされることもなく、簡単に決定してしまった。ま、そもそもひきこもりなんて本人が勝手にするもので、周りがどうこう言うようなものではないが。


 オヤジは書斎にこもり、一歩も出て来なくなった。トイレくらいは行っているようだし、私と母が寝ている時や出かけている時は、キッチンとかで何かをした痕跡はある。しかし顔を合わすことはなかった。

 もともと両親は十年以上も前に、オヤジのイビキか何かを理由に寝室を分け、オヤジは書斎に寝ていたし、そこにはテレビも、パソコンも有るから、日ながそこで過ごすことはできるだろう。あと、キッチンにあった電気ポットがなくなっていたから、それでお茶でも入れているのだろう。食事は、ドアの外に置いておく。一時間後くらいに見に行くと空になって、またドアの外に置かれている。いつもキレイに無くなっている。食欲はちゃんとあるようだ。

 しばらくは、以前と同じように過ごしていた母だが、一週間がたち、私の夏休みが終わり、私が家を空けることが多くなると重い腰を上げ、仕事を探し始めた。


 ある日、私が大学から戻ると、母がニコニコしながら話しかけて来た。

「由依、あのね、仕事、決めてきちゃった」

 聞くと、歩いて五分ほど、国道沿いにあるチェーン店のラーメン屋だという。野菜を炒めたのがどっさり乗っているのが売りの店で、昔家族で一、二回行ったことがある。私はけっこう好きだが、オヤジも母も、もっとあっさりした普通のラーメンがいい、と言っていたっけ。

 それにしても、母のようにおっとりとした、もっとはっきり言えばのろまな人に、飲食店など勤まるのだろうか。面接をした店長さんは口数が少なく、優しそうな人で、「まあ、そのうち慣れるでしょう」と言っていたとか。慣れですむような程度であってくれればいいのだが。


 結論から言うと、母ののんびりしたテンポは、やはり何かと忙しい飲食店には向いていなかったようだ。

 初日の午前中、接客用語(いらっしゃいませ、とかそういうの)を習ったり、メニューを覚えたりしているうちは良かったが、昼になり客が入り出すと店の雰囲気は一変。母の言葉を借りると、「戦場のよう」 だったと言う。ま、少し大げさな気もするが。

 とりあえず何もできない母は、周りが忙しそうに走り回る中、ただオロオロとしていたようだ。最初は洗い場をやらされた。洗い場といっても手で洗うのではなく、下げてきた器を、残りの汁はザルにあけ、割り箸や残飯は所定の場所に捨て、汚れのひどい物はサッと流した上で大きなケースに並べ、巨大な食器洗い機に放り込むだけなのだが、手が遅いうえにていねい過ぎて、山のようにたまった食器は、いっこうに片付かない。ついにはホール係のベテランのおばさんが入ってきて無言で割り込むと、猛烈なスピードで片付けていったという。それを見ていて、身の置き所が無かったそうだ。

 食洗機から上がって来た器を片付けるのがまた大変だった。そもそも所定の場所が分かっていないうえ、食洗機は熱湯で洗い、熱風で急速乾燥するため、上がって来た器はとてつもなく熱く、ヤケドしそうだったとか。それを持って片付ける場所を探してウロウロするのだが、厨房は大きな中華ナベや鉄のお玉、熱湯を滴らせた麺をゆでるザル(テボ、と言うらしい)、 それに包丁などがあちこちで振り回されていて、それをかいくぐらなければいけなかったとか。そして手には熱い熱い丼。それは確かに戦場かも。もっとも母のことだ。かいくぐったりはできずに、ボー然とただ見ていただけだったと思う。

 夕方帰って来た母は見るも気の毒なほどに憔悴し、手は真っ赤になっていた。軽くヤケドしたのかもしれない。これはすぐに、辞めると言いだすだろう、と、私は思った。


 しかし母は、案外負けず嫌いなのか、翌日も仕事に行った。厨房には不向き、という事にでもなったのか、ホール係に回されたが、注文を間違えるわ、持って行くテーブルを間違えるわ、おまけに水をこぼしてしまい、店内を大混乱に陥れる。

 主婦なら包丁は使えるだろう、と、キャベツの仕込みをさせられたが、確かにキャベツをキレイに切り分ける事はできた。しかしあまりにも時間がかかり過ぎてこれもダメ。結局掃除くらいしか役に立たないが、昼の忙しい時に掃除はやらない。店長さんもそのうち慣れるとは言ったものの、前途多難だと思ったろう。

 ただ、母が言うには、そうしたことよりも一番辛かったのは、ベテランのパートさんの存在だったそうだ。無口な店長さんは、厨房でひたすらナベを振っているだけで、店の中はその、六十くらいのオバさんがすべてを仕切っていた。そして母が、食洗機やキャベツと格闘していると、「ほらほら、そんなことじゃ日が暮れちまうよ」と言って割り込んできて、仕事を奪ってしまう。実際仕事はあっという間に片付いてしまうのだが、自分の無能さを必要以上に見せつけられている感じがして、とてもイヤだったそうだ。


 毎日ひどく疲れて帰って来ても、翌日にはどうにか仕事に行っていた母だが、二週間後にクビになった。帰ろうとした時、店長に呼び止められ、告げられた。「どうも原島さんは、この店とリズムが合わない」 とも言われたらしい。母は、あのオバさんに言われたに違いない、と言っていたが、私は、まあムリはないな、と思った。


 そこそこのお嬢様育ちだった母は、短大を卒業後、オヤジのいた会社に就職した。この地方都市では、まあまあ名の通った商社だ。そして三年間勤めたのち、オヤジに見染められて寿退社。それ以来、専業主婦ひと筋だ。三年勤めたと言っても、仕事はお茶くみとコピー取りに電話番程度。結婚したら退社するのが不文律だったというから、戦力ではなく、男性社員の結婚相手候補として採用されていたに違いない。

 そして二十五年間。私にはさして熱々の夫婦には見えなかったが、浮気や暴力に悩まされることもなく、貧乏も知らず、子供は私ひとりだったので、子育ても楽な方だったろう。幸せ、と言えばそうだが、ずっと温室にいたようなもの、と言えなくもない。その母にとって今回の件は、かなりショックだったと思われた。


 当分落ち込むかも、と心配したが、翌朝には母はもう、ケロッとしていた。意外に打たれ強いのか、それとも何も考えていないのか。「早く次の仕事見つけなきゃ」 なんて言いながら、さっそく求人誌のフリーペーパーを見ている。「飲食店はもうイヤだし」 とかなんとか言いながら検討している母を残し、私は大学に行くため家を出た。


 夕方家に帰ると、母が居なかった。訝しく思い、待っていると、程なく帰って来た。しかも、ドロドロに疲れて。

 朝、なんとなく気になり、求人誌にあった弁当工場に電話したら、すぐにでも面接したいから来てくれ、と言われた。そして行ったら面接もそこそこに即採用。できればすぐにでも働いてもらいたいと言われ、今まで仕事していたとか。なんとかミクスというやつのせいで人手不足、とは聞いていたが、相当ひどいみたい。

 それにしてもまた飲食。大丈夫かと訊くと、「お店じゃないから大丈夫」 と言い切った。ま、お客相手じゃなかったら、マイペースなこの人でもなんとかなるかもしれない。


 私と母との希望的観測は、やはり甘かった。この弁当工場も、二週間余りでクビになった。

 ジャガイモの皮をむいたり、キャベツを千切りにしたりとかの、仕込みの段階はまだよかった。(それでも遅い、としょっちゅう怒られていたようだが) しかし最後の、弁当を詰めるラインに入ると、どうにもいけなかった。台の上にズラリと並べられた容器に、各自がそれぞれ担当のおかずを、決まった量だけ詰めてゆく。納品時間が決められているので、みな物凄いスピードだ。母の言葉を借りると、殺気立っていた、という。その中で母は、急ぐと盛り方が悲惨なものに、きちんと盛ろうとすると時間がかかり、ラインは大渋滞。結局ここでも、クビになった理由は、リズム、だった。


「やっぱり食べ物を扱う所は、私には向いてないのよね」

 朝食時、リンゴをむきながら母が、のんきな口調で言っている。いや、原因はもっと違う所にあるんじゃ、と言いたかったが、やめた。この女、意外と人の話を聞いていないのでは、と、考え出していた。

 そして次の仕事も、すぐに決まった。今度は紳士服店だ。車で五分ほどの所にあるその店は、でっかい売り場を持つチェーン店で、スーツの他、若者向けのカジュアル衣料もたくさん置いてある。そこに面接に行き、またしてもその場で採用が決まったという。それにしても、ラーメン屋といい、弁当工場といい、この店といい、大丈夫なのだろうか。いくら人手不足でも、人を選ぶ時はもっと慎重に見極めた方が良いのでは? ま、私の言う事ではないが。もしかしたらお嬢っぽさの抜け切れていない、あのはんなりとした風貌にダマされているのかも。


 紳士服店の仕事は、飲食店ほど忙しくはなく、母のテンポには合ったようだ。一日中立ちっぱなしなのは応えるようで、足がむくみ、夜はサロンパスを貼っているが、仕事のほうはどうにかやっていけているみたいだ。最初の仕事は掃除と商品整理。お客が広げて見たりして乱れた商品を、ひたすら畳んでゆく。あとは入荷した商品を店長が指定した棚に並べたり、ハンガーに掛けたり。おそらくマイペースで、のんびりやっていそうだが、遅い、と叱られたことはまだないと言う。

 そのうちに、簡単な接客もするようになった。スーツとかは専門知識がまだないのでムリだが、商品のサイズ違いを出したり、ズボンの裾合わせくらいはできるようになった。この店では、ジーンズなど、ミシンで直せる物はその場で裾上げをするサービスをしているのだが、そのミシン掛けが上手だと店長からほめられたそうだ。当然だろう。母は洋裁が唯一の趣味で、私が小さい頃はよく、洋服とかを作ってくれていた。でもこの事を話す彼女はとっても嬉しそうだ。仕事をして、初めてほめられたのだろう。いや、そういえばオヤジも私も、母をほめるようなことは、長いこと言ってないと思う。もしかしたらほめられたこと自体、すっごく久しぶりだったのかもしれない。

 ほめられたことがモチベーションになったのか、母はかなり熱心になった。家でも、おそらく新入社員用の研修資料だと思われる、スーツの知識など書かれた冊子を読んだり、社員から借りてきた男性向けのファッション雑誌を眺めたりしている。

 店長は五十歳くらいの男性だが、なにかと優しく教えてくれるそうだ。そういえばこんなことも言っていた。品出しのスピードが上がらず悩んでいる母に店長は、ムリにスピードを上げようとせず、無駄な動きをなくすように、とアドバイスした。例えば左手に商品、右手にハンガーを持って掛ける時、最初に商品とハンガーの、どの部分を持つか決めておく。そうすれば持ち替える手間がなくなる分早くなる、と。「ただ急ぐんじゃなくて、何事も考えて行動しなくちゃダメねぇ」 と、感心したような顔で言っていた。


 オヤジは相変わらずだ。姿を見ることは無い。朝晩は食事をドアの外に置くが、昼はそれができない。しかしヤツは、誰も居ないのをいいことに、キッチンで買い置きのインスタントラーメンを作ったり、レトルトカレーを残りご飯で食べたりしているようだ。シンクに置きっ放しになっていた、私たちが使った食器が洗ってあることもあった。


 こんなオヤジだが、特に変人、ということはなかったと思う。凡人、とは確実に言えるが。会社人間だったが、たまには休日に遊びや、外食に連れて行ってくれたし、ごくごくフツーのお父さんだったと思う。ま、夫婦の会話は少なかったかも。話題も私の話ばかりだったような気がする。でも、どの夫婦でも、きっとそんなもんだろう。

 そういうわけで私も、年頃の娘にありがちな父への反発もなく、かといってベッタリでもなく、適度な距離感だと思っていた。しかし今回のことを考えると理由が分からず、実はオヤジのこと、何も知らなかったのかも、と思う。

 母はもう、外見的にはオヤジのことを、まったく気にしていないように見える。勤め先の飲み会とかで帰りが遅くなることも、たまにはあるようになった。飲み会では、母は店長のお気に入り、ということになっていて、いつも隣に座らされたそうだ。しかし店長は、プライベートでも仕事同様、優しかったという。


 いつもは一次会のみで帰っていた母だが、その日は店長にしつこく誘われ、たまにはいいか、と二次会に行った。しかし連れて行かれたオシャレなバーに他のスタッフは来ず、店長と二人きり。そこで母は、店長に口説かれた。店長にはもちろん、妻子がいる。母に夫がいるのも知っている。(ひきこもっているのは話してないが) それなのに臆面もなく口説いてきた。慣れぬオシャレなカクテルにフラフラしつつも、母は必死に店長を振り切り、逃げるように帰って来た。

 飲み会に行っても、いつもは十時過ぎには帰る母が、この日は十一時を過ぎても帰らないので、私は少し心配になり、リビングで待っていた。十二時近く、やっと帰って来た母は、リビングに入るなり立ちすくみ、私の顔を見ると、ポロポロと涙をこぼした。少し泣いて落ち着くと今夜のことを話したが、親切で、いい人だと思った店長の、その優しさは下心あってのことかと思うと、悲しかったようだ。ま、私に言わすと、何もなかったから別にいいし、これってモテた、ということだから、喜んでもいいんじゃないかと思う。


 母はその後も紳士服店に通ったが、店長は一度振られたくらいでめげるような人ではないらしく、逆になれなれしく、職場でも二人になるとまた口説いてきたり、身体を寄せて来たりする。結局母はその店を辞めた。仕事自体は気に入っていたので、とても残念そうだった。


 ラーメン屋が二週間。弁当工場も二週間。紳士服店は四か月。そしてその後も、母は職場を転々とした。スーパーのレジ打ちが半年弱。バーコードを読み込ませるだけなので母にもできたが、商品券を出されたり、取り消しがあったりなど、イレギュラーな事があるとパニクってしまい、対応が遅れる。〝研修中〟と書かれた大きな名札と、「研修中につき、お急ぎの方は他のレジにお並びください」 と書かれたボードは、ついに辞めるまで取れなかった。

 休憩時間の食堂も、なかなか怖ろしい所だったとか。オバさんたちは、豪快にタバコをふかしながら、大声でそこに居ない人の悪口を言い合っている。私も居ない時はいろいろ言われてるかも、と思うと、とてもじゃないがその雰囲気になじむことはできなかったと言う。男子社員など、怖くて食堂には入れず、倉庫のスミで弁当を食べていたそうだ。

 しかし辞めるのに決定的だったのは、冷え、だった。スーパーという所は、実は開けっ放しにした冷蔵庫を、何十台も並べているようなもので、低い所にその冷気がたまり、じっとしているレジ係は体が冷えて、どうにもならない。靴下を二重にしたり、スパッツをはいたりなどして、みな防寒対策をとっているが、元々ひどい冷え症の母はついに、耐え切れなかった。


 スーパーの次は書店に半年と少し。一見キレイな仕事に見えるが、これが一番重労働だったという。レジ打ちならいいが、品出しや返品作業はかなりの力仕事なうえ、作業量が膨大で、いつまでたっても終わらない。残業で帰りが遅くなることも多かった。さらにホコリで手は荒れるは、紙でよく手を切るは(これは痛い!) で、意外と辛い仕事だったようだ。

でも一番イヤな思いをさせられたのは、万引きだった。書店ではよくある事で、最大の悩みでもあるのだが、気の小さい母は目撃しても、怖くて何も言えない。なんでそんなことをするのか分からず、勝手に傷ついてしまう。その上それを社員に怒られたりもして、すっかりイヤになってしまった。そして私の卒業、就職を機に、書店も辞めた。


私の方は、オヤジにひきこもられても、日々、特に変わることはなかった。バイトもずっと前から、学校近くの進学塾でしていた。多少バイトに入る回数を増やしたくらいか。

あ、家事は、以前はすべて母まかせだったが、さすがに手伝うようになった。

彼に、オヤジのことを相談してみたが、「ふうん」 と一言、返って来ただけだった。もともと何に対しても他人事のように、あまり関心を示さない人だが。

彼は大学のサークルの先輩で、入学してすぐに付き合いだしたから、もう四年近くになる。大学院に進学したので、まだ学生だ。研究とか、実験は好きなんだろうけど、世事にはうとい。もう惰性で付き合っているようなものだが、きっとこのまま結婚するんだろうな、と思っている。

そして私はこの春から、住宅関係の会社に就職する。就活は少し苦戦したが、四年の春になってやっと、内定をもらえた。配属希望は営業部にしておいた。なんとなくフツーのОLはイヤだったから。



「やっぱり、貼り紙やフリーペーパーじゃダメね。ちゃんと職安行って探して来る」

 突然、母がそう宣言した。やはり事務職のような仕事がしたいのだろうか。そして意気揚々と職安(今はハローワーク、というらしい) へ行った彼女は、見事に打ち破れて帰って来た。

 確かに事務系の求人は、いくつかあった。しかしパソコンを使えず、簿記の資格も持っていない母は、どの会社も、面接すらしてもらえなかった。

「やっぱり私って、何もできないのね」

 落ち込む母に、

「今月から私も給料出るし、いい仕事見つかるまで、ゆっくり時間かけて探せばいいよ」

 そう声をかけるのが精一杯だった。

 それでも母は、数日間、ハローワークに通っていたが、ある日、あらたまった感じで、「相談があるんだけど」 と言い出した。なんでも、ハローワークのやっている、職業訓練校に行きたいと言う。お金はかからない。そして半年から一年くらいかけて、パソコン検定と簿記の二級を取りたいと言う。

「やっぱり資格なのよ」

 真剣な顔だ。

 私はもともと、給料の三分の一くらいは家に入れるつもりだったが、残りで結婚に備えた貯金もしたかった。しかしとりあえずは、貯金は後回しにして、母を学校に行かせてあげることにした。


 母は職業訓練校に通いだした。といってもハローワークに通うのではなく、提携している専門学校に通うのだが。毎朝弁当を詰め、それを持って出かける。どこか楽しそうだ。まわりは若い子ばかりだと言うし、どこか学生に戻ったような気分なのかもしれない。しかし家に帰ると寝るまでずっと、私が学生時代に使っていたパソコンを叩いているか、テキストを読んだり、練習問題を解いたりしている。あきれる程の熱心さだ。その集中した姿を見ると何も言えず、おかげで家事の大半は、私がやることになってしまった。

 そしてついに、半年とちょっとで、母はパソコン検定と、簿記の二級の試験に合格してしまった。


 資格を取ったせいかどうかは分からないが、母はいくつかの会社の面接を受け、そのうちの一つ、会計事務所に就職が決まった。今度はパートでなく、正社員である。

 片倉会計事務所というその会社は、五十代半ばくらいの会計士の先生と、あとは女の人ばかり四人。全員が主婦で、みな二十年以上勤めているベテランばかりだ。先日一人が体調を崩して退職し、それで求人を出したとか。

 母は新人ということで、最初はクライアントに書類を届けたり、伝票を預かって来たりといったお使い仕事や、あとは単純なパソコン入力のような仕事ばかり与えられた。しかしなかなかに忙しく、母も一生懸命やっているようだ。オバさんばかりということで、ラーメン屋やスーパーのこともあるし、少し心配だったが、みな優しくしてくれると言う。


 ちょうどその頃、家の中でオヤジの姿を目撃した。会社から帰った時、トイレにでも行っていたのか、慌てて書斎に入るオヤジの、後姿だけが見えた。そしてその後頭部は、キレイに刈り込まれていた。今までそんなこと、気にかけたことはなかったが、ひきこもっているなら、髪は伸び放題のはずだ。自分で切っているのか? いや、それにしてはキレイに刈り上げられていた。

 遅れて帰って来た母にこのことを話すと、さして驚いた様子もなく、

「あ、やっぱり」

 と言った。会っているのか、と訊くと、それはないと言う。ただ、リビングのテレビの横、公共料金の請求書やらハンコやらを入れてある箱があり、その中に千円札を五枚、封筒に入れていつも入れて置くのだが、それがたまに減っているので、その都度補充していたとか。書斎のドアの外にたまに出されているゴミ箱に、買った覚えのない食料品の空き箱が入っていることがあるので、誰も居ない時に出かけて、買い物くらいはしていると思っていた、と言っている。

「なにそれ。そんなひきこもりってある? ただサボってるだけじゃない」

 頭にきてそう言うと、

「外に出れるんならそのうち、前のように戻るでしょ。無理強いしちゃダメよ」

 涼しい顔で言った。まったくこの女、寛容なのか、危機感がないのか。もしかしたら今の状況が、意外と居心地いいのかも。いや、きっと深く考えてないだけであろう。


 会計事務所の仕事は、母には向いていたようだ。もともと一つのことを、コツコツ集中してやるのは得意だ。イレギュラーにいろんな事が飛び込んでくると、すぐに許容量を超え、パニクってしまうので、飲食店やスーパーなどは、もともと無理があったのだらう。

 その日あったことをその日のうちに、洗いざらい私に対して喋るのは以前からだが、ここにきてそれが明らかに増えた。特に、片倉先生の話が多い。先生には、時に厳しく叱られることもあるが、その場合でも何がいけなかったのか、どうすればいいのかをちゃんと説明してくれるので、分かりやすいと言う。そして、出来た時は、きちんとほめてくれる。これって、人を教え、使う時の基本だと思うが、できている人はなかなかいないのだろう。私の上司もひどいもんだ。営業部の成績が良いと威張りちらし、悪いと部下を怒鳴りちらし、おまけに頭はハゲちらかしている。皆、陰では〝ちらしずし〟と呼んでいる。

 会計事務所の、四人のオバさんたちからは、別にいじめられるようなことはなく、熱心に仕事を教えてくれるそうだ。まあ、ベテランの抜けた後の補充、ということで、早く戦力になってもらわないと困る、ということもあるのだろう。


 そうこうしているうちに年末になり、会計事務所でも忘年会が開かれた。一次会は高級和食。カニ鍋がことのほかおいしかったとか。そして太っ腹なことに、先生がすべての勘定を持ってくれたという。私の会社の、営業部の忘年会は、チェーン店の安い居酒屋で、しかもワリカンだったというのに。

 二次会はオシャレなバーへ。(我々はカラオケボックスだった) 他の四人のオバさんは全員主婦ということで、顔だけ出してすぐに帰り、先生と二人だけになった。紳士服店の店長と二人になった時はあんなにいやがったのに、こっちは平気なようだ。

 もちろん先生は口説くようなことはせず、業界の裏話やら、仕事とは関係のないいろんな話、たとえば趣味の音楽の話などしてくれて、とても楽しい時間を過ごせたと言う。けっこう酔って帰って来て、いつもより大きな声で話す彼女は、とっても嬉しそうだった。それと驚いたのは、先生は十数年前に奥様を、病気で亡くされていて、独り暮らしだということ。「家事なんかどうしてるんだろう」 と、やたら心配していた。そのへんのとこは、話で聞く分には几帳面そうな人だし、ま、大丈夫なんじゃないかと思う。


 年が明けると、母の帰りが遅くなる事が増えた。そしてあまり、その日にあった事を、話さなくなった。飲み会、と言っているが、オバさんばかりの職場でそんなにひんぱんにあるわけがない。問い詰めると、やはり先生と二人で行っていた。まあ先生も、独り身なら一人で夕食を食べるよりも、母なんかでも相手がいた方がいいだろうし、べつにあやしい感じでもなさそうなのでかまわないだろう。家のほうも問題は無い。オヤジの食事など、ヤツが出歩いている事が分かってからというもの、私も母も、目立ってテキトーになっていた。

 先生は仕事の事でも何でも、親身になって相談に乗ってくれるそうだ。それで母は、ついオヤジのひきこもりを相談してしまった。先生は、会社でよほど大きなストレスがあったのではないかと同情してくれたが、出歩いているなら、さほど病的なものではないと言っていたそうだ。病的なひきこもりなら、外部との関係性が怖くてしょうがないので、外出どころか部屋から出るのさえ恐ろしいはずだと。そして、何かきっかけがあれば、意外にすんなり出て来るとも言った。私もそう思う。ただ、そのきっかけが難しい。


 それからしばらくは、平穏な日が続いた。私の方は、営業企画室に抜擢されて、週末のイベントの企画や運営を、やらせてもらえるようになった。やりがいはあるが、ムチャクチャ忙しくなり、正直、オヤジや母どころではない。しかしそんなある日、母の言った一言に、私はぶったまげた。

「あのね、由依。お母さん、父さんと別れて、片倉先生と一緒になろうと思うの」

 一瞬何を言っているのか分からなかった。あまりにもいきなりすぎて、言葉も無い。そりゃあんなオヤジじゃ、離婚されてもしょうがないだろう。でも片倉先生とって、一体いつの間にそんな事になっていたのか。しかも、「そろそろストーブをしまって、扇風機を出そうと思うの」 みたいなノリで、あっさり言われた。だがまっすぐ私を見るその目は、相談を持ちかける時の目ではない。

「オヤジには話した?」

「ううん、まだ」

「プロポーズはされたの?」

「うん。こないだ。遠まわしに、だけど」

 うーん。やはり自分の中で決めてしまった上で話しているようだ。

「ちょ、ちょっと待ってよ。はいそうですか、どうぞ、なんて即答できる話じゃないよ」

「そうよね。それで一度、先生に会ってほしいんだけど」

 てな分けで、三人で食事をすることになってしまった。場所は、まさかひきこもりの居る家に招くことはできず、近くの、ちょっと高級っぽいフレンチレストランに、次の金曜の夜、と決まった。


 待ち合わせの時間に行くと、二人はもう席につき、私を待っていた。ピアノの生演奏が入っていて、かなりハイソな感じの店だが、週末のせいかけっこう客がいてにぎやかだ。でもそのほうが、個室なんかより気詰りでなく、話しやすいかも。

 初めて見た片倉先生は、意外にフツーのおじさんだった。ハゲでもデブでもなかったが、もっとダンディーな人を想像していたので、正直ちょっとがっかり。堅苦しくなり過ぎないように配慮したのか、ジャケットは着ているが、ノーネクタイだ。

 会話は、はずまなかった。先生はあきらかに緊張しているし、私もなかなか言葉が出ない。ひとり母だけが、「あ、これおいしい」 だとか 「どうやって調理してるのかな」 とか話している。私は食も進まず、ワインばかり飲んでいた。

 一旦中座してトイレに。鏡を見ると、顔がかなり赤い。別に酔ってはいないが、この顔色なら、思い切って訊きたいことを口に出せるかもしれない。小さく気合を入れて、席に戻った。

「あの、先生。ズバリ訊いてもいいですか」

「はい。何なりと」

 母が、えっ、という顔で私を見た。かまわず続ける。

「面接して母を採用したのって、好みのタイプだったからなんですか? あるいは、先生独身だし、こうなることを見越して、とか」

「ちょっと、由依、やめなさい」

 先生は小さく手を上げて母を制すると、毅然として言った。

「それは絶対に違います」

 柔和な顔つきは崩していないが、目は真剣だ。

「確かにあの時、君の母さんを含め、六人の応募があった。面接をして、その中から原島さんを選んだのは私です。しかしその時の基準は、真面目で、ひたむきな努力のできる人。あと、他の会計事務所とかで勤務経験のある人は、仕事に手癖が付いている事があるので、それは避けたかった。そういう意味で彼女を選んだんです。まあ最初のうちは、手は遅いし、ミスは多いし。仕事上の知識も足りないので、正直困ったな、て事もあったけど、原島さんはひたむきに努力して、課題をひとつひとつクリアしていってくれた。そうして仕事人としての信頼関係がまず、できあがったんです」

 先生はその後、滔々と語り続けた。話はうまいし、分かりやすくはあるが、中年男性にありがちで長く、くどい。要するに、仕事上のよきパートナーとして、何でも話せるようになった。感情的なものが入るようになったのは、オヤジのひきこもりを相談されてから。でも自分の気持ちをうまくぶつける事はできず、ずいぶん時間がかかった。しかし母のこれからを思い、思い切ってプロポーズしたことも。そして付け加えた。

「旦那さんはね、きっと責任感の強い人じゃないかと思うんです」

 は? 責任感の強い人がひきこもったりする? それになんで唐突にオヤジの話?

「仕事上のストレス、人間関係の疲れ、他にもいろんな事があったんだろうけど、ずっと守って来たあなたたち二人を守り続ける事が出来なくなった事が辛いんじゃないかと思うんです。それで顔を合わせられない。ですからあなたたちが家を離れることが、あるいはひとつのきっかけになるかもしれない。そこで由依さん、あなたも独立してみたらどうです、アパートでも借りて。敷金くらいなら私が」

「いえ、そろそろ彼と二人で住もうかと話していた所なのでそれは」

 急に話を振られてあせった。でもそうかもしれない。先生の言う通りだとしたら、私たちに依存している形の今の生活が良くないのかも。

「病的なひきこもりではないようなので、一人になれば出て来ざるを得ないでしょう。それで旦那さんが出て来てくれれば、あらためて話し合いをして、離婚とか、入籍とかはそれから考えればいいと思うんです」

 いや、先生。この人の心はもう決まってるよ。と口元まで出たが、それは言わないでおいた。

 確かに、多少荒療治ではあるが、そうするのがいいかも。要はきっかけだ。それに私も彼から、早く一緒に住もうとせっつかれていたが、母が心配で先延ばしにしていたのだ。

 こうして私達の移住は、あっさり決まった。移る先はどちらも一人暮らしなので、他に面倒はない。


 翌日、母は書斎の前で、閉ざされたドアに向かい、長い間話していた。私のこともついでに話すよう頼んでおいた。話の内容は聞かないことにしたが、やはり母が一方的に喋っているようだ。そして話し終えた母は、一枚の書類をドアの前に置いた。自分の分を書き終えた離婚届だった。

 翌朝、ドアの前にその書類は置かれたままだったが、そこにはオヤジの署名があり、ハンコが押されていた。

 その日のうちに、片倉先生と私の彼、それぞれが車で迎えに来た。私たちは着替えなど、身の回りの物だけをまとめ、家を出た。最後に母は、書斎のドアの前に、オヤジがひきこもり宣言をした時に受け取った通帳を、ハンコとカードと共に置いた。残高は、ぜいたくしなければ、一人なら半年くらいはやっていける程度だったと思う。



 その後、何度か家に寄った。別にオヤジのことが心配だったわけじゃない。身の回りの物だけ持って出たので、何かと取りに行く必要があったのだ。ま、少しは気がかりだったのは確かだが。母は必要な物があると、メールで私に知らせてくる。しょうがないからついでの時取りに行き、届けてあげる。

 オヤジは、相変わらず書斎にこもっていることもあるが、居る気配がなく、どうやら出かけているらしい時もあった。


 三、四ヶ月後くらいだったろうか、家に、昔買ったCDを取りに行った。休日の、夕方だったと思う。その日は家に、人の居る気配はなかったが、玄関から出ようとした時、入って来たオヤジとはちあわせした。

「よう、久しぶり。元気か」

 オヤジはぎこちなく喋りながらリビングに入ってゆく。私は、このまま帰るのは悪いような気がして、あとに続いた。

 久しぶりに見るオヤジは、別人のように日焼けしていた。ひきこもっている時は真っ白だったはずなのに。まさか、ゴルフ三昧?

 私がジロジロ見てるのに気付いたのか、オヤジは、

「焼けただろ。今、警備員のバイトしてんだ。ほら、道路工事とかで旗振ってる人」

 そう言いながら冷蔵庫を開け、缶ビールを二本出した。一本はテーブルに座る私の前に、もう一本は立ったままプシュッ、と開け、うまそうにグビリ、と飲んだ。私もビールを開ける。オヤジは少し離れたソファーに、背を向けて座った。


「今回のことは、お前と母さんには悪かったと思ってる」

 しばらくの沈黙の後、オヤジが重い口を開いた。

「捨てられたのに、悪かった、なの?」

「まあそれより先に、俺がお前らを捨てたようなもんだからな」

 オヤジはポケットからタバコを出し、一本取ると、火を点けた。他しか十年以上前に禁煙したはず。また喫いだしたのか。テーブルの上の灰皿には、かなり吸殻がたまっていた。オヤジは、喫うか? てな感じでタバコの箱をこっちに向けた。黙って首を振る。

「ま、今は一生懸命やってるよ。交通整理といっても、ただ旗振ってりゃいい日もあるけど、信号なんかからんだ現場はけっこう大変なんだ。モタモタしてると運転手に怒鳴られるし、スムーズに流すのは、けっこう頭、使うんだ」

「そう。でもそれより訊きたいんだけど、なんでいきなり、ひきこもっちゃったわけ?」

 オヤジはゆっくりとビールを飲んだ。言葉を探しているようにも、気を落ち着けているようにも見えた。

「何から話せばいいか…。長くなってもいいのか?」

「うん」

 この際、ちゃんと聞いておきたい。

「父さん、前の会社で総務部長だったのは知ってるよな」

 黙って首を振る。どんな役職かなんて気にしたこともなかった。オヤジは少し寂しそうな顔をしたが、続けた。

「人員整理をすることになってな、海外事業の失敗とか、いろいろあって。いや、それはどうでもいいか。ま、それで希望退職者を募ることになって、父さんがそれを任されたんだ。人事は総務部の管轄だから。人数が決められたが、それ以外にもいろいろと制約が入った。分かるか?」

 また首を振る。

「つまりだ。こういう場合、退職金が割増しで支払われるから、若くて、大きな戦力になってるヤツが応募してくるんだ。そういうヤツなら転職もしやすいからな。しかし会社としてはそういう戦力の流出はできるだけ避けたい。年喰って、高い給料もらってる割に役に立たないヤツを辞めさせたいわけさ。分かるだろ」

 今度はうなずく。よく分かる。ウチの会社にもそんな人はいる。

「ところがそんなヤツは、つぶしが効かないのを自分でも分かってるから、なかなか退職には応じない。そこで父さんは、一人ずつ呼び出しては、辞めるように説得したり、辞めないように慰留したり。会社で話せる事じゃないから、毎日のようにいろんな人を飲みに連れてってた。あの頃は毎日、帰りが遅かったの知ってるだろ」

「それって、いつごろ?」

「ひきこもる一年くらい前かな」

「全然知らなかった」

 オヤジはまた寂しそうな顔をし、二本目のビールを取りに行った。

「お前も要るか?」

「まだいい」

 今度はテーブルの、私の隣りのイスに座り、話を続けた。

「まあいい。これはけっこう辛い作業だったよ。特に辞めさせる方な。アンタにはもう会社に居場所は無い、みたいなこと言って諭すわけだ。でも長いこと一緒に仕事してきた仲間だし、相手の家族のことなんかも全部分かってんだ。浪人中の息子がいるとか、ボケはじめた親がいるとか。でも会社としては、やり遂げないといけないのはじゅうじゅう承知してるし、なんとかやったよ。数人、戦力の流出はあったけど、大体計画通りになった。で、最後の一人に、父さんが応募したんだ」

「なんで」

「なんでって、それは父さんなりの責任の取り方だよ。仲間の首を何人も切って、それで父さんだけ無事って訳にもいかんだろう」

「それでひきこもったの」

「いや、この時はまだ心が折れてない。折れたのは、もっと後だ」

 オヤジは二本目のタバコに火を点けた。話はまだまだ続きそうなので、私も二本目のビールを取りに冷蔵庫に。ついでにローテーブルの上の灰皿をオヤジの前に置く。冷蔵庫の中は、食材が少しと、大量のビールが入っていた。

「驚いたろ。仕事から帰ってビールを飲むのが、一番の楽しみだ。第三のビールだけどな」

 私が座り直し、ビールを開けるのを待つようにして、オヤジは続けた。

「まずひとつショックだったのは、辞めるのを告げた時、社長も、周りの人も、誰一人引き留めてくれなかったことかな。ああ、そうですか、てな感じでさ。三十年勤め上げたのはいったい何だったんだ、と思ったよ。それに俺が辞めたら、仕事上困ることがいっぱいあるだろうに」

「で、折れたと」

「いや、まだだ。この時点では父さん、楽観視してたんだな。総務、経理、財務、会社の運営に必要な事のすべてに精通しているという自負はあったし、再就職先くらいあるだろう、と。ところが人材登録会社に行っても、職安に行っても、知り合いに当たっても、どれも全然ダメだった。…この頃父さん、毎朝同じように家出て、会社に行かずに職探ししてたんだ。気付かなかったろ」

 うなずく。ていうか、まったく気にしていなかったんだけど。

「仕事は、いっこうに決まらないし、たまに求人があっても収入は半分以下かもっと下だし、そこそこ給料のいい所はブラックで悪名高い会社の営業だったり。要するに今時は、営業のスペシャリストとか、個人で顧客をいっぱい持ってるとか、デリバティブみたいな特殊な金融商品に詳しいとか、すぐにカネを稼いで来れる人しか必要とされてないんだ。ホワイトカラーの管理職なんて、もう要らないんだよ」

 オヤジはビールをグビグビと飲んだ。テレビのバラエティー番組とかでよく見る、罰ゲームで飲まされる苦いお茶でも飲んでいるみたいな顔つきだった。

「自分がまったく必要とされてない。お前たちにもこれまで通りのことをしてやれない。そう考えたら、お前らの顔を見るのが怖くなった」

「それでひきこもっちゃったわけ?」

 一瞬考えるような顔をしたオヤジは、ポツリ、と言った。

「ま、そうだな」

 二人、しばし無言でビールを飲んだ。でもまだ、訊きたいことがある。


「で、どうだった? ひきこもってみて」

「うん。とことん腐っちゃお、って思ったんだよな。そのほうがまた、力が湧いてくるような気がしてな。それに正直、母さんに外の仕事が勤まるとも思えなかったし、音を上げたらその時出て行って、今度は給料安くても、仕事を選ばず何でもやろうって。でも母さん、意外と頑張り屋だったんだな」

「そうだね。あの人は、意外に打たれ強いというか、肝が太いというか、自分のことなのにどこか人ごとのように受け止めているというか」

「単に負けず嫌いなんじゃねえか? 以前はそんなとこがあるなんて、思ってもみなかったけど。でもな、頑張ってる母さん見てたら、いや、見てないけど。実は、書斎の窓から母さんが出かける時の後ろ姿がちらっと見えるんだ。なんかけなげで、でも日々成長してるっていうか、自身つけているように見えて。まるで親目線だよな。なのに俺は、って考えちゃうと、ますます出にくくなって」

「でもたまに出てたでしょ」

「知ってたか。そりゃずっと部屋ん中も気詰りだよ。髪とかひでえことになるしな。母さんがお金を置いといてくれて、ホント助かった」

「でもよく鉢合わせしなかったよね」

 オヤジがニヤリと笑った。

「お前らの行動パターンは読めてた。毎日手帳に、それぞれの出かけた時間と帰って来た時間を付けてたんだ。そうすりゃ絶対二人ともいない時間が曜日ごとにわかる」

 げー、気持ち悪っ。そこまでするかよ。


「そういや腹、減ったろ」

 そう言うとオヤジはキッチンに立ち、冷凍うどんをチンした。ありあわせの具材を刻み、ザッと炒めて焼うどんを作る。なかなか手際もよい。

 二人でまたビールを開け、食べる。味は少ししょっぱかったが、ビールのつまみだと思えばまあよい。思えばオヤジの作るゴハンなんて、初めてかもしれない。以前は母が、外出もあまりせずに家に居て、すべての食事を作っていた。多少体調が悪くても。

「で、どうだったの? 離婚の話された時。ドアの向こうで聞いてたんでしょ」

 いい具合に酔ってきて、何でもズバズバ訊ける。

「そりゃ驚いたよ。でもまあ、しょうがないっつーか、なんか予感のようなものはあったんだ。見てなくても、母さんがなんか変わってってるのは分かったし」

 そうかなぁ。私にはさほど感じられなかったけど。

「俺がこんなだからしょうがない、てのもあったけど、辛いのと同時になんかホッとした、というか、うまく言えないけど、これで全部無くした。もう出てゆくしかない。て感じかな」

 ふむ。片倉先生の読みは当たっていた訳だ。

「嫉妬とかは?」

「うーん。特には。二十五年も一緒にいたから、もう夫婦というより家族、て感じで、男女間の感情みたいのは無くなってたかもな。もう娘を嫁に出すみたいな感覚だよ。もちろん母さんを失うのはやっぱ悲しいけど、由依、お前を嫁に出して悲しいと思うのと同じようなもんかも知れん」

 そんなもんだろうか。そういえば二人がケンカしてるとこも、アツアツのとこも、あまり見た記憶はない。オヤジにとっては、娘が二人居るようなものだったのだろうか。

「それよりな、由依。お前に彼氏がいて、大学一年の頃から付き合ってたって話。あっちの方がよっぽどショックだったよ。全然知らなかったし。何で言ってくれなかった」

「だって訊かれなかったもん」

 オヤジは黙ってしまった。

「言わなかったのは悪かったよ。でも言うきっかけって、なかったんだよね」

「ま、そうか。父親にとっては聞きたくない話だしな。あーあ、娘は結局、父親から離れていっちゃうんだよな。…で、結婚するのか?」

「そういうことになると思う」

 また寂しそうな顔になった。

「そっか。悪いな。父さん何もしてやれなくて」

「いいよそんなの。結婚式とかもハデにやる気ないし、友達とかと内輪でやるから」

「まあ考えてみれば、お前もいい年だよな。あーあ。子供はいつまでも子供でいてくれないんだ」

 またワケの分からないことを言っている。


 その後もいろいろ話したが、内容はほとんど憶えていない。父さんも頑張るよ的なことは、しつこく言ってた気はするが。いつの間にか焼酎に切り替わり、二人ともずいぶん飲んだと思う。

 そして私は、元々の私の部屋に泊まり、目覚めた時はもう、オヤジは仕事に行った後だった。



 この後はもう、たいした話はない。オヤジは、コンビニやら飲食店やら、いろんな所でバイトしている。

 母は片倉先生と、仲良くやっているようだ。こないだ私がオヤジと長い話をしたことは、全部母に話した。母はあまり感情を表に出さず、淡々と聞いていた。そして母は先生に話し、先生は母を通して、話し合いをしよう、とオヤジに。しかしオヤジは、「そんなのいいよ」 と言って、会わなかったという。こうして離婚届は、やっと提出された。婚姻届が出されたのは、もう少し後になる。 

 仕事上では、事務所内での母の立場がビミョーなんじゃないかと心配したが、「先生にいい嫁さんを!」 が、みんなのコンセンサスだったらしく、わりと好感を持って受け入れられているみたいだ。母のあの、ボーっとした人柄は、きっと敵を作りにくいのかもしれない。


 思えばこの一連の出来事は、母にとっての自分探しだったのかもしれない。(~の旅、は付けない。カッコつけの自称旅人みたいになるから。そういえばあの人、めでたく自分を見つけられたのだろうか) 五十がらみの女に何を、と言われるかもしれないが、オヤジがひきこもる迄、母は自分について、何も考えていなかったような気がする。

 そしてオヤジも、自分探しを始めた、とも言えよう。一度つぶれた自分だから大変かもしれないが、だからこそ可能なこともあるかもしれない。


 えっ、私?

 自分のことは分かんない。あ、でも私にも一つ変化があった。実は、彼と、別れることにした。

 付き合いだして、もう六年以上。特に何かが不満、ということはない。ただ、一緒に暮らしてみると、付き合っている時には分からなかったことも見えてくる。変にキレイ好きだったり、妙な癖を発見したり。でもそれが別れた原因じゃない。

 私の家の事とか、私自身の事を話しても、わりと他人事のような態度をとる人で、しつこく干渉されるよりいい、と思ってたんだけど、そういう感じがふと、オヤジに似ているような気がしてしまったのだ。ずっと前に、女の子は無意識に父親に似た相手を選ぶ、と聞いたことがあり、その時はそんなバカな、って思ったんだけど。

 それと学生時代は、大学なんて世間が狭く、彼氏がいると誰も言い寄って来なかったが、社会に出ると、そんなこと遠慮しないヤツがいっぱいいる。別に誰かに心惹かれたとか、好きな人ができたなんてことは全然無い。でも会社の営業部の、がさつでデリカシーはないが、バイタリティのある連中を見ていると、彼の事が少々食い足りなく思えてきたことは事実だ。ま、彼には悪いけど。

 別れを切り出した時も彼は、淡々と受け止めていた。「由依の心の中のボクが、ずっと前から薄くなっているような気がしてた」 とも言っていた。それは多分、当たっている。正直、仕事のほうを優先してたし。

 おかげで、修羅場のひとつもなく別れられたのは楽だったんだけど、でも、もし泣いてひきとめられたら、一体私はどうしただろう?


 というわけで今は家に戻り、オヤジと二人で暮らしている。と言っても私は仕事で帰りが遅く、オヤジも不規則な時間で働いているので、顔を合わすことはあまりない。家事も、お互い自分のことは自分でやっているので、単なる同居人、て感じ。


 さて、長々と語って来たこの話。一つの家庭の崩壊を語ったはず。でも結果的に語られたのは、二人の人間の再生、だったような気もする。ま、もしそうだったらいいな、と思う。


                          〈終り〉




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