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点睛を欠いてしまった男の話

作者: まどか風美

 しんしんと雪の降り続ける無彩色に明るい世界と、長い間の関わりで人と馴染んだ木造の小部屋との間にあって、木枠の小窓は静かに氷の結晶を育てている。

 この作業場のドアがゆっくりと、年老いたそれの意向に添って開かれた。重い軋みが、青年の耳や掌を時間をかけてくすぐっていく。彼は、光沢は失われていないものの、実際には彼よりも長生きしているケトルを右手に持っていた。塞がってない手でもって、同じ時間をかけて、再び老ドアの世慣れた小話に付き合い、微笑する。

 部屋の片隅では鉄塊のようなストーブが赤々と燃やされ、暖めれど暖めれどなお我が仕事楽にならざり、じっと床に揺れる炎の影を見ながらも、結局は律儀に、人が滞在できるくらいまでにはちゃんと部屋を暖めてくれていた。彼は、身を切るような冷水で満たされたケトルを、そっとストーブの天板に置く。一瞬、彼の足の甲の上で、炎の影が違ったパターンを見せた。

 小窓が自身を覆っていく薄氷へ子守歌を歌っている。その窓に面しては作業用の大机が置かれている。座面や背もたれの布地がそこで汚れ、あそこですり切れた、けれどがたつきはまだ一つも無い椅子に手をかけた時、彼は小窓の子守歌を見詰めていた。椅子を引き寄せながら腰を落とそうとしている時には、その事を忘れかけていた。そして卓上の蛍光灯を点して手元を照らせば、もう完全にこれからのことに気持ちが切り替わっている。


 彼はドールアイ、すなわち人形用の義眼を成形し、光を入れる仕事に取り掛かろうとしているのであった。もっとも、仕事と言っても、彼の場合はアマチュア創作家としてのそれであって、一般的な道具と材料、手法であれこれ工夫して、余技を揮っているということだった。そう聞けば、素朴な作品でしかなさそうな彼のドールアイである。しかし、実の所は、彼の生み出すものは多くのドール愛好家たちを魅了していた。それは、愛好家たちが思いを込めるドールにとっての、まさに「点睛」なのであった。


 彼は両手に息を吐きかけ、中途だった作業を再開する。自然に近い明かりに照らされた厚手の画用紙には、幾つもの彩色された小円が描かれていた。ドールアイの黒目の部分、つまり虹彩と瞳孔に当たるパーツである。彼は絵筆を取り、角膜になるパーツと同じ直径に区切られた小円の中に、新たな虹彩のパターンを描こうとした。けれど、筆を持つ指先には決意が満ちているようなのに、肝心の筆先の方は、何故だか一向に下ろされない。

 彼は逡巡しているのだ。彼をこの度の創作へと駆り立てた、今はまだ、この世界からは隠されている「あのひと」の瞳。それは、誰もが出会ったことのなく、それでいて誰もが親愛と畏敬、活力を感じ得るものであり、彼の心のどことも分からぬ場所に突然八重の花と開き、竦んだ彼の両目を裏側から射抜いて去って、万言を費やすよりも明らかに、彼の手から生まれ落ちたいと切望していた。そのような、今は全く形無く、けれど確かに存在しているものをこの世界へ連れ出すために、彼はもう、幾度となく失敗を重ねているのだった。

 こういう時、彼はいつも、心の運動と身体の運動とが必ずしも一致しない、一種の不連続性を意識してしまう。彼の心がどのようにか動いて、その跡が彼に見えたのが「あのひと」の瞳だったろう。けれど、その運動を筆を持った手の動き、つまり身体の運動に翻訳しようとすると、たちまちその不出来に失望させられるのは何故なのか。彼の心の運動も身体の運動も、彼には半身と半身の間柄と言っていい、しかし何故か、少なくとも彼にとっては、両者は自身の中で他人のようである、いつもばらばらで思うままがすんなり形になるのを妨げる。心の動きっていうのはある程度は不随意の運動で、手の動きは随意運動だよな、その辺の違いが…彼ははっとして頭を振った。今はそんなことに気を取られている場合ではない。

 そう、このように行き詰まった場合、どうすれば行きたい彼方へ跳躍できるのか、経験を通じ彼は彼なりに学んでもいるはずなのだ。こんな時は、不安や迷いは認めた上で、とにかく手を動かし続けるしかない、彼はそう理解している。飽かず手を動かし続けることが、彼が内に見出した像、彼が外に表しつつある像、やがて両者がぴたりと重なり合う、奇跡の瞬間に出会う唯一の方法と思えるのである。彼は大きく息を吸った。ゆっくり、時間をかけて呼気を繋ぐ。さあまたやり直しだ、「あのひと」の虹彩の色味は? 陰影は? 揺れ方は? どれくらい潤んでいた? 長く引く呼気が、彼の記憶のひとつところをぱらぱらとめくり、戻し、まためくると繰り返す、やがて「あのひと」の目が香り立つほどに記憶の濃くなるその時が訪れて、続いた呼気は決まって止まる。ぐうと喉を鳴らし彼は一先ず絵筆を置いた、使用する絵の具の再考が必要なように思えたのだ。色鉛筆、水彩絵の具に油絵の具、豊富も豊富に取り揃えられた絵の具のうち、ではどれを用いればこの瞳を画用紙に写し取れるのか? 突然、彼の右手が閃いた。迷わず一本の色鉛筆を引き抜いていた。


 身を切るようだった冷水が、白く残る跡を気に掛けながらも、いつしか忍び足でケトルから逃げ出しつつある。この間も彼は、心象の正射影をきっと得たい、絵の具の種類を変え、それらの濃さや盛る厚みを変え、無論パターンの描き方そのものも幾度となく変更して、限られた時間の中それが本当に彼一人の仕事なのか、とにかく驚くべき数の虹彩を愚直に描き続けていた。また新しい虹彩パターンの一組が、生と死、あるいは正と否、本来なら相反する極端を輪と繋げたまま現れる。彼はこれからこの輪を切って、最終的に、どちらでもある在り方のどちらか一端を摑まなければならない。右手はもう長時間の描画に微かに震えだしている、それを励まして、新しいパターンにドールアイの角膜になる樹脂の半球を被せた。続けてペンライトを点灯し、その細い光と一緒に、一組の半球を真上から見下ろす。ところが、そうやって透明硬質なドームの奥を覗き込んで直ぐである。全く唐突に、ペンライトを持つ彼の右手が、疲労とはまた理由を異にするような不自然な震え方をし始めた。添えて押さえつけようとしたか跳ね上がった左手は、しかし途中でゆっくりと握りしめられ、どんっ、と机に振り下ろされる。重く垂れ込めていた黒雲を力強く切り裂いて、輝く彼の表情が覗きつつあった。


 机上から彼を見詰め返していたのは、紛れもない「あのひと」の瞳だった。生まれつき左の虹彩の方が僅かに縦長なところも、色味では反対に右の方が少し薄めなところも、全く申し分が無い。それら虹彩に丸く囲まれた空所ではあるが、無論価値ある空所として彼が描いたのが瞳孔である。今、その一対の受光窓が、ペンライトの光を受けた瞬間にはすっとすぼまり、光がよけられれば、やはり滑るように元の直径へと広がってみせたのだった。彼が、一時も忘れずに丹精して夥しい数の虹彩へと描き・塗り込み続けた、瞳孔括約筋と瞳孔散大筋が、やっと有機組織として織り上げられた証拠だった。そして、瞳孔のこのような光の強弱に対する反応は対光反射と呼ばれ、人の生死の判定にも用いられる。ああ。言い表しようのない喜びを、彼はその溜息に込めた。生き始めたのだ。「あのひと」の瞳が、遂に彼の手の中で生き始めたのだ。


「あのひと」の瞳が生き始めてみれば、自分はやはり心象の正射影をこの世界へ連れ出して来れたのだ、彼は益々確信する。角膜の硬い樹脂は、半球状を維持するため最外の薄層だけは元のまま、内部では次第に充塞から空虚へと後退して眼房水の再分泌を促すようで、「あのひと」の瞳が生じさせる微妙な陰影や揺れ方さえも、今では記憶に尋ねるまでもなく実物で確認できるのである。しかし、手順としては、次の作業を速やかに行う必要に迫られていた。眼房水が満ちつつある空虚の底は瞳孔である、急いで蓋をしなければ液体が流出してしまう。蓋は、無論自然のありようのまま虹彩の裏側から水晶体がすべきであった、そして彼が企図するそのレンズは、「あのひと」の目をそれたらしめる必須の要素群、すなわち既に彼女自身が維持し始めている角膜や虹彩、今はまだ不足し、彼がなお続けて発生させなければならない残りの要素、それらの間の全ての結び付きに適切なピント合わせをしてもくれるだろう、その拡張されたレンズ機能は、「あのひと」の目がなんら矛盾の無いひとつとしてこの世界に場所を占めるために、ともすれば引き受けられないほどの気力を要求されかねない彼にとって、心強い助けとなってくれるはずだった。

 彼の手には白色のオーブン粘土が適量取られている。球形に整えられようとしているこの市販の焼成粘土は、扱おうとする要素自体の微細さ脆さに、それらを関係の網目に据える手順の厳密さに、彼が戦慄を覚えながらも、一方では大胆に一気呵成の発生→成熟を目論むもの、例えば強膜から始まって外側から順次包んでいく膜の各層、あるいは内包される水晶体・硝子体・視神経・視細胞…そのような、今もって「あのひと」の目には足りず、故に望まれて然るべき全てを含む卵であり、しかし、そうと言うからには当然未分化の一塊なのである。分化開始の正しい引き金として、この卵には何が受精すべきだろう。目はそもそも、光という現象に対する生命の応答であった。重力と共に、大気の・水の・圧と共に、生命の好むと好まざるとによらずそれを浸し洗い続けてきた光、やはりそれこそが、目の最大の進化圧であろう。

 彼が周到に準備した卵には、系統発生を繰り返す能力すら内に練り込まれている。そして、いよいよ増して炯々とする彼の光がこれに発生の繰り返し、あるいは進化を促し、やがては個、即ち無二の「あのひと」の目を生じさせるのだ。彼の光が、彼女の瞳孔を通って少しずつ卵の内に浸潤していく、万に一つの間違いも起こらぬよう、何者も・自分ですら乱し得ないマイペースで進化を促していく、すると、莫大な回数の取捨選択が数瞬の間には済んでいて、彼の光という胎盤が「あのひと」の目を育み始めている。成長の段階はちょうど〔眼房水が・硝子体が〕嵩を増し瞳孔の縁から〔零れ落ちようとするところ・溢れ出そうとするところ〕、時を同じくして水晶体は〔光学を瑞々しく自身に具え終え・不随意筋の襞の間に吊り終えられ〕、〔零れ落ちるものには底蓋・溢れ出るものには吊り天井〕となって流体を押し止め、次には具えた柔らかさの理由を誇示するか、滑らかに厚みを増したり減らしたり、吊り具の細い糸の束を仲立ちに、不随意筋と息の合った動きを見せ始める。

 こういったことが起こっている間、彼の光は頻りに「あのひと」の目から遠ざかったり近付いたりを繰り返している。彼女の水晶体がいつしかその往復運動に応じるようになっていた、彼の光が調整されて、彼女の眼底に常に焦点を結ぶようになっていた。このように彼女が「見る」という行為に気付き始めると、それまでは硝子体に鈍く洗われるだけだった不毛の眼底に、一斉に濃密な気配が満ち始める。適切な光が当たることで確率の密度が俄に高まったのだ、それらは自身の確からしさを絶対にまで蹴り上げる力として雨と降る〔日光を・月光を〕待ち望んでいた、具合良く明暗も伴う彼の光の、〔日光派は明を機会とし・月光派は暗を機会とし〕、双方力強く〔錐体を・杆体を〕、在るとだけしか言えぬよう芽吹かせた。不毛の地に生じた命は、育つとなれば爆発である。錐体・杆体は自身を急速に成熟させつつも、水平には両者密に連なり合って層となり、垂直にも勢いを持続させて、それらに繋がる視神経層の広がりを花と開かせていく。


 冷水だったものは、最早もうなんの気兼ねもなく、賑やかに出立を祝い合いながら虚空へ続々と旅立っている。そして、今となっては関わる物事と一致してしまっている彼だった、故に例えば粘土の焼成にいつも使用している有り触れたオーブントースター、彼はその耐熱ガラスの嵌まった扉を、あるいはワット数やタイマーの設定つまみを、当たり前に彼のこととして随意運動させられるものの、一方で他人の出立などは、他人事以上に感知できなくなっている。


「あのひと」の目をそれたらしめる要素として、当然熱も必要だろう。彼は親鳥とはなれないが、自分の延長に託して彼女を安らかに暖めている。その熱を彼女は次第に自身の体温としていく、こうして彼女が彼の手から少しずつ離れだして、彼にも始めて気付くことがある。どうも彼女の平熱は高めのようである。更にその目は瞳孔と網膜を結ぶ方向に真球よりもやや細長く、これつまり、彼女は近視だったのである。彼女が体温を一定に保つようになってきた、換言すれば、彼女は自分だけで生きられるようになってきた。その目はもうただの受光器に非ず、彼女≒彼の光を宿し・閃かす発光器でもある。その光は彼女が、彼の光の胎盤から受け継いだものだった。もう間も無く、彼と彼女は決定的な分離を経験するだろう。しかし両者の絆も、また決定的に残るのである。光という遍く在り続けるものに編まれ、何によっても切られよう無く。絆は、残るのである…


 湯の盛んに沸く音が、耳障りに過ぎた。よくこんな環境で集中できてたな。彼は憮然として思う。

 目の奥が締め付けられるようでやり切れなかった。冷たい掌を瞼に押し当てようと両手を持ち上げれば、今度は肩や首筋に電流が走る。彼は遂に気力を使い果たした。投げやりな様子で椅子の背もたれに体重を預け、胸に淀んだ息を陰鬱に吐き出す。

 加熱の強さと時間、どちらかの設定を間違えたか。いや、両方か…暫くぼんやりと天井を眺めた後、彼はのろのろと立ち上がる。取り敢えず、ケトルの湯をどうにかしよう。

 彼は、あと一歩というところで、創作の綱渡りから足を踏み外してしまった。

 過熱のため白の粘土部分が焦げ、変色してしまった彼のドールアイ。オーブントースターの暗がりから、紙に描かれた虹彩を彼のしおれた背に向けている。


(了)

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