↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

妹が「何の価値もない」と婚約破棄されたので、兄弟三騎士が全力で分からせに行ったそうです。

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/10/27

連載版に先駆けての前日譚です。

「婚約破棄をして欲しい」


 放課後の帝国学院。その一角にある小さな談話室へ呼び出されたアリス・ウェールズは、婚約者であるセドリック・アシュフォードの口から告げられた言葉を、すぐには理解できなかった。細長い窓から西日が差し込み、古びた長椅子の背へ影を落としている。廊下を行き交う生徒の足音は少なくなり、壁際の古時計が刻む音ばかりが、妙にはっきりと聞こえていた。


 入学から三年目を迎えたアリスは、この部屋を何度か使ったことがあった。雨の日に友人と昼食を取ったことも、試験前に教科書を広げたこともある。座ると沈みすぎる椅子と、立てつけの悪い窓には不満があったが、嫌な場所ではなかった。今日のことを思い出さずにこの部屋へ入れるようになるまで、どれくらいかかるのだろうと、まだ返事もしていないうちから考えてしまった。


「……理由を聞いても?」


 セドリックは少し緊張した様子で頷いた。栗色の髪を丁寧に撫でつけ、制服の襟飾りも真っ直ぐ結んでいる。同じ三年生の彼は、教師の問いには積極的に手を挙げ、将来は帝国騎士団へ入るのだと話していた。アリスはその目標を応援していたし、卒業まで一緒に過ごすものと思っていた。膝の上で固く組まれた彼の指を見て、今日の話をするために、前から準備していたのだと気づいた。


 嫌いになったわけではない。喧嘩をしたわけでも、ほかに好きな令嬢ができたわけでもない。将来を真剣に考えるようになり、家同士が決めたという理由だけで結婚まで進んでいいのか、疑問を持ったのだという。自分たちが納得して相手を選ぶべきではないか。そこまでならアリスにも理解できた。けれど、セドリックはそこで話を終わらせなかった。


「君の家が素晴らしいことは分かっている。君の兄上たちについても、本当に尊敬しているよ」


 兄たちの話が出た途端、アリスは背筋を硬くした。名前を告げれば、三人のうち誰かについて尋ねられる。それは学院へ入ってから何度も経験してきたことだった。大会での活躍を褒められれば嬉しかったし、兄の妹なのだと胸を張ることもあった。だが、婚約を終わらせたい理由の途中で持ち出されると、次の言葉を聞くのが怖くなった。


 ウェールズ伯爵家は、帝国でも少し特殊な家だった。初代は平民の剣士であり、戦場で皇帝の命を救った功績によって爵位を授けられた。その子孫も代々剣を磨き、戦争や反乱が起これば最前線へ赴いてきた。帝国が危機に陥った時、最後に頼られる一族として、いつしか『帝国の懐刀』と呼ばれるようになったのである。


 現在のウェールズ家には、四人の兄妹がいる。二十歳の長兄レオンは、六年制の学院の最上級生だった。背が高く、制服を着崩すこともなく、騒いでいる下級生のそばを通るだけで廊下が静かになる。寡黙で冷静な剣士として教師たちからの信頼も厚く、卒業後の騎士団入りはほぼ確実視されていた。次期当主として父の仕事まで手伝う兄を、アリスは幼い頃から誇らしく思っていた。


 十九歳の次兄カイルは五年生で、レオンとは対照的に少々やんちゃだった。襟元を緩め、教師に叱られた直後には別のことで笑いを取っている。だが、困っている後輩を放っておけず、新入生を教室まで送り届けて自分が遅刻するような兄でもあった。友人はどの学年にもおり、彼と廊下を歩くと、目的地に着くまで何度も立ち止まることになる。


 十八歳の三兄ルークは四年生だった。負けず嫌いの天才肌で、兄二人に追いつこうと暇さえあれば剣を振っている。アリスとは二歳違いで、幼い頃からよく一緒に遊び、そのぶん遠慮なく喧嘩もした。自分は妹をからかうくせに、他人が同じことをすると不機嫌になる。アリスがその不公平を指摘しても、俺は兄だからいいのだと、少しも説明になっていない答えが返ってくるばかりだった。


 三人の下に生まれたアリスは、今年で十六歳になる。百年以上ぶりの女児として家族から大切にされてきたが、兄たちほど突出した剣の才能はなかった。勉強も作法も苦手ではなく、大抵のことは平均以上にこなせる。それでも、講堂で名前を読み上げられたり、教師がほかの生徒へ手本にするよう勧めたりするほどのものは、自分には見つからなかった。


 家族は誰も責めなかった。兄たちも、アリスに同じような剣士になることを求めていない。それなのに、大会で兄の名前が呼ばれるたび、嬉しくて拍手をしながら、自分はいつまで客席にいるのだろうと考えた。そんなことを思ってしまう自分まで嫌になり、誰にも話せずに胸の奥へしまってきた。


「でも、君は違うだろう?君も何もできないわけじゃない。でも、特別なものがあるわけでもない。剣術も学問も普通より少し上くらいだ。だから考えてしまったんだ。ウェールズという名前がなかったら、君には何の価値が残るんだ?」


 アリスは唇を開きかけ、何も言えずに閉じた。怒りよりも先に、隠していたものを見つけられたような恥ずかしさが込み上げた。セドリックは答えを待っている。意地悪を言ったという自覚もないらしく、彼女が考えを整理するのを待つように、真面目な顔をしていた。


 試験勉強を手伝ったことはある。提出物を忘れそうなら教え、友人と揉めれば話を聞き、剣について悩んでいれば兄たちへ相談した。けれど、それを長所として挙げることは思いつかなかった。婚約者なら当然のことで、彼が求めているのは、もっと人に誇れる何かなのだろう。そう考えるほど、膝に置いた手を見られることさえ嫌になった。


「……分かったわ。婚約破棄は受け入れるわよ」


 それ以上ここにいたくなくて、アリスは鞄を取った。両家への説明は帰ってから考えればいい。椅子を引く音が大きく響き、セドリックが何か言いかけたが、聞き返すことはしなかった。廊下へ出て扉を閉めると、ようやく息が吸いやすくなった。そのまま玄関へ向かい、帰りの馬車まで誰にも会わずに済むよう願った。


 その願いは、階段の踊り場で早くも叶わなくなった。数人の友人と話していたカイルがこちらを見つけ、笑みを消したのである。普段なら遠くからでも名前を呼ぶ兄が、今日は何も言わずに歩いてきた。アリスは顔を伏せるのが遅すぎたと悟り、鞄の持ち手を握り直した。


「どうした?」

「何でもないわよ」

「何でもない顔じゃないだろ」


 そう言われても、話すつもりはなかった。カイルはしばらく妹の顔を見ていたが、無理に聞き出そうとはしなかった。友人たちへ片手を上げて別れを告げ、そのまま隣へ並ぶ。背後で一人が何か言いかけたものの、兄が軽く首を振ると、すぐに口を閉じた。


「俺も帰る」

「約束していたんじゃないの?」

「なくなった」


 どう考えても今なくしたのだろう。追及する元気もなく歩き出すと、玄関の手前でルークと鉢合わせた。稽古帰りらしく袖を捲った兄は、カイルと並ぶアリスを見て、最初は不思議そうに眉を上げた。ところが顔を覗き込んだ途端、立ち止まってしまった。


「アリス。お前、顔どうした?」

「今日は帰るぞ。質問はあとだ」

「いや、絶対何かあるだろ。泣いたのか?」

「泣いてないわよ」

「だったら何でそんな顔してるんだよ」


 アリスが睨むと、ルークはさらに何か言おうとして、カイルに背中を押された。校門ではレオンまで現れた。兄二人と一緒にいる妹を見るなり、何も尋ねず同じ馬車へ乗り込んでくる。三人とも予定があったはずなのに、その話をする者はいなかった。アリスは窓の外へ顔を向け、向かい合った兄たちが目配せするのを見ないふりでやり過ごした。




◇




 屋敷へ戻ってからも、アリスは婚約の話を切り出せなかった。夕食の席では何度も同じ皿を見つめ、好物の料理まで残してしまった。食後、自室へ向かおうとしたところでカイルに呼び止められ、小談話室へ入ると、残る二人もすでに座っていた。暖炉では薪が燃え、卓には紅茶が用意されていたが、寛げる雰囲気ではなかった。


「今日、何があった?」


 昼間より真剣な顔をしたカイルに聞かれ、アリスは扉の近くで立ち止まった。レオンに椅子を示され、諦めて腰を下ろす。三人とも続きを急かさないので、黙っている方が難しくなった。膝に目を落としてから、小さく息を吐いた。


「……婚約を解消することになったの」

「アリスは納得しているのか?」

「……仕方ないじゃない」


 立ち上がりかけたルークを、レオンが視線で止めた。カイルは腕を組んでいたが、婚約を終わらせることそのものに怒ってはいないようだった。その反応が少し意外で、アリスは次兄の顔を見た。


「お前がそれでいいなら、俺たちがどうこう言う話じゃないな。相手だって、結婚したくないのに無理やりってわけにはいかないし」

「でも急すぎるだろ。何で別れるんだよ」


 ルークの問いに、アリスは視線を落とした。言いたくなかった。口にした途端、兄たちまで同じことを考えるのではないかという、馬鹿げた不安さえあった。そんな人たちではないと知っているはずなのに、昼間の言葉を自分の声で繰り返すのは、思った以上に苦しかった。


「私には……価値がないんだって。ウェールズという名前がなかったら、何の価値も残らないって。兄さんたちはすごいけど、私は何も特別じゃないからって」


 ルークの指が椅子の背へ食い込んだ。カイルの口元から笑みが消え、レオンは膝に置いていた手をゆっくりと動かした。暖炉の薪が爆ぜた音にまで驚いてしまい、アリスは自分の肩へ力が入っていることに気づいた。


「セドリックがそう言ったのか?」

「……そうよ」

「ちょっと待て。あいつ、自分でそれ言ったのか?」

「そうだって言ってるでしょう」

「いや、確認したくもなるだろ。あいつ、俺に何回剣の相談をしてきたと思ってるんだよ」


 カイルは額を押さえた。いつもならすぐに出てくる冗談もなく、何か言いかけては飲み込んでいる。その横でルークが扉を見たので、アリスは先回りして首を振った。兄が考えていることくらい、長年一緒に暮らしていれば分かる。


「俺、今から行っていい?」

「駄目よ」

「まだ何も言ってないだろ」

「顔を見れば分かるわよ。絶対ろくなことを考えていないでしょう」


 ルークは不満そうに座り直した。カイルも何かを思いついた顔をしていたので、アリスはそちらにも釘を刺した。二人を叱っている間は、セドリックの言葉を考えずにいられた。普段は腹立たしい兄たちの分かりやすさに、今夜は少しだけ助けられていた。


「カイル兄さんも。余計なことしないでよ」

「俺、何も言ってないぞ?」

「レオン兄さんもだからね」

「何もするとは言っていない」


 三人とも、何もしないとは答えなかった。気づいていたが、それ以上問い詰める力は残っていなかった。アリスは父へ話してくると告げて立ち上がり、扉のところでもう一度振り返った。兄たちは妙に行儀よく座っていた。その様子を疑うには、今日は疲れすぎていた。


 その夜、アリスが眠った頃、三兄弟は同じ部屋へ集まっていた。紅茶は冷め、暖炉には新しい薪が足されている。妹が座っていた椅子を一度見てから、ルークは向かいへ腰を下ろした。アリスがこの場にいれば即座に止められただろう予定を、彼は挨拶代わりに口にした。


「明日殴りに行く」

「お前、さっきからそれしか考えてないだろ」

「それ以外あるのか?アリスにあんなこと言ったんだぞ」

「学院で殴ったら、お前が怒られるだけで終わるだろ。最悪、アリスからも嫌われるぞ」


 最後の言葉が効いたらしく、ルークは口を閉じた。だが、納得はしていない。カイルを睨み、次にレオンへ顔を向ける。長兄は弟の怒りを否定せず、卓の端に置かれたカップを奥へ寄せた。


「腹が立つかどうかと、殴るかどうかは別だ」

「俺だって腹立ってるよ。婚約をやめるだけならいい。でもさ、『何の価値もない』まで言う必要あるか?」


 三人とも覚えていた。ルークに負けたあと、一人で庭に残って木剣を振っていた小さな妹を。カイルの優勝を喜んだ帰り道、自分にも何か一つあればいいのにと零した横顔を。レオンが騎士団から声をかけられた時も、誰より喜んだあとで、自分は将来何をするのだろうと呟いていた。気にする必要はないと言っても、妹の顔から不安が消えないことを、兄たちは知っていた。


「しかも、あいつはアリスに何もしてもらってないと思ってるんだろうな」


 カイルは椅子へ深く座り直した。セドリックと話すようになった日のことは、よく覚えている。妹が珍しく遠慮がちに、婚約者が先輩と話してみたがっているのだと頼みに来たのだ。自分の頼み事ならもっと気軽に口にするのに、彼のことになると、何度も都合を確かめてきた。


「俺とあいつが話すようになったのだって、アリスが連れてきたからだぞ。剣の相談も、最初はあいつじゃなくてアリスが頼みに来た」

「俺だって、自主練に何回も付き合った。アリスが、悩んでるみたいだから見てやってくれって言うから」

「それで何の価値もないって言うなら、一回アリス抜きでやってみりゃいいんだよ」


 ルークが顔を上げた。カイルは、今後はわざわざ上級生の集まりへ連れていかないし、剣の相談もほかの後輩と同じにすると続けた。レオンも異論を挟まなかった。妹が引き合わせた相手を気にかける理由は、すでになくなっていた。


「あいつ、騎士団の推薦のことも周りに話してるぞ」

「俺は一度も推薦すると言っていない」

「だよな。そこも、ちゃんと言った方がいい」


 話がまとまりかけたところで、カイルが壁の暦を見た。上級生が下級生を指導する合同稽古が、翌日の欄に書き込まれている。ルークもその視線を追い、先ほどまでとは違う顔になった。剣の話になると考えが早いことは、普段なら褒められる長所だった。


「……そういや明日、合同稽古だな」

「セドリックも騎士志望だったよな?」

「だったら俺たちが親切に稽古をつけてやっても、問題ないんじゃないか?」

「それなら殴っていいのか?」

「木剣でな」

「ほぼ同じだろ」

「学院公認かどうかは大きいぞ」


 ルークの機嫌が目に見えて直った。レオンは二人をしばらく見ていたが、説教を始める代わりに、冷めた紅茶を一口飲んだ。長兄が止めないことを、弟たちは極めて都合よく受け取った。


「……骨折さえさせなければいい」

「レオン兄さんが一番怒ってないか?」

「騎士にとって、稽古は必要だ」


 レオンはそれだけ告げて立ち上がった。カイルは口元を押さえながらその背を見送り、ルークは明日の指導順まで考え始めている。三人のうち誰か一人くらいは止めてくれるだろうという妹の期待は、暖炉の前で静かに裏切られていた。




◇




 翌朝の食卓で、三人の兄はあまりにも普通だった。レオンは新聞を読み、カイルは欠伸をしながらパンへ手を伸ばし、ルークは授業の課題に文句を言っている。アリスは順番に顔を見てから、ナイフを皿へ置いた。いつもなら気にならない光景なのに、今日は三人とも演技をしているように見えた。


「……昨日の話、覚えてる?」

「何の話だ?」

「余計なことしないでって話よ」

「もちろん覚えてるぞ。兄を信用しろよ」


 ルークが笑いかけ、慌ててパンを口へ入れた。レオンは新聞を読んでいるが、同じ頁を随分長く眺めている。アリスは最も話が通じそうな長兄へ、最後の望みを託した。


「レオン兄さん。二人を止めてよ」

「善処する」

「それ、一番信用できない返事じゃない!」


 午後になって、その予感は的中した。石造りの校舎に囲まれた剣術場で、セドリックは三兄弟に声をかけられた。周囲では木剣が防具を打つ音と、教師の掛け声が響いている。カイルはいつもの人懐こい笑顔で近づき、逃げ道を塞ぐつもりなどないように、彼の前で足を止めた。


「セドリック。今日は俺たちが見てやるよ」

「……三人ともですか?」

「贅沢だろ?」


 近くの生徒は羨ましそうだった。担当教師まで、レオンが一緒なら安心だと頷いている。セドリックは笑おうとしたものの、ルークが木剣を手の中で回しているのを見て、頬を引きつらせた。断る理由を探しているうちに、レオンから構えるよう指示が出た。


 まずレオンが構えを見た。次にカイルが実戦形式で動きを確認し、最後にルークが相手を務めた。受け損ねれば木剣が防具を打ち、足を止めればすぐに指摘が飛ぶ。休憩も水も与えられたが、息が整う頃には誰かが次の課題を持ってくる。教師は途中で一度様子を見に来て、実に熱心だと感心して去っていった。


 詳しい内容を、のちにセドリックが誰かへ語ることはなかった。三人とも随分と丁寧だったという話だけが残った。どれほど丁寧だったかといえば、翌朝、彼が全身の打ち身と筋肉痛で学院を休んだほどだった。知らせを聞いたアリスは、午前の授業が終わると、談話室へ向かった。




 ◇




 雨のため、談話室は昼休みを過ごす生徒で混み合っていた。暖炉のそばでは新聞を広げた生徒が議論し、窓際では誰かが課題を書き写している。その奥に三人の兄を見つけ、アリスは卓の前へ立った。レオンが本から顔を上げ、ルークが食べかけの菓子を皿へ戻す。カイルだけが、来ると思っていたという顔をした。


「……何したの?」

「稽古をした」

「それは聞いたわよ。全身打ち身で寝込んでいるらしいんだけど?」

「骨は折れてないから大丈夫だろ」


 ルークの返答に、アリスは額へ手を当てた。レオンは平然としているし、カイルは笑いを堪えている。近くの生徒が聞き耳を立て始めたことには気づいたが、今は場所を移すより、三人を逃がさずに話をさせる方が大事だった。


「そういう問題じゃないでしょう!」

「でもレオン兄さんが、骨折はさせるなって言ったから」

「レオン兄さん!?」

「加減はしていた」

「止めてないじゃない!」


 カイルが堪えきれず吹き出し、椅子の背へ体重を預けた。前脚が浮き、アリスがそちらを睨んだ、その時だった。背後から伸びた手が、兄の耳をつまんだ。カイルの笑顔がたちまち引きつり、椅子が四本の脚で床へ戻った。


「全く、カイルったら!お行儀悪いわよ!」

「分かった。分かったから耳を引っ張らないでヴィオレッタ」


 そばに立っていたのは、カイルの婚約者、ヴィオレッタ・フォン・クラウゼンだった。艶のある髪を丁寧にまとめ、制服の襟も袖口もきちんと整えている。腕には図書室へ返す本を抱えていたが、婚約者の不作法を見過ごして通り過ぎる気はなかったらしい。耳から指を離すと、今度は彼の曲がった襟を直した。


「椅子を傾けないよう、昨日も言ったでしょう」

「覚えてるよ」

「覚えていて、またしたの?」

「……忘れてました」


 ルークが顔を背け、レオンまでカップを口元へ運んだ。ヴィオレッタはカイルをもう一度見てから、アリスへ何があったのか尋ねた。説明が始まると、カイルは何度か口を挟もうとしたが、そのたびに婚約者の視線に止められた。アリスは、こんなに簡単に兄を黙らせる方法があったのかと感心した。


「腹が立つのは分かるわ。でも、妹さんが嫌がることをしては駄目でしょう」

「分かったよ。もうやらない」

「今回だけ?」

「今回だけ。約束する」


 カイルは両手を上げ、レオンとルークへも頷いてみせた。二人とも異論は口にしなかった。アリスが何度尋ねても曖昧だった答えが、こんなにあっさり得られたことには、少し納得がいかなかった。


「ヴィオレッタさん、兄さんが約束を忘れたら、お願いしても良いですか?

「ええ、もちろん!任せて」

「アリス。兄を売るなよ」


 カイルが黙り、アリスもとうとう笑ってしまった。ヴィオレッタは満足したように本を抱え直し、椅子は四本の脚で立たせておくよう言い残して出ていった。次兄はその背を見送ってから、大人しく姿勢を正した。ルークが何か言おうとすると、今度はカイルが睨んだが、弟の笑いを止めるほどの効き目はなかった。




◇



 それ以降、兄たちはセドリックへ何もしなかった。むしろ、何もしなくなった。学院へ戻った彼は、最初のうちはその変化を気に留めなかった。廊下でカイルを見つけると、これまでと同じように近づき、剣の相談を持ちかけた。


「カイル先輩。この前相談したことで――」

「ああ、悪い。今日は約束があるんだ。またな」


 カイルは普通に笑い、友人たちと去っていった。別の日、上級生の集まりへ近づいても、目が合えば片手を上げるだけだった。以前なら席を空け、隣の生徒へ紹介してくれたはずである。嫌われているのかと考えたが、挨拶をすれば返ってくる。ただ、大勢いる後輩の一人になったのだ。


 ルークにも自主練を頼んだが、今日は無理だと断られた。明日はどうかと聞けば、自分の練習があるという。木剣を片づける背中へ、セドリックは思わず、以前のことを持ち出した。


「前はよく付き合ってくれたじゃありませんか」

「アリスに頼まれてたからな」


 ルークは振り返り、当たり前のことを答えたという顔をした。セドリックが黙ると、そのまま練習場へ戻っていく。教わっている間、自分はルークに認められているのだと思っていた。そこにアリスの頼みがあったことを、彼はほとんど考えていなかった。


 数日後にはレオンから呼び止められた。騎士団への推薦の件だと言われ、一瞬期待した。だが長兄は手に持っていた書類を脇へ寄せると、ほかの生徒が通り過ぎるのを待ってから、静かに口を開いた。


「俺がお前を推薦すると周囲へ話しているそうだな。そんな約束はしていない」

「でも、婚約していた頃は……」

「婚約していた頃もだ。必要なら、自分の実力で評価を得ろ。鍛錬を続けることだな」


 責める口調ではなかった。それがかえって堪えた。セドリックは、ウェールズ家との繋がりを将来の予定へ当然のように入れていたことに気づいた。アリスへ家名がなければ何が残るのかと尋ねながら、自分はその家名に助けてもらうつもりだった。


 失ったものは兄たちの支援だけではない。試験前になっても、アリスは苦手な範囲をまとめた紙を持ってこなかった。提出物の締切も教えてくれず、授業で使う資料も自分で覚えて持ってくる必要があった。忘れ物をして鞄を探った時、以前なら前日に声をかけてもらえていたことを思い出した。


 友人と揉めても、自分で話をつけるしかない。相手の言い分を確かめる前に怒ってしまい、あとでアリスに話を聞いてもらっていたことが、何度もあった。一つずつは小さなことだった。だが、それを全部引き受け直してみると、彼女が何もしていなかったのではなく、自分が数えていなかったのだと分かった。


 一方、アリスにも変化があった。図書室で友人の相談に乗ったあと、助かったと礼を言われた。以前、仲違いした二人の話を聞いた時も、同じような言葉をかけられたことを思い出す。大したことをしたつもりがなく、これまでは軽く受け流していた。


「私は、話を聞いただけよ」

「それをしてくれる人がいなかったのよ」


 友人は本を閉じ、当たり前のように答えた。アリスはしばらく返事を考え、やがて、役に立てたならよかったと口にした。相手が嬉しそうに頷くのを見て、そう受け取ってもよかったのだと、少し不思議な気持ちになった。大したことではないと否定する必要まで、自分にはなかった。


 別の日には、勉強を教えた後輩が試験の結果を見せに来た。廊下で一緒に答案を覗き込んでいる間、その子は一度も兄たちの話をしなかった。アリスに会うために待っていたのだと分かると、帰りの足取りが少し軽くなった。大会で名前を呼ばれる時とは違うのだろうが、これも嬉しいことだった。




 ◇




 セドリックが謝ろうと決めた頃には、別の問題が生じていた。アリスを見つけても、近づく前に兄の誰かと目が合うのだ。レオンは廊下の先で静かに立ち、カイルは横から現れ、ルークに至っては、こちらへ来るなと顔全体で伝えてきた。


「お、セドリック。どうした?」

「……いえ、何でもありません」

「そうか。じゃあまたな」


 カイルは笑顔だった。いつもなら親しみやすいはずの笑顔が、今は妙に恐ろしかった。翌日、中庭でルークと目が合って引き返したところをアリスに見られ、ようやく兄たちの行動が妹にも知られた。帰宅後、三人はまた談話室へ呼び集められた。


「……あなたたち、何をしているの?」

「何もしてないぞ?」

「レオン兄さんはずっと見てるし、カイル兄さんは毎回近くに現れるし、ルーク兄さんなんて普通に睨んでるでしょう!」

「俺は隠してないからいいだろ」

「よくないわよ!」


 ルークは首を傾げた。隠していなければ許されると、どこで覚えたのだろう。カイルは直接邪魔をしたわけではないと言い始め、レオンまで黙っているので、三人とも同じような考えらしかった。アリスは腕を組み、一人ずつ顔を見た。


「じゃあ明日から全員、近づかないで」


 三人が揃って口を閉じた。その反応で十分だった。アリスは深く息を吐き、セドリックとは一度だけ会って話を聞くと告げた。ルークが反対しかけたが、その前に自分で決めることだと言い切った。


「また変なことを言われたらどうするんだよ」

「その時は自分で断るわ」

「何かあったら呼べよ」

「呼ばないわよ。というか来ないでよ。レオン兄さんも」

「分かった」


 珍しく素直な返事だった。アリスは少し安心したが、翌日の放課後には、その安心を返して欲しくなった。中庭で待つセドリックの少し向こうに、三人ともいたのである。レオンは木のそば、カイルは壁際、ルークはベンチに座っていた。三人とも別々の場所にいるところが、かえって腹立たしかった。


「……何でいるのよ」

「離れてるだろ?」

「そういう問題じゃないって!」


 カイルは肩をすくめた。追い払いたかったが、セドリックがすでに待っている以上、兄たちとの口論を続けるわけにもいかなかった。あとで話があるからと三人へ告げ、アリスは元婚約者へ向き直った。彼は兄たちを一度見てから、姿勢を正した。


「……謝りたかった。君に価値がないなんて言ったこと、本当に間違っていたと思ってる。離れてから分かったんだ。僕がどれだけ君に助けてもらっていたのか」


 アリスは黙って聞いた。セドリックは兄たちとの付き合いや勉強のことを挙げ、何度か言葉を詰まらせた。あの談話室で、自分の考えを順序よく説明していた時とは違う。うまく話せないことを取り繕わず、彼女がしてくれたことを、一つずつ思い出しているようだった。


「ずっと当たり前だと思っていた。でも、当たり前じゃなかった。本当に悪かった」


 頭を下げられ、アリスは鞄の持ち手を少し緩めた。謝って欲しいと思っていなかったわけではない。傷つけられたことを間違いだったと認めてもらえて、ようやくあの日の話を終えられる気がした。けれど、セドリックは顔を上げると、もう一つ言葉を続けた。


「もし許してもらえるなら、もう一度婚約をやり直したい」


 ベンチの方でルークが動いた。すぐにカイルが肩を押さえ、レオンが短く何か言ったらしい。アリスはそちらを見ず、セドリックの顔を見つめた。今度は、答える言葉がなかったわけではなかった。どう伝えるかを、自分で選んでいた。


「私に価値があると分かったから、もう一度婚約したいの?」


 セドリックは口を開きかけ、何も言わずに閉じた。アリスは責める言葉を重ねずに待った。兄たちのように剣で名を上げられるとは思わないし、何もかも一番になれるわけでもない。けれど、友人が助かったと笑ったことや、後輩が嬉しそうに答案を広げたことを、今は思い出せた。


「私、兄さんたちみたいにはなれないと思う。でも、だからって何もないわけじゃなかったの。あなたにもう一度『価値がある』って言ってもらわなくても、大丈夫よ」


 言い終えてから、自分の手が震えていないことに気づいた。立派な才能を示して彼を納得させなくても、自分の答えを伝えてよかった。婚約者として過ごした時間を全部嫌なものにするつもりはないが、その時間があるからといって、元へ戻る必要もなかった。


「謝ってくれたことは受け取るわ。でも、婚約は戻さないから」


 セドリックはしばらく黙っていた。やがて小さく頷き、分かったと答える。それ以上食い下がることはなく、もう一度謝って中庭を出ていった。アリスはその背を見送り、姿が回廊の向こうへ消えてから息を吐いた。肩に入っていた力が、ようやく抜けた。


 次の瞬間には、三人がそばへ来ていた。随分離れていると言い張ったわりに、集まるまでの時間は短かった。カイルは満足そうに笑い、アリスが避ける前に頭へ手を載せた。ルークも先ほどまでの険しい顔ではなくなっていた。


「よく言った」

「髪が崩れるから、触らないで」

「今日くらいいいだろ」


 レオンまで少し離れた場所で頷いている。アリスは三人を見回し、嬉しいのと腹立たしいのが一緒に来ると、どんな顔をすればいいのか迷った。大切にされているのは分かる。だからといって、今日の言いつけ違反まで許したことにはならなかった。


「それより、ずっと睨んでいたでしょう」

「見てただけだ」

「嘘。セドリックが何度もこっちを気にしていたわ」

「レオン兄さんだって見てただろ」


 レオンが僅かに視線を逸らし、カイルが吹き出した。ルークまで笑い始めるので、アリスは腰へ手を当てた。これだけ揃って悪びれないと、叱る方ばかり疲れてしまう。兄たちは学院でも名の知られた剣士だが、妹に対して行儀よく振る舞う訓練だけは、明らかに足りていなかった。


「次から私の恋愛へ勝手に口を出したら、本気で怒るからね。聞いてる?」


 三人ともすぐには返事をしなかった。レオンは弟二人を見て、弟たちは長兄へ答えを任せた。そういう時の連携だけは見事だったが、アリスが感心してくれるはずもない。しばらくして、レオンが代表するように口を開いた。


「善処する」

「その返事、今後は禁止だからね!」


 カイルが声を上げて笑い、ルークも肩を震わせた。アリスは呆れながら、三人の少し前を歩き出した。背後から誰かが鞄を持とうと手を伸ばしてきたので、振り返らずに遠ざける。今日は自分で持って帰りたかった。兄たちも取り上げようとはせず、そのまま後ろをついてきた。


 のちに、レオン、カイル、ルークは順に帝国騎士団へ進み、ウェールズ家の名をさらに高めていく。学院に残した逸話も多く、大会での勝利や教師を驚かせた剣の腕は、後輩たちの憧れとともに語られた。もっとも、同級生たちが顔を合わせた時、決まって持ち出す話は別にあった。


 妹に「何の価値もない」と言って婚約を破棄したセドリック・アシュフォードへ、三兄弟が揃って、たいそう熱心な剣術指導を行ったという話である。三人を知る者ほど、その日の稽古について興味を持ったが、聞かれた側の答えはいつも同じだった。


「ただ稽古をつけただけだ」


 立派な騎士となってからも、三人は揃ってそう言い張った。そのたびにアリスが呆れた顔をすることまで含めて、彼らをよく知る人々には、すっかりお馴染みの光景になった。

評価・ブクマをありがとうございます┏○

連載版の励みになります

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。