誰だっけ
拙作『俺にはわかる』、『僕には聴こえない』の続きとして書きました。
前二作と合わせてお読みになることもできますが、単独でもお読み頂けます。
此処に来て、どれくらい時が流れたのか。
深い、深い井戸の底。井戸だよな? 直径3m位の円筒形の壁に囲まれ、はるか上に口がある。
コンクリートでも金属でもない、何か分からない物でできている壁は、ツルツルしていて上れない。時折、360度鏡面に変わったりする。マジックミラーか、壁向こうに複数の存在を感じて気持ちが悪い。視線を向けられている気がする。
と、ここまで考えて、そもそも、今考えているのは誰なんだという疑問にぶち当たる。もう、気が遠くなるくらい繰り返す思考。
自分が誰なのか、どうして此処にいるのさえ、分からない。
けれど、不安はない……はずだ。
暑くも寒くもなく、生存するのに困らない。
食いたい時に食い、眠りたい時に眠る。
食料は井戸の上部から、どこか自分の体に似ている肉片が降ってくる。
味は、まぁ、そこそこ。水が飲みたければ「水」と、排泄したければ「排泄」と考えれば、どういう仕組みか分からないが、壁から水や便器が出現する。この生活に満足している。……なのに、肉を噛むたび、嫌な気持ちになる。何かが変だ。変なのに、変ではないと頭が繰り返す。その矛盾を考えようとすると、眩暈がして思考が途切れてしまう。
ある時、目覚めると壁が透けていて驚いた。
初めて見る井戸の外。薄暗く広い空間に、同じような透明な円筒形の井戸が林立している。
井戸の口は高くて、体を仰け反らせても見えない。
その一つ一つの中に何かがいて蠢いていた。
一番近くの奴は、自分の井戸の壁を内側から、叩いて、大きな口を開けて何か叫んでいるようだ。が、聴こえない。
聴こえない? そこで気付いた。音がしない。自分はずっと静寂の中で生きてきたのだと。
その事実が、急に恐ろしくなる。物音ひとつしない。自ら発声もしない。おかしくないか? 不安が胸をせり上がってくる。
アイツは何かを叫んでいる。
アイツは何だろう。
「に、にん、げ……」
口が勝手に言葉を紡ぐ。
不意に「人間」という言葉が浮かぶと、自分の中で急速に霧が晴れるような感覚があった。
「人間」
もう一度声に出してみる。自分の声なのか?
たどたどしく、掠れた声。
自分の手を見、アイツを見る。同じだ。アイツも自分も人間。アイツは腕にXの様な印がある。
アイツがこちらを見た。目が合った。
あ、あれ? コイツどこかで。
「つ……り?」
アイツの口が、「つり」と動く。
つりって、何だっけ。知っていた気がするが、思い出せない。
続けて口の動きを追う。
「S……はま?」
考えようとすると、頭が痛い。
立ち並ぶ透明の井戸の間を歩くものがいる。薄暗いのでシルエットでしか分からない。
しばらくして、一瞬、赤い髪が壁を過ると、突然、アイツの井戸の壁が不透明になり、続いて自分の井戸の壁も不透明になった。
「つり」「Sはま」「赤い髪」……何かが引っ掛かる。が、気のせいだろう。気のせいにしておかないと、吐きそうになる。
さっき垣間見たのは何だったのだ。
自分は人間で、同じように複数の人間が井戸の底にいるのは分かった。でも、人間は、こんな風に生活しないよな。開口部があって、外が見えるし、出入りもできる。水や便器は壁から出現しない。何といったか、「家」とか「部屋」に住んでいる。
たぶん、自分もそうだったはず。
じゃあ何故、自分は、この井戸で暮らしているのだ?
「痛っ!」
考えると頭が割れそうに痛んだ。
さっき見たアイツは、何かを伝えようとしていたんじゃないのか。
「……『つり』って、釣りのことか? S浜で?」
不意に蘇る暗い海の波音、潮の香り。
何故か、心臓がバクバクする。
煌々と月に照らされた白い砂浜。
息が浅くなり、肩が上下する。
そして、赤い髪の――
思い至った瞬間、記憶の底から、黒い塊が逆巻きながら押し寄せた。
こめかみの血管がズキズキと拍動する。
「あ、あ、あ……」
恐怖に目が見開かれる。慄く両手で頭を抱え膝から崩れた。
自分は、何かに乗せられて――
そうだ。体が振動を覚えている。
何も聴こえなくなって、此処に。
何の為に?
時折、壁に出現する小窓に体を差し入れ、何かをされると、ご褒美のお菓子をもらえる、赤い髪の人に。
あ、あれ? 頭に何かされた?
まだらに戻った記憶が恐ろしくて、叫び出したくなる。
それからどれくらい経ったか、井戸の口が開いて、肉が降って来た。
人間の自分とよく似た肉には、Xの印が付いている。吐き気が込み上げた。




