犬はクソを食うのをやめられない
俺はもう、両親の描いたシナリオの中では生きないと決めた。
その日の夕方、母さんがふわっとした口調で部屋に入ってきた。まるで何気なく話しかけるように。
「ねぇ、旅行会社から連絡あったんだけどさ、知らない人とツインの部屋に泊まればちょっと安くなるんだって。あんた、それでもいい?」
最初、何も返さなかった。
母のその言い方は、尋ねているようで、実はもう答えを決めつけているような感じだった。
頭の中にふと浮かんだ言葉――
ふざけんなよ、俺がいびきかくからって嫌がってるくせに、さも聞いてるフリしてんじゃねえよ、クソ!
でも、口には出さずにただ淡々とこう返した。
「は? 俺のこと、捨てるつもりなん?」
母は一瞬ぎょっとしたように固まり、顔色が一気に曇った。
「捨てるって何よ? 何言ってんの? そんな風に思うなんてひどいじゃない。」
その言葉にはもう、問いかけではなく、非難が込められていた。
俺は母を見ながら、こう言った。
「じゃあ、なんで自分で行かないの? なんで俺たちに押しつけんの?」
案の定、母は強い調子で返してきた。
「ママは女なんだよ!? 知らない男の人と一緒の部屋に泊まるわけないでしょ!? そんなの、あんた考えたことあるの!?」
その声の中には、恐れと正義と被害者意識が入り混じっていて、それをまるごと俺に投げつけてきた。
俺は思った。
「は?寝るだけで何騒いでんだよ。」
でも、ただ黙って母を見ていただけだった。
なのに、彼女はますます早口になっていった。
「なんでそんな言い方するの? あんた、いつもそうやって、私たちがあんたをいじめてるみたいに思って……うちはそんなことしてないでしょ? 勝手に誤解しないでよ!」
そのとき、気づいた。
彼女はもう俺に話してなんかいない。
彼女は、自分の中で勝手に作り上げた「理不尽な俺」と話しているだけだ。
俺は、もう母の目には「本人」として映っていない。
この会話は、彼女の脳内にある敵に向けた一方的な感情の防衛戦だった。
俺はただの投影スクリーンになっていた。
***
その夜、しばらくして父もやってきた。
母よりも、父のほうがいつも冷たく、沈着で――その分、息が詰まる。
「さあ、光線治療に行くぞ。もう予約取ってあるから。医者も言ってた。照射した方がいいってな。行くか?」
俺は答えた。「行きたくない。」
すると父の目が見開かれ、口調が変わり、早口になった。
「おい、どういうつもりだ? 選ばせてやってんだぞ。俺はお前のためにやってるんだ。保険もあるし、金もかけた。お前、資源を無駄にしてるってわかってるか?」
俺は言いたかった。「無駄にしてるのは俺の時間であって、資源じゃない。」
でも、もう言う気にもなれなかった。なぜなら、これは会話なんかじゃなく、命令だった。ただ「思いやり」という名札を貼った命令。
だから、俺は言った。「わかった。行くよ。」
そう口にしてうつむいたとき、胸のどこか一部が切り取られたように感じた。血は出てない。でも、ぽっかりと空白ができたようだった。
けれど、父はそれで終わらせなかった。
部屋を出る前、振り返ってこう言った。
「なんだよ、お前。俺はちゃんと説得してるだけだろ。なんでそんな態度なんだよ?」
その瞬間、俺の目の前が真っ白になった。怒りじゃない。もう、ただの麻痺。
***
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした。頭の中は、静まり返っていた。
さっきの母の声、父の言い方を思い出す。
――あいつらは、俺が何を思っているのかなんて、聞こうとしたことすらない。
ただ、自分たちにとって「都合のいい選択肢」だけを求めていた。
俺は息子じゃない。変数だった。
障害物であり、煩わしさであり、都合よく配置し、修正される空白。
部屋の壁に取り付けられたあの灯りを見る。それは俺が自分でつけたライトだった。
明るくもないし、あたたかくもない。でも、はっきりと分かった。
> もう、俺は彼らに光を求めたりはしない。
俺の手は、とっくにスイッチの入れ方を覚えたから。
少し震える自分の手を見つめる。
それは恐怖からじゃない。俺がまだ生きている証だった。
まだ意識がある。痛みも感じる。ちゃんと「嫌だ」と言える。
たとえ最後に折れたとしても――もう分かってる。ここはもう「家」じゃない。
ここは、あいつらの舞台にすぎない。俺は、とうにその役を降りてる。
***
灯りはまだついている。俺はまだベッドに座っている。
泣いてはいない。でも分かってる。
「いつか彼らが変わってくれる」と思っていた、最後の一片の希望を――
さっき、自分の心から破り捨てた。
恨んではいない。ただ、
やっと、手放せたんだ。
---
翌朝。
ベッドに座っていると、空はまだ明けきっていないのに、スマホの画面には11時と表示されていた。あいつの電話は、不意に来た嵐のようだった。
「……あのさ、父さんさ、もう無理に行かせようとは思ってないよ。」
「え、どうしたの? 急に。」
電話越しの声は、前夜のような強圧的なものではなく、妙に低姿勢な妥協口調だった。どこか「体貼ってますよ感」まで含んでいた。
「昨日のお前の顔見たんだよ……あんなに辛そうでさ。だから、もう無理に言うのやめようって。」
俺は「は?」って顔をして、戸惑った。突然の「優しさ」に、どう返せばいいのか分からなかった。最初に心に浮かんだのは感動じゃなく、
「はあ〜……」
「なんなの、急にそんなこと言って。どこからその態度の変化来たんだ?なんか嘘っぽいな。」そう思った。
父は一瞬沈黙した後、口ごもりながらこう言った。
「いや、ほんとだって。昨日の顔見てたらさ、もうやめようと思っただけで……」
でも、分かってる。
これは新しい手口だ。
一歩引いて、俺が自ら戻ってくるのを待っている。コントロールを手放したんじゃない。より柔らかい方法に変えただけだ。
俺は問い詰めず、譲歩もせず、ただこう言った。
「……うん、わかった。」
その声には何の感情も込めなかった。引き受けたフリだけして、相手の「優しさの演出」をそっと受け流した。
電話を切り、スマホを置き、深く息を吸う。
痛くないわけじゃない。昨夜の会話、圧力、噛みしめた苦しみはまだ胸の奥で燃えている。
でも、俺はもう学んだ。
抵抗でも、服従でもない。
ただ、脚本を見抜き、それを演じないと決めただけ。
今回は、深淵には落ちなかった。
俺はまだここにいる。灯りはまだついている。空気は少し冷たい。でも、心は静かだった。
父が俺を追い込まなかったからじゃない。
俺自身が、自分を追い込まなかったからだ。
犬はクソを食うのをやめられない。
でも奴らは、あたかも食わなくなったように見せるのがうまいだけ。
彼らが退いたのは、俺が苦しむのを「見た」からだ。
でも、それは心配じゃない。証拠を直視したくなかっただけ。
なぜなら、その証拠は――
彼ら自身が、俺をこんな風にしてしまったという、
紛れもない「責任」を突きつけるから。
彼らは、俺が傷ついているのを見たのではない。
俺がまだ死んでいないと知っただけ。
だから一歩引いて、体貼ってる風の声色で、俺が自ら跪くのを待っている。
あれは愛なんかじゃない。
あれは、太らせてから静かに殺すための忍耐。
人から責められないために、つけてる仮面。
彼らが育てたのは、息子じゃない。
鏡だ。
自分たちの「理想の姿」を映すための鏡。
俺に、いい子でいろ、笑え、協力しろ――と。
でも、その鏡に、ヒビが入った。
映り始めたんだ。
彼らが目をそらし続けてきたものが――
コントロール、情緒的な圧力、自己中心的な振る舞い、冷たい暴力。
それに耐えられず、
彼らは言う。「お前が壊れた」「変わってしまった」「親に恥をかかせるな」「親不孝だ」。
笑えるな。
壊れたのは俺じゃない。
彼ら自身の「醜さ」が、
俺という鏡に映りこんだだけだ。
それに耐えきれず、俺を砕こうとする。
俺が変わったんじゃない。
この鏡が、
ようやく彼らの本当の顔を反射し始めただけなんだ。
――――――――――――
「彼らが昔、俺に優しかったのは知ってる。
でも、それがあるからって、
すべての痛みを飲み込む理由にはならない。
その優しさを思い出すこともあるけれど、
でももう、あの一片の優しさのために、
傷つき続けるような生き方は、したくない。
だから、俺はこれを書いた。
誰かを告発するためじゃない。
ただ、自分が前に進むため。もう、その場に留まらないために。」
変わったフリをしても、奴らはずっと同じだった。