世界が終わる僕たち
地球が丸かどうかを、霞む空のグラデーションに問うような朝だった。俺は欠伸を浮かべ、元気な妹と別れ、慣れてきた春の通学路を歩いていた。高名高校ってどんなところ? カッコいい進学校だよ! とアピールした校長のズラ、違った、ズレに気づくくらいには学校にも慣れてきた。何度かある曲がり角の目が回るところに朝のポークソテーを吐いても仕方ないと妥協できるくらいにも慣れていた――そのときだった。ちょうどその曲がり角から食パンを咥えた美少女とぶつかった。
俺は疑心暗鬼だったかもしれない。黒髪の長い、どこかの制服の美少女の、宙が食パン平らげた下に転んだところに、自分の頬をつねった。痛くなるまで頬をつねった。痛くて泣いた。
美少女はぐるぐると色んな顔を回した挙句、腕時計を見て「ご、ごめんなさい! 急がないと!」
と俺を置いて走っていった。宙が吐いたいちごジャムの食パンが俺の頭にベッタリしているのも気づかずに。
俺はこのふざけた兜を被ったまま、桜の門を潜った。桜の散るところが、なぜか俺を笑っている気がして、腹が立った。枝が何本も折れているくせに生意気だろう。ちょうどその腫れた肩を親友らしき佐藤が叩いてきた。
「今日は生かした頭してんじゃん! 寝ぐせ対策か?」
「おすそわけしてもいいぞ」
「遠慮します! ほれ、さっさと教室行って野球拳しようぜ」
「しねえよ?」
俺は校長のカツラに勇ましい兜を心配されながら教室へ向かった。またどうでもいい学校生活が始まるようだ。
*
校長や先輩がなんと云おうがやはり学校はつまらないものです。俺は授業中を寝て過ごし、眠れないときは窓際の一番後ろだったから、適当に空を眺めて過ごし、休み時間のふざけた時間を待った。それもだいたいふざけていたから、昼休みのゲームタイムが待ち遠しかった。
チャイムがゴングのようになって俺はSwitchを開けて、格ゲーをする。佐藤が呆れたような顔をして各種パンを俺の机に置いてくれる。俺は勝ち誇り、コロンビアをした後、そのパンを口へ放り込む。
「うん? 辛くね?」
「新発売のワサビメロンパンだってさ」
「うん。不味い。金返せ」
「ゲームばっかしてる方が悪りぃ」
胃がムカムカしても俺のパフォーマンスは落ちない。だってホントはスーパーゲーム実況者のsimaだからっ! と思っていたら惨敗した。仕方がないから俺は佐藤を連行して、食堂へ向かった。佐藤氏は「俺悪くねえだろぉ」と供述していますが、俺は性悪説派なので、悪いです。
そんな風にして学校のくだらない時間は過ぎていった。これといって書くことがない、単なる男子高校生の日常だった。
*
その帰り道だった。野球部がないからと、佐藤と一緒に街のほうへ遊びに行こうと鞄をぶら下げていた。朝の眩暈も久しい曲がり角を曲がったとき――俺はまたぶつかった。一日に二度も曲がり角に襲撃されるなんてと胸を痛めていたら、しかもそれが朝の美少女だったから唖然とした。
「おいおい、ちゃんと前見て歩かないと、どこぞの転生者みたいにトラックに轢かれんぞ?」佐藤は冗談を云いながら、俺の背中を叩いた。転んだままの美少女を起こせという意味だろう。
「ダイジョウブ?」俺は面倒くさいから美少女に手を差し伸べ、美少女が握る前に引っ張り上げた。半ば見慣れた景色に飽きていた。
ところが美少女はこんな適当な俺に好感を持ったらしい。「偶然ですね」とニコニコ笑った。それがどうしても幼げに可愛らしく、俺は思わずその頭を撫でたくなった。その手が触れる前に正気に戻って謝った。美少女はそれも失礼に思わなかったようで、「大丈夫ですよ」とまた微笑んだ。恋のする音が心臓からした。俺はとっさに「浦嶋理です」と名乗った。美少女は驚きながらも嬉しそうに「霞京子です」と返してくれた。そうしてしばらく見つめ合った。そう思っていたのは俺だけだったから、彼女は「そんなに見ないでください」と赤くなった顔を逸らした。
そうラブソースウィートしていると佐藤が暇になったらしく、近所の子供のサッカーに交ってボコボコにし出したので、俺は佐藤を引っ張ってさっさと街へ向かうことにした。彼女に「また今度」とだけ云って、また会えるかもわからないのに、彼女も「そうだね」と愉快そうに手を振った。
「お前、あの子好きになったろ?」佐藤は面白そうに訊いてきた。
「そうだが?」
「連絡先くらい聞いておけよ。恥ずかしがっても次会えないと意味ねえだろぉ?」
「お前がふざけなきゃそうした」
「俺、悪くねぇだろぉ!」
街はだいたいゲームセンターを回って、猛者たちと勝負をした。今の俺からすれば骨の無い奴らばかりだが、その情熱は自分以上に見えて尊敬した。
「しかし今日は三回も負けたな」佐藤はバンバンと俺の肩を叩いて笑った。励ますのか馬鹿にしているのかわからんが、楽しそうに叩いた。
俺はそれを恋のせいにした。現にそうだった。彼女のことを思い出すと、敵の使うムキムキなゲームキャラにも似たような目をしてしまいそうになって、集中できなかった。物足りない気持ちと期待感が俺をそうさせたのだろう。それはそうとして負けた悔しさには耐えられない。帰ったら練習しまくろう。
*
佐藤と別れ、すっかり暗くなった道を帰る。高校生になってから門限が伸びて、夜空を見上げる時間も増えた。川沿いの桜の違う色もよく見るようになった。見飽きたはずの町景色も時間が変わるだけで別物になるとはと、俺は感心していた。
暗証番号を入れて、エレベーターのボタンを押して、404号室へ。若干の疲れと眠気を鞄に詰め込んで鍵を回した。ドアの開く音は変わらず、俺は歩き慣れてきた革靴を吐き捨て――自分よりも小さい似た革靴がそこに整えられていた。
「家、間違えたか? それとも妹のか? ペロッ、違う」
俺が名探偵していると家のドアも同じく名探偵した。ガラッと開いて俺の正体を暴いてしまったのだ。まぁ妹とか母親ならいいかと頑張って開き直ろうとして悪びれもなく「なにか?」と顔をあげると、あら不思議――霞京子がいました。スリッパと緩い部屋着、大根など野菜の入ったビニール袋を腕に下げ、俺に驚き固まっていました。
俺は混乱した。なぜ彼女がそこにいるのか。しかもそんな身近な可愛い恰好をして。俺は相当に混乱した。現実直視できなかった。俺はやはりこういうのも恋のせいにした。恋のせいにしてそこにあった小さな革靴の片方を鞄と間違えて持って行って、自分の部屋に飛び込んだ。
至って確信犯ではないのだが、ドアをしめ切って鞄からSwitchを取り出そうとすると中敷きが出てきて「任天堂やりおる」と混乱したまま、それをポチポチした。また嗅ぐった。誰もいないとき、誰も自分が善悪かわからないように、自分自身もまたそうなのだ。
そうしてSwitchで遊ぶこと三十分、コンコンと「変態、ご飯できたよ~」と妹の声が響いてきた。いつから俺の部屋は逆マジックミラー号になったのかと、妹の高度な呆けに内心ツッコミつつ、俺はSwitchを置いてリビングへ行った。満腹だったけれどお腹は空くものだ。
「あっ」
それが嘘ではない。ジンギスカンをよそうエプロン姿の彼女がそこにいた。まごうことなき、霞京子だった。二度三度リビングを入って出てを繰り返したものの、神のバグではない、霞京子がうちの食卓にいた。テレビのチャンネルを見た。番組表を見回した。突撃、ご飯的なものはなかった。テレビ局に電話もした。やっぱり違った。
俺は満を持して満を持した。当然のようにご飯を食べる妹、母、俺を待ってまだ食べていない霞京子に訊いた。母の「あんなの気にしないで食べな」を追い払って訊いた。
「なんで彼女がうちに?」
すると母はこう云った。
「あっ、立ってるついでに醤油取ってきて」
俺は冷蔵庫から醤油をクソババアに投げつけた。
俺が席に座ると、彼女の隣りに座ると、母はついに話した。
「あっ、この子、京子ちゃん。遠い親戚の子で、上京するからって預かったの。高校は違うけど、これから一緒に暮らすことになったから気を付けてね」
母は俺が仏像みたいに固まる様子も気にせず、ジンギスカンに醤油をかけた。
正直、俺は嬉しかった。ジンギスカンではない。好きな子と一緒に暮らせるって夢のようだったから。とはいえ俺はこのロマンスを、清純に思えなかった。結婚までしようというのにちゃんと交際できる気がしなかった。
そのジンギスカンの薄くなったネギのような感情は、彼女が俺の肩をトントンと叩いて「お腹空いてない?」と小皿に入ったジンギスカンを渡してくると、塵のごとく吹き去った。彼女がその熱い小皿をふうーっと息をして冷ましたから、ほんとうにネギが俺の鼻に飛んできてくっ付いた。そのネギの熱さも忘れるほどに、彼女の健気なところが可愛かった。
「あのネギ、ついてますよ」
「いくらでもつけてください」
「え?」
好きな子と同棲できる高校生を悪く言うのなら、まず好きな子と同棲する高校生になってから文句を云うべきだと俺は自分を納得させつつ、彼女のよそうジンギスカンに心躍らせた。俺が「母さんって、こんなに料理上手だったんだ!」とわざとらしく云ってしまうくらい踊った。その返答が「もとからよ、あっは~!」と気持ち悪かったから食欲が失せた。おかずに箸を突こうかというときに、熟女が混じって萎えるような気分だった。俺は自分のお椀にくしゃみをして部屋に戻った。
*
彼女が舞い降りて数日の間は忙しかった。彼女の慣れない生活を心配したつもりが、むしろ俺のほうが彼女に気を使われまくった。早朝のすぐ隣で歯を磨く彼女の幼く甘いところ、学校へ上る二人きりの交差点の赤信号の歯痒さ、昼は退屈な学校に感謝して翻弄される心を休めようとするも、向こうの彼女を想えば他の誰かの物になっていないか怖がって疲れる。それも家に帰れば彼女の初々しく映るエプロン姿に心を撃ち抜かれ忘れ去った。
俺は彼女との幸運な境遇を未だに信じられず、けれども同時にここにあるはずだからと安心する。いいつものように部屋に籠ってはゲームの配信してふつうにする。その本当のところはそばにいる彼女の可愛らしさに怯えてか、逆に彼女と失敗してしまえば後戻りできないという強迫観念が、それ以上の勇気の無さが俺の首を絞めていた。安心したと云ったが、それは自分の部屋の変わらない空気を吸っているときは必ずだが、どちらかというと彼女のあれこれを気にして疲れてしまっていた。
俺はそうした心境からだんだんと身が持たなくなって、もはやゲームの配信すら面倒になっていた。何をするというわけもなく、ベッドに横たわり、他の人のYoutubeをスワイプと倍速するつまらない日々を過ごした。そんなあるときだった。彼女が俺のドアを叩いた。
「理さん! 少しいいかな?」
「は、はい、どうぞ」
散々捻ったドアノブが羨ましくなるくらいに彼女はまた綺麗だった。それが特に濡れた髪の心抜き取るような甘い匂いがさらに彼女を色々しくした。彼女はもちろん家族であるゆえ、口を開けたままの俺を放っておいて無造作に近づいてくるのだ。そうすると風呂上がりのせいか、どことなく引き締まるところ引き締まり素直に見えた身体がそこにあると見えて、俺は緊張のあまりにそのまま息を止めてしまそうになった。
「大丈夫? お兄ちゃん?」
「お兄ちゃん?」
「あ、一応、理さんのほうが早く生まれたらしいから。ダメかな……」
「いや、べつに」
彼女は自らを妹と装いつつも、俺に屈んで髪耳をなぞる眼差しは、年相応以上に大人びていた。その無造作なところが反って大人の余裕に似た何かと香って、俺はどこか安心した。「どうした?」と彼女の湯気を吹いた。彼女は「特に用はないんだ。ただ、最近元気無さそうだったから」と仄かに熱くなった汗を滴らせた。それが俺の部屋着の腿あたりに落ち、その生温かいのがだんだんと冷たくなりながら広がるにつれ、くすぐったくなった。
その膨らむ頭に朦朧とする俺を、彼女はわざとらしくか、不思議そうにして「やっぱり熱あるのかな?」とすべすべの両手で俺の頬を触った。俺はとっさに恥ずかしさが勝って、弟じみて、それを弾いた。「大丈夫そう」彼女は優雅に微笑んで去っていった。ドアを意味ありげに丁寧に閉めて。
「もうお嫁にいけない!」
俺は乱されたまま、枕に顔を埋めた。
それからはどこか彼女が艶めかしく見えて、疲れるよりもぼーっとするようになった。妹が「お兄ちゃん?」と朝食、夕食で俺の顔の前を扇ぐのも気づかないくらい、俺は彼女に蕩けていた。彼女が心配そうに声を掛けてくるまでだいたいそうなっていた。
それとたびたび彼女が部屋に入ってくるようになった。ときには汗ばんだ模様色違いの制服、ときには足が露わの腹がたびたび揺らめく部屋着、ときには匂い惑わす風呂上がりの姿。彼女はお兄ちゃんと呼ぶように、まるで妹みたいに親しく、それでいて姉のように大人じみて、魔法少女のように幼く妖艶だった。用は漫画や小説を貸してほしいだったり、その感想を嬉しそうに話したり、たまに一緒にゲームをして、たまに勉強を教え合ったりもした。
こうして過ごすにつれて俺は彼女に慣れていった。今まで彼女が家族かなんであったかわからなかったところに、親しく崇高な像を抱き始めた。粗末な妹とは異なった、尊敬する妹のようなものだと片付けた。だから俺は迷いなく彼女を妹と呼ぶことも多かったが、そのたびに彼女は、俺のことを兄と呼ぶ癖に、不愉快そうにした。俺はそれをまさしく兄のようにか、優しく笑って誤魔化そうとしたものの、彼女はさらに機嫌を悪くしているように見え、その拠り所をなくした。
そうした中で俺はゲームに没頭した。配信の頻度も元に戻ってきた。彼女とだけのたしかな時間が俺の不安を払拭した。たまに彼女に他の男が寄ってくることが頭を過っても、前ほど大きな感情は抱かなかった。それにこうゲームをしていると、彼女が嬉しそうだった。俺が元気になって嬉しいらしい。けれどもどこか少し、彼女のその純粋な笑みが、俺はもどかしかった。
*
玄関の靴、歯ブラシ、朝食の席。色々なものが一つ増えてしばらく経った。川辺の桜が青くなったように、三人で歩く朝も涼しくなってきた。俺はあたりまえのように鞄を揺らす彼女に驚かなくなった。俺は妹に適当に手を振るのと同じく、俺は彼女に手を振った。
彼女にとっても同じだろう。彼女も素っ気なく、小さく挙手するように手を振るだけだった。
「ちょっと最近、寒くない?」
それが勘違いと気付いたのはこの時だった。彼女の声に振り向いてはじめて、俺は自分の子の後ろで、彼女が寂しそうに眉を八の字にしていたことを知った。彼女はややあざとく、あるいは俺の男の悪さを恨ましく思ったのか、俺がじっと見ていても顔の色をしばらく変えなかった。
何か睨めっこでもしているのか、俺がそこから目を逸らし、さっさと学校へ足の先を向ければ、決してもう手に入らない何かを失う。そう冷たい風に煽られた。だからその時はしばらく止まった。俺は彼女と同じく、顔を固めさせ、動く時を待った。
はずだった。だんだんと眼が冴えてきて、彼女の可愛らしい顔の、その瞳が真珠のように、それがさらに白ではなく薄青色に澄んでいたことに気づくくらいになって、俺はふたたび彼女に出会った。
今まで抱いていた感情や認識がこうも簡単に吹き飛ぶとは思わなかった。胸の奥がどうしてもじれったく快感じみて鳴りやまない。
彼女がはっと恥じらい、弱弱しく目を逸らして、俺も似たようにそうした。妹か、あるいは姉か、そう浸っていた日常に、乙女の色が煌めいた。
「また、家でね?」
彼女は意味ありげにか、そう云って、柔らかそうな後ろ姿を揺らした。思わず追って捕まえたくなるそれを、俺は自分の境遇の幸運さを思い出して食い止めた。対称的にこの世で最もつまらない学校へ、俺は少し熱を冷ましに行った。
*
俺はたびたび人間か、自分の心の変わりやすさに慄然とする。昨日は彼女と鉢合わせした廊下が、今日は美女と巡り合った観光地になってしまう。その日は絶え間ない日常のようにくつろげれば、次の日が取り返しのつかない運命の分岐点のように迫ってくる。彼女が身近にいるからと安心して、また家族と見るようになってきても、たまの魅了が彼女が身近にいないときの心配と、このときに何もアプローチできない情けなさを膨らましてくる。それが何日も続いて疲れ、考えれば、冷たいときはこれは恋ではない。熱いときはこれは恋に違いない。これにも悩み疲れた。それも、とどのつまり彼女の足音を紛らわす口実にしかなっていないとわかってくると、俺は虚しく眠るのみだった。
夏休みに入って喚く妹の煩さが目立つようになると、虚しさもそれを煙たがってどこかへ行くようになったのだろうか。ベランダの蝉がバスタオルに掴まったある日。妹のそれは限界になった。妹は中学生全開にして、ソファに座る彼女の凛々しい生足を掻き分け、こう言い放った。
「お姉ちゃん! 夏祭り行こっ!」
彼女は恥じて急いで内股に戻るとそのまま俺のほうをチラリと見た。俺は飾られた賞状為した壁紙を寒心して、何も見ていないと装った。彼女は「ええ、私でいいの?」と遠慮がちに妹に返した。妹はと不貞腐れたように足のつま先で床を摩って「だってお兄ちゃん、ずっと引きこもってるんだもん」と呟いた。
俺はその虚しさがどっかに行った隙に、夏休みばかりにゲームをしていた。やはりカリスマゲーム実況者だから配信もよくした。妹のドアの隙間からみせる退屈そうな顔もそっちのけで、その喚き声にうんざりもしていたからヘッドホンで耳を塞いだ。そうして積み重なった我慢がこの昼間になって、彼女にぶつかったのだ。おそらく退屈を通り越して俺に呆れ、ターゲットを変えたのだ。
「お兄ちゃん」
「俺は行かないぞ。夏祭り? 花火大会? そんなのテレビで見りゃいい。テレビで見りゃいいものなんて、見る価値が無い。だから俺はゲームをする――うん、お兄ちゃん?」
文字の後ろから覗かせていた声は少し大人びていた。俺を呼んだのは妹ではなく、彼女だった。俺は思いのほか椅子から転げ落ちた。頭をぶつける前に混乱し、頭をぶつけて正気に戻った。彼女の「ごめんなさい?」と口を覆った手の細やかさに、またあれが露わになった。
「どっちもお兄ちゃんって言うからわかりにくい」
「ごめんなさい。お兄ちゃん。ただその、私も君と夏祭りに行きたいなって。私もほんとうは妹さんと同じなんですよ」
「同じ?」
「そうなんです……お兄ちゃん」
彼女は強引だっただろうか。俺の浮いた心にあざとい瞳を向けてきた。そこには妹にはない美しさと半ば妹にも見える幼い肌の色もあったろうが、その意味はこのときはひっくり返って、無防備な獲物に映った。
されど魚が餌の釣り針を警戒すると同じ様に、俺は彼女への返答を迷った。そうしている間に彼女は「忙しいものね」と色を戻そうとした――その悲しげに眉が流れていくところはどこか挑戦的で妖艶だった。また誰かを見下すようでもあった――俺はそこで餌に噛みついた。逃がすまいと本能に駆られた。
「行こう。夏祭りに行こう!」
そう大声で叫んだ。彼女は「やった。決まりね」とまたあざとくか、微笑んだ。俺はその様子に止まらず、勢いのあまりにアタッシュケースを運んであるもの全てを積めようとした。妹が「お兄ちゃん、今日じゃないよ!」と注意してそれが止んだ。
これは確かなことだった。俺は心の中で彼女をもう崇高な妹のようには思えなくなっていたらしい。彼女の声がそれを暴いてしまった事実がいつまでも胸躍る限りは。同じ名前を呼ばれたときの感情が違って止まなかった。
*
彼女との夏祭りは汗艶やかに滾っていた。行く予定のあった妹が体調を崩したと、遅れてきた彼女。その浴衣姿は天の羽衣、今まで記憶した彼女の美しさをそのさらなる美しさから消し去るような、またべつの世界の彼女が下りてきた。いわばまた俺は彼女と出会ったのだ。
二人きりの夏の月明かり、騒がしく蒸した屋台の道、星なぞる花火の上るところ、俺はつねに彼女に見惚れていた。そのあいだ、どうにかしようと彼女へ何か言葉をかけようとしたが、ついに花火が色を飾っても、俺はぼんやりとしてしまっていた。その心持ちは平和だろうか、この美女がどうせ明日もいるのだからと、ここにある景色を堪能するのに集中したくなった。あるいはそういう口実の惰性だろうか。とにかくベタであるが、彼女はこの世の誰よりも綺麗だった。
それからの夜道は少し冷たかった。静かになった町の隙間にコンコンと二つの音だけが響いていた。残響のせいだろうか、胸を叩いた花火の鳴ったのが、今も残って余韻を残す。そのばかりにむしろだんだんとその二つが際立っていく。そこに紛れた彼女の息もまた。彼女は眠たさゆえか、ひっそり満足げに微笑んでいた。
「帰ろう」
「ええ、そうしましょう」
俺はその静かな微笑みを持ち帰った。夜道はその暗闇の向こうに二人を隠した。そんな気分にさえ、彼女の眠たく虚ろな目はさせた。
ちょうどその夜、午前一時。今日の出来事を思い出していたら、胸が熱くなって眠れないでいた。それで天井の模様をぼんやりと眺めていた布団の中だった。廊下からどこかの部屋がガタッと開いて、トントンと足音が響いた。それがたゆまなく俺の部屋の前に止まると、ドアノブを捻って入ってきた。俺は怯んだ。そのどこかが、自分の足元から入ってきたのだ。俺の足を辿って、腹を摩って、ついに肩までくると、小さなその暗闇から黒い髪を揺らした。
「命を私たちで運びませんか」
その香りはまだ少し湿った芳しく、視えた顔は彼女だった。
俺はついにやられた。意識が朦朧とした。彼女の仄かに赤らんだ頬、怪しげな微笑み、その指が撫でるところ、まるで蜂の針のよう。恋揺らいだ。俺はそうであってもむしろ気持ち悪くなるほどに覚悟できず、見て見ぬふりをした。そうしているうちに彼女はだんだんと責める。そのなぞったところから痺れ、固まったところがさらに固まった。彼女の温い吐息が耳を掠める。そして小さくボソッと「おやすみ」と脳裏をかき乱した――それから俺の記憶はない。ただ起きたときは彼女はいなかったし、その朝の彼女も平然としていた。あれは夢だったのだろうか。
*
カレンダーは花占いのように捲られていった。これから夏はいつものとは少し違った。彼女との日常が不愉快に思えてきた。不愉快といっても勝手に頭が錯覚しているような、居心地の悪いものだ。恋に疲れたのか、夏の終わりを嫌がったのか、それともあれが夢であったのを悔やんだのか。色んな気持ちがあった。
俺はどうしてかそれでいて焦っていた。身近にいる彼女とのつまらない距離感、それなのになおさら艶めかしく映る彼女の白い肌。それ以下の素っ気ない態度。それを取り囲む家族の態度。俺は何かそこに、もっと大きなものに塞がれているような強迫観念さえ抱いていた。そうしてもなにも意味がない事を自覚しながら。
俺がそうやって不機嫌でいると彼女は弱い顔をする。俺に「大丈夫?」と心配した声をかける。それが余計に悔しくさせることに彼女の純粋なこころは気づいていないらしい。俺はきっかけがほしかった。この日常を変貌させる、彼女との永遠を越えたものを。
両親が旅行に行った。妹が合宿へ行った。その一日は俺と彼女の二人きりになった。リビングの広く平和なところが、俺の心をむしろ落ち着けていた。彼女が適当にソファに座って読書していても、無防備にそうしていても、その静かさばかりに俺は平常だった。されどそれに流されれば、もういつ戻ってくるかわからない。俺は決意して、彼女をデートに誘った。彼女は「ちょうど私も誘おうと思ってたんだ」と作り笑いを浮かべた。
彼女は先導した。俺は色々と考えたのも、彼女はどうしてもと上乗せした。俺は断られるのを嫌がって彼女についていった。それがただの散歩じみていて、むしろ繁華街や駅から遠ざかる方へ淡々と歩くから俺は猜疑心に苛まられた。
その時だった。突然町の景色が止まった。住宅街のベランダで揺れていた洗濯ものが凍ったように固まって、電線に羽休もうとしたまま雀がつま先だけそれにかけて写真に収められたように動かず、空の雲、太陽の熱まで命を失くしたようだった。
「な、なんだ。おかしい」
俺は怖くなった。彼女もそうだっただろうか。俺の腕に掴まった。とにかくどこか逃げた方がいい気がしたものの、どこかそれそのものが敵になったようでどうしようもない。そう惑っていると、これこそが向かう先だぞと、白く輝くドアが目の前に現れた。
「怖いわ」
彼女がそこへ俺の手を引っ張る。俺は抗った。ドアの醸し出すわざとらしさを疑った。あまりに神々しい輝きは反って何も見えず、それ以上に罠じみて怖いものだろうか。
俺は彼女の引っ張る手を逆に引っ張って、とにかく家のほうへ足を向けようとした。それが彼女の悍ましく冷淡な顔がそこにあって、俺はたちまち景色の一部になってしまった。少なくともあった彼女への崇高なものが、大きく裏返って、そのまま邪悪になった。俺は信じられずに怖気てしまったのだ。
そうしている間に後ろから誰かの押され、これに逆らえず、俺は光の中に押し込まれた。その最後の吐息、彼女の呆れたような顔が俺を見下すところ「今回もダメだった」と聞こえた。俺は彼女に左後ろ腿に針を刺されて眠った。




