【兎の身構え方】
アンリエッタは書類と関連する資料を両腕に抱え、ミドガルド王国王太子カイエンフォールの執務室を足でノックする。護衛のはずのアゾットは今日もここにいない。一体どこで何をしているのだか。
(今日はこれを仕上げて、それからテイランからの亡命貴族の件で、ムルド伯爵と話をつけて、ああ、そうだわ、アルバイゼンの西南地域から陳情が上がってたわね、内偵を入れておかないと……)
「入れ」
許可の声に特に意識することもなく扉を開き、片付けるべきことを考えながら、室内を進んでいく。
「殿下、こちらが先週お話ししていた関税の引き下げについての報告書です。来月の……」
執務机に座って首都の地図を睨んでいたカイにつかつかと近寄って行き、新たな書類を手渡す。自分も説明用の資料を開いたところで、
「アンリエッタ」
名を呼ばれて、話を遮られた。
「……」
むっとしながら、王子……じゃない、カイの顔を見て、アンリエッタは開きかけていた口を噤む。
「何よ? 人の話は最後までちゃんと聞きなさいよ」とか言い返すつもりだったのだが……。
(目線がね……なんか、言えない雰囲気なのよね……)
昔一緒にいたずらをしていた時のように笑っている顔に、アンリエッタは唇の両端を下げる。
カイが立ち上がって伸びをした。迷いなく机のこちら側へと歩いてくる。そして、腕を伸ばし、アンリエッタを無言のまま引き寄せて、緩く抱きしめた。
「っ、は、働きなさいよ」
それに不覚にも真っ赤になってしまう。
「適度に休憩を取る方が、効率が上がるって言ってなかったか?」
「……」
低い声にくすぐるように耳元で囁かれてまた言葉を失った。
ずっと一緒にいたのだ。声にも距離の近さにも慣れているはず。そう思うのだが、昔は抱き合っているという感覚で、こんな風にすっぽり腕の中に包まれたりはしなかったし、声だってこんなに低くなかった。
「アンリエッタ……」
もう1度名前を呼ばれて、その声音に顔を上げろと言われているのを感じ取る。こうなってくると、長い付き合いがいいのか悪いのか、わからない。
何をえらそうに、と言い返してもいいんだけど……。
「……カイ」
(表情がね、裏切られるなんて思ってもいないって、昔の顔そのままなのよね……)
となると、邪険にできない。
「……」
ゆっくりと重ねられる唇の感触に、全身がふわふわと現実感を失っていく。
(意外、こんな部分、私に残ってたのね……)
なんて思っていられるのは最初だけ。
何度も何度も啄ばむように、確かめるように繰り返される口付けに、その合間に合間に紫の瞳に見つめられる内に、段々何も考えられなくなっていって、いつの間にかカイへと寄りかかるような体勢になってしまう。
重ね合わされた唇の向こう、喉の奥でカイが笑った気配がする。
(一体いつの間にこんな笑い方、覚えたのかしら……)
「っ」
腰をさらに引き寄せられて、顔に血が集まる。
「えっ」
その瞬間にカイの唇が喉へと滑り落ちて、思わず驚きに声を上げた。
「ちょ、ちょっとカイ……っ」
動揺する間に胸の膨らみにカイの手が触れて、さらに頭が真っ白になって――。
「……もっと早い内から刺激しておけばよかった」
「っ、真剣に呟くなっ、しかもめちゃくちゃ本音だったでしょ、今の!?」
奴の頭を反射的に殴ったことぐらい、当然の権利だと断固主張する。
当たり前だ。これを咎めようというなら、侍女頭どころか国王にだって喧嘩を売ってやる。
なんせ最近カイはこんな感じで壊れ気味だ。休憩中なんかは当たり前に、仕事中でもふと気付けば、手が届くような距離にいるし、移動中は涼しい顔で横に並び、勝手に人の手を取って歩いていく。隙があれば、人の頭やら顔やらに手を伸ばしてくるし、誰の前であっても目が合う度に嬉しそうに笑う。
幸い業務にひどい滞りが出ているわけじゃないのだけれど、陛下とセイルトン国王補佐官の目の前でキスされた瞬間は、怒りで目の前が真っ白になった。
もちろん蹴り飛ばしてやった。当たり前だ。
しかしそこはセイルトン補佐官、さすが先輩、見なかったことにしてくれた。「甘やかしてないで、御すことも必要ですしな」ですって。
ちなみに、カイの父親でもあらせられる陛下は、その隣で遠い目をしながら、「優秀な補佐官というのも時々考え物だな……」と窓の外を眺めていらした。
なるほど、私とカイの行く先もこんな感じを目指さなきゃ、と痛感している。
そんなカイにマーガレットは普通だけど(まあ、そんなことぐらいで動じる人じゃないわよね、マーガレットって)、アゾットはアンリエッタと同調している。曰く、『どっかキレたんじゃないか』って。
まったくだ。王宮にいる時だけじゃなくて、夜会に出てもそんな風で、呆れたのか、最近では貴族のお嬢さま方は誰一人近寄ってすら来ない。悪魔より狐の方が断然ましだったのに……。
もっともその辺も計算なんだろうなとは思っている。同じ頃に、カイは王族の一夫多妻制の廃止を提案しているから、その関係で。
表向きは、この制度が権力争いの温床となっていること、それ故に国家に安定性よりも政情不安をもたらす弊害の方が大きいという理由だ。
でも実際は、カイらしいというか、アンリエッタの我が侭を本気で叶えてくれる気なのだろう。こういうところは変わっていないとつくづく思う。優しくて不器用で……。
ちなみに裏では、『認めなければ王位の継承権を放棄する』と笑いながら、有力貴族たちを脅したらしい。『俺とアンリエッタ無しでどこまでこの国がもつと思う? 自分の地位が惜しくないなら、試してみるか?』だそうで。
凄まじい自信と悪辣さ――まあ、事実なのだけれど、この辺は変わっちゃったなあとしみじみ思う。年月って怖い。しかもアンリエッタも一緒くたで悪者、一蓮托生以外の道をなくされたわけだ。抜かりがないとは思うけれど、勝手にやられるとなんかムカつく。
「……」
色んな意味で乱れた呼吸を整えつつ、アンリエッタはカイを睨みつけながら距離をとる。念のため制服の前ボタンは一番上までかっちり止めた。
「アンリエッタ」
「……なによ? さっさとその書類仕上げてよ、私の仕事が片付かないのよ」
アンリエッタが『カイ』と再び呼び始めてから、カイも『アンリ』と口にすることはなくなった。
もちろん、彼の名を呼ばないでいた間に生まれてしまった距離が、そうすることで今更取り戻せるとは思っていない。だけど、新たに『カイ』と呼び始めたことで、別の関係が生まれているように思う。
今小さく笑っているカイから伝わってくるのは、温かく包み込んでくれるような空気で、居心地がいいような、悪いような不思議な感じだ。表情にも少し前の皮肉めいた陰りはない。それでいて子供の時の無邪気な雰囲気とも少し違う気がする。
つまり、目の前のカイは同じなのに違う人で、同時に違うのに同じ人――大人になって2人とも変わったのに、一緒に居られる。それがどんなに奇跡的なことか、アンリエッタはよく知っている。
(……そうやって考えたら、少しぐらいのカイの行き過ぎだって、まあ仕方ないか、って思わなくもないのよね)
「構わないと思うんだが」
そんなことを考えて溜息をついていたら、「どうせ1年後には起きることなんだし」と整うだけ整った顔に、下から顔をのぞき込まれた。
「……」
アンリエッタが弱い、幼い頃に重なる可愛く見える表情に、一瞬時が経ったことも状況も全て忘れてしまう。
「寝室に来い」
「……って、引っかかるかっ! しかも最悪なセクハラ! なんてことをしれっと言ってんのよ、最っ低!」
あまりの内容に我に返るなり、額に手刀を落としたが、さっとよけられてムカつきが倍増した。
「違う、同意の上だからセクハラには該当しない」
「はあ?」
睨むアンリエッタにカイはそのひどくきれいな顔でにこりと笑って、「忘れたのか?」と妙な色気を向けてきた。
「その気なら早いうちに始める方が良いだろう?」
ふわりと目元を緩ませる表情と、1歩また近寄ってきて頬へと伸ばされた手の感触、耳へと唇を寄せられて囁かれる声にどきりとする。
「――10人」
「……っ!? ひ、人の告白を逆手に取ろうっての!? この根性悪っ!!」
ざけんじゃないわよっ、と書類の束でカイの額を打ち据えて、再び机越しになるように距離をとった。
「……往生際が悪い」
「――12年」
再び距離を詰めてこようとしたカイに、アンリエッタがそう指を突きつけると、彼は目を瞬かせた後、訝し気に右目だけを眇めた。
「それだけ我慢できたんだもの、あとちょーっとぐらい平気よね? 12年が13年になったって、“たった”1.08倍になるだけ。少数第1位で四捨五入すれば1のまま。だから、あと“ちょーっと”も大事にしてくれるわよね、カイ?」
「……人の告白を逆手に取ろうってのか?」
「「…………ふふふふふ」」」
今日もお互い顔を引きつらせて、息ぴったりに微笑み合う。
当然でしょ、認めるのはあくまで“少しぐらい”の行き過ぎだけ。やっと恋心を自覚したところなんだもの、絶対流されてなんかやらないわ。私だって恋する乙女っぽい、可愛いときめき時間を堪能したいのよ!
ルーディ、見てなさい――農園に篭っての自給自足とトマトの品種改良は諦めたけど、“損”なんて言葉、姉さんの辞書には存在しないの。
失くした野望の対価、きっちりかっちりふんだくって、魔窟に乗り込……違った、嫁入りするからね!
(了)




