第2話
俺の知らなかったこと――色々ある。
「はっきり断られていましたよ、あの時既に」
キーンは臆面もなくそう言い切った。
では、なぜアンリエッタがプロポーズを受けたかのように振舞っていたのか、と不機嫌を露にしたというのに、彼は昔からそうだったように、カイに対してへつらいを見せない。
「殿下に必要なことだったでしょう? 色々考えすぎるようになってから、動けなくなっていらしたようですから」
見透かしたような台詞を口にしながら、キーンは穏やかに笑っていたけれど、その前に彼が一瞬、カイにも覚えのある、痛みに堪えるような顔をしたのを見てしまった。
「おめでとう、幸せになるんだよ」
それなのに、あの日彼はホートラッド国王が去った後、昔のように笑いながらカイとアンリエッタの元に来て、そしてやはり十年以上昔よくそうしていたように、2人を同時に抱きしめた。
彼には一生頭が上がらないかもしれない、そんな風に思う。
「退職金の額と支給方法を訊いていたらしいな?」
あの日、アンリエッタの姿を探して部屋を飛び出したカイに、帰還を知ったトレバーがやはり慌てた様子で事情を訊きにきたこと。
「ああ、トレバーから聞いたの?」
今年の作柄を報告する書類から目を離さずにアンリエッタは呟いた。
「カイが私を選ばなかった時のためよ」
「……」
(つまり、選ばなければ、側からいなくなる気だった……?)
「数字がおかしいわ、後で領主を呼びださなきゃ」
不機嫌になったカイにかまわず、アンリエッタは「む」と小さく唸った。
「リバーズに伯爵とルーディを連れて行ったのは?」
声音を低くすると、ようやく気付いたらしい。アンリエッタは微かに目をみはり、やっと書類から目を離した。だが、カイが機嫌を損ねた理由はわかっていない。きょとんとしている。
「その話? なら、リバーズに農園を買ったのよ。すごくいいところなの!」
それから人の気も知らずにアンリエッタははしゃぎ始めた。
「なんでリバーズなんだ」
「キーンがいるからに決まってるじゃない。治安が保障される土地の価格は下がりにくいもの」
よりによってキーンのいる場所を……、とは言えず、さらに不機嫌になったというのに、あろうことかアンリエッタはそれこそが理由だと得意そうに言い切った。
「すごいの。土が豊かで、小麦も野菜もよく育つの。りんご畑もあるのよ。小さな家畜小屋もあるから、ルーディは乳牛を飼うのですって。農園の端に小高い丘があって、そこに小さいけれど、小奇麗な作りの家があるの。大きな本棚がある部屋があって、父の書斎にもよさそうなのよ」
「そこに住む気で買ったのか……」
(ずっと語っていたアンリエッタの夢――だけど、馬で半日の距離は宮殿勤めには遠すぎる。本当に側からいなくなる気だったのか……)
「……」
いらだちと焦りをついに悟られたのだろう。アンリエッタは、青と緑の混じった不思議な色の瞳でじっとこちらを見据え、数秒後ふわっと緩んだ。
「っ」
その顔に不覚にも心臓が跳ねた。顔が赤らみそうになるのを、全身の神経を集中させて防ぐ。この行為にもこの数年で、もうすっかり慣れた。
「カイが私を選ばなかったら仕事を辞めて、側からいなくなろうと思ったの。だってカイが誰かを愛するのを、側でずっと見ているなんて嫌だと思ったのよ」
アンリエッタは少しむくれたように、照れたように言い、それから、「でも私がいなくなったらカイ、困るでしょう?」と少しだけ寂しそうに笑った。
「将来の懐刀を作るために、側役は王子と一緒に教育を受けるのだもの。だから考え直したの。カイが私のことをそういう意味でいらないって言ったら、辞めて1、2年旅でもして、ほとぼりが冷めたら改めてもう一度カイの側に戻ろうかなって。私のことだもの、採用試験でも何でも間違いなく受かるしね」
そして、「農園はその為に買ったのよ。私が無職になっても、ルーディたちが食べるに困らないでしょう」と肩を竦めた。
「ウジウジしながらずっと側にいたら、私にとってもカイにとっても不毛だもの」
「……そんなに簡単に諦める気だったのか?」
(俺は諦められる気がしなかったのに――)
昔からアンリエッタはカイのためにどんな無理だってする。そしてカイはそうと知っていたから、その彼女のために嘘をつくことを覚えた。
そんな環境をアンリエッタが嫌がるなら、彼女を手放そうと思っていたのに、出来ると思っていたのに、アンリエッタがキーンと消えたと聞いた瞬間、そんな奇麗事はかき消えた。
アンリエッタがたとえ泣き喚いて懇願しても、何をしてでも、縛り付けてでも手放さない――そう全身が訴えた。制御が効く気はしなかった。
「――たとえカイでも私の気持ちを軽んじたら許さないわ」
カイがいくら剣呑さを漂わせようと、アンリエッタは、昔から臆することはない。それどころか、その空気に合わせて視線を尖らせた。
恋人に向けているものどころか、およそ年頃の女性とは思えない、しかも脅されているとしか思えない目つきも声も相変わらず。だが、アンリエッタはその後、頬を膨らませながらも上気させた。
「簡単じゃないわ。でもカイに笑っていて欲しいのよ、それが私の1番なの」
「でも」
「でもも何もないの! カイの好きと私の好きはやり方が違うの!」
そして、「自分の価値観や感覚だけが正しいと思うんじゃない! それを押し付けてくるのはもっとなし!」と昔とまったく同じ台詞を言いながら、アンリエッタはカイをぎろっと睨んだ。
「キーンと王宮で抱き合っていたのは?」
「抱き……」
絶句して真っ赤になったアンリエッタを可愛いとは思わない訳ではないが、その対象の男が自分でないとなると面白くはない。
「い、いつも別れ際にやってることじゃない。大体キーンよ」
「いくらキーンでも、だ。プロポーズまでしてきた男に許すことじゃない」
「……断った後よ?」
気まずそうにこちらを見上げてきた彼女は、それから「カイ」と呼びつつ、含み一杯ににっこり微笑んだ。
「プロポーズどころか夜這いまでしてきたシャイライン王女に、何度も抱き付かれてなかったかしら?」
「「…………ふふふふふ」」
引きつった笑みをお互い浮かべて笑い合う。
――知らなかったのは、自分の内にあった激情。
アンリエッタが望むならば自由にさせよう、そう思っていたのに、彼女がいなくなると実感した瞬間、この世のすべてを壊してでも彼女を繋ぎとめようと思った。
カイは机に座ったままのアンリエッタにゆっくり近づく。
一瞬で強張った彼女に、『セクハラも何もかも平気なくせに……』と内心で笑う。こういうところは本当に可愛らしい。
「ちょ、ちょっと待……」
おろおろする彼女の顎に手をかけ、上向けると、言葉を封じるように口付けた。
――知らなかったのは、その唇の、脳髄を痺れさせるような甘い感触。
長い口付けの後、カイはアンリエッタの潤んだ瞳をじっと見つめる。
「……カイ」
――知らなかったのは、甘い、可愛らしい声と、そうして彼女に望まれる陶酔感。
「アンリエッタ、」
両手で顎を包み込むようにとらえ、どれだけの間見つめていても飽きない、青とも緑ともつかない瞳をのぞき込むと、カイはここ数年、呼ぶことも出来なかった名を改めて音にした。
「――412,438ソルドプラス違約金4,124ソルド」
「イコール416,562ソルド」
ソルドという言葉と数字の組み合わせを耳にした瞬間、どんな状況でも一瞬で勘定ができるのはまさにアンリエッタだ。
その後、ようやくアンリエッタは顔を引きつらせた。
「……カイ?」
「ちゃんと口座に振り込んでおいたぞ」
(アンリエッタのことだから、知らない間に財テクでもして稼いでたんだろうな。何のために低い給料に抑えていたと思ってるんだ。全く油断も隙もない)
「何をしたの……」
さっきの甘い、可愛らしい声はどこへやら、アンリエッタの声にはドスが利いている。だが、甘いな、今更そんな声に怯えるような間柄だとでも?
「本契約までしていなかったのは迂闊だったな。地主は即金500,000ソルドで快く俺と契約したぞ」
「はあ!?」
「ああ、心配しなくても、伯爵とルーディはあそこに居ていい」
「…………な、なんてことを」
理想の場所だったのに……とアンリエッタが呻く。
(――だからだ)
カイは呆然とするアンリエッタを抱き寄せ、包み込む。そして、腕の中から上がり始めた欠片の色気もない唸り声に、低く笑って返した。
「だが、アンリエッタが俺の許可なしにあそこに行くことは認めない、一生」
――そう、絶対、逃がしてやらない。
「……っ、しょ、性悪王子っ、さいってーっ! しかもまた値切ってないのねー!!」
だから逃げられない、そう覚悟を決めることだ、アンリエッタ。
明日午前で最後です。