第1話
私の知らなかったこと――そりゃあもう色々。
まず、内々に打診のあったミドガルド王国王太子カイエンフォールとホートラッド第2王女シャイラインとの縁談は、これまた内々に断りを入れてあったらしい――半年も前に。
「どこぞの女性から結婚を申し込まれたけど断りましたって、いちいち言えって言うのか?」
「国政に関わることじゃない」
「アンリエッタならそう言って賛成しそうな気がしたから、言わなかったとは思わないか?」
半眼を向けてきたカイに、まったく言い返せなかった。
シャイライン王女との話にしたって、条件だけ見れば、ミドガルドにとっても王太子にとってもいい話だ。文書で見たり、話として聞いたりだったら、賛成していた気がする。
それどころか「性悪に性悪、王子ならあの王女とでもやってけるでしょ」とか言いながら、王太子の執務補佐官として承諾の手紙を嬉々と代筆していたかもしれない。
「救いがたいほど鈍い」
視線を泳がせてしまったアンリエッタをカイは見逃さない。追撃を食らったが、反論できず歯噛みする。
「ま、まあ、いいわ。弱点を認識すれば、その後は対策が打てるし」
「気付かないものにどう対策を打つんだか……見物だな」
胡散臭そうなものを見る目で、人の自己改善への意欲に水をさした性悪には、いい加減鉄槌を下しておいた。
あ、婚約に甘えて態度を変えたわけじゃないわよ? この謙虚で万事控えめな私がそんなことするわけないじゃない。
ただ最近考えを改めたのよ、周囲の者のストレス軽減に配慮するのも、上に立つ者の務めなんじゃないかって。それを殿下に身を持って実践していただいているだけなの。
執務補佐官になってから、ものすごくいい子にしていた間に溜まってたストレスを解消してやろうとかぜんっぜん思ってないわ、多分。
ちなみに、カイの縁談は10年以上前からあったらしい。考えてみれば当たり前の話だ。王位継承争いの渦中にいたのだ、本人より周囲があの手この手を使って、立場を安定させようとするはず。今まで婚約すら1件も成立させないでいられたのは、それこそ奇跡みたいなものだろう。
「ねえ、でもどうやってそんな話、片付けていたの? 私は全然聞いたことがなかったわ」
「……」
(ちっ、昔から強情は強情だったけど、輪をかけたのは直らないままなのね)
けれど、どうやってそんな話をかわしてきたか、カイは頑として口を割らない。
彼が口を割らないと言えば、アンリエッタが側を離れていたこの半月間のこともそうだ。
そっちがその気なら、と主君の機嫌を気にしない、いい性格の護衛のアゾットに水を向けたところ、
「王女さまから、そりゃあもう熱烈に求愛されてらっしゃいました」
と楽しそうに教えてくれた。なんでも夜這いとかもあったらしい……。
「遠目に拝見いたしましたが、必死に逃げ……身を隠しておいでの殿下のご様子がそれはもう楽し……お労しくてお気の毒で、わたくし、その晩は枕を涙で濡らしました」
とは、やはり主君を主君とも思わない、カイの乳姉マーガレットの談。
「……ちゃんと丁重にお帰りいただいた。8年前も今回も」
「8年前……?」
主人で遊ぶ、心ない護衛と乳姉をブツブツと罵った後、そっぽを向きながらカイがしぶしぶ放った一言に、アンリエッタはあろうことか固まった。
「って、私が10歳、カイと彼女が9つ……」
(そういえば、“下々の者”って感じでそれまで眼中にもないようだったのに、ある朝起きたら、いきなりシャイライン王女からの嫌がらせが始まったんだっけ……。深く考えてなかったけど、よ、夜這い……?)
「……」
あの王女、敵ながら天晴れと言うべきかもしれない――思わず表情を窺った先のカイがどこか遠い目をしているのを見、アンリエッタも頬をピクつかせた。
その彼女を巻き込んでの今回の引っ掛け劇の幕は、とっくの昔に上がっていたらしい。王女と、「それでも」という彼女の我が侭に手を焼いたホートラッド国王の申し入れを利用してやろうと考えたうちの狸たちの手で。
狸の名は、国王にセイルトン国王補佐官、マロール公爵というおなじみの面々に加えて、次期外交大臣のムルド伯爵――完全に油断していた。真面目で硬そうな人だったし、深い付き合いがなかったから、まさか彼まで悪に染まっているとは思ってもみなかった。一生の不覚以外の何物でもない。
あの日の数週間後、宮殿で「おー、チビ、じゃなかったな、1年後には王太子妃さま、だ」と、人の顔を見るなりにやっと笑ったのは、そんな狸の1人。
「……あの夜会から引っ掛けてたのね? この狸爺」
取りつくろう必要も今更感じられなくて、露骨に睨んでやったのに、今この国で1番の勢力を誇っているマロール公爵はいきなり悲しそうな顔をした――はっきり「演技」とわかる胡散臭さで!
「分かるわよ、公爵、あんたそれもわざとでしょう……っ。覚えときなさいよ……?」
低い声を出したアンリエッタに、彼は「ああ、何てことだ……」とこの期に及んで、よよと泣きまねをした。
「幸せの絶頂にいるはずの婚約内定直後って乙女が、伴侶もない哀れな年寄りをギラッと睨んであんた呼ばわりした挙句、ドスの利いた声で脅しを……俺は悲しみと恐ろしさの余り、今夜も眠れん……」
「可哀相な年寄りは、か弱い乙女を謀ったりしないんじゃなくて? 眠り足りないなら、ほら、そこの茂みでいつものようにどうぞ。毒蜘蛛でも撒いておいてさし上げるわ」
「本当のか弱い乙女が、自分でそんなこと言わねえのと同じだな。しかも毒ってお前が言うと洒落に響かねえ」
「洒落じゃないって言ったら? ああ、でも毒には毒を以って制すって言葉があったし、効きそうにないわね、公爵」
「おう、解毒剤の不要な者同士、仲良くしような、チビ」
そのくせ次の瞬間にはにっこり笑い返してくるあたりが返す返すも憎たらしい。……のは、事実なんだけど、
「まあ、何にせよいい感じに納まっただろう? 俺たちはお前らにかけてんだ。どうせなら楽しくやれよ」
「……」
そう言いながら、乙女の頭をぐちゃぐちゃにして笑えちゃうあたりの神経は、反則だと思う。
「それにしてもキーンは意外だったなあ、役に立ったけど。それにしてもいるもんだなあ、殿下以外にも物好……いでっ」
もちろんしっかり蹴ってはおいた。
あとは、贈られたドレスと首飾りとカイの衣装の関係。
「部屋の入り口でアンリエッタを見た時、殿下の気持ちもアンリエッタの気持ちも分かったよ。紫は彼の色だから」
正直まいったよ、とキーンは苦笑した。
「アンリエッタは無意識なのにそれを選んだみたいだし、ドレスと首飾りが『俺のものだから近づくな』って殿下に代わって主張しているみたいだったし」
それでも諦める気はなかったんだけど、と続ける。
「決定打は迎賓の間で殿下の衣装を見た時、かな。彼の衣装は白と銀とエメラルド……アンリエッタの色だろう?」
(……ひょっとしてカイと踊っていた時の周囲のざわざわはそういうことだったのかしら?)
真っ赤になったアンリエッタに、キーンは「今更顔を赤くしても仕方なくない?」と以前と変わりない様子で、からかうように笑ってくれた。彼には一生頭が上がらない気がする。
「僕のことだけじゃなくて、殿下のことにも自分のことにも気づいていなかったとはさすがに予想外だったなあ」
だからその彼にそうしみじみと言われても、テーブルに突っ伏すしかなかった。自分のバカさ加減への罰として、甘んじて受け入れようと思う。
とどめは……。
「殿下のあの視線を無視できるのは、この世で姉さんだけだと思う」
ルーディはそれでよく居たたまれなくなっていたそうだ。7つも年下の、めちゃくちゃ可愛い弟に疲れたようなため息をつかれながら言われると、さすがに効いた。
「おや、私はもうとっくの昔にお嫁に出したつもりでいたよ。実際そんなものだっただろう、まさか今の今まで性根が決まっていなかったなんて考えてなかったなあ、あはは」
などと笑った父はとりあえず蹴っておいた。
その台詞のせいでも、「元はお父さんが甲斐性なしだったせいでしょ!」と思ったからでもない――彼の背後に哲学大鑑を見つけたからだ。
しかも10,000ソルド――値切ってもいない世間知らずのボンボン丸出しの根性も気に入らないけど、そもそもあんなに駄目だって言ってあったのにいつの間に!
――そんな感じで結論付けるに、どうやら「アンリエッタ・スタフォードはどうしようもなく鈍かった」ということになるらしい。
(鈍い、この私が。幼少の頃から大人の様々な思惑を搔い潜りつつ、小金を稼ぎ、宮殿生活をそつなくこなしてきたこの私が鈍い……)
あれこれ聞かされて、そう認めざるを得なくなったアンリエッタは、今人生で最大に落ち込んでいる。
「……婚約が決まったんじゃろ? “幸せいっぱい”に見えんが……」
「婚約なんかアイデンティティ崩壊の危機の前では大した問題じゃないのよ、トンプソン……」
「……」
報告がてら馴染みの庭師を訪ね、肥料運びを手伝いつつ愚痴れば、彼は同情を込めた目で、横で手を貸してくれているカイを見た。これも気に入らない。
カイ視点は夜(予定)に。