第2話
(なんでこんなことに……)
再びアンリエッタに背を向けたカイの向こうで、キーンまでが腰の剣を抜いた。最高に性質の悪い悪夢にしか思えない。
「私が勝ったらアンリエッタを貰い受けます」
「絶対にさせない」
人気が途絶えたままの王宮の中庭に、2人の声が響く。全く違う質の声なのに語調の強さだけはひどくよく似ていて、一語一語が直接アンリエッタの鼓膜を打ってくる。
(何を勝手なことを……。人を物みたいに扱わないでよ……)
「……」
そう怒鳴りたいのに、喉の奥がひりついたように声が出てこない。
2人がお互いに向けているのは、これまで一度も見たことがない、恐ろしい顔だ。想像したことすらない。知らない人たちであるように思えて、アンリエッタは思わず身震いする。
剣を構えた2人は間合いを保ったまま、じりじりと円を描くように立ち位置を変えた。
(っ、そんなことをしてくれる必要はないのに……)
どちらかの目に直接夕日が差し込むのを防ぐためだと気付いて、不意に泣きたくなった。
示し合わせたかのように、2人同時に踏み出した。彼らの足元で、土と細かい砂利が音を立てる。金属の塊がかち合う音が静寂を切り裂いた。
「……っ」
止めることどころか、声をかけることすら出来ないまま、結局打ち合いが始まってしまう。
それぞれのブーツが乾燥した地を踏みしめ、土ぼこりが立つ。
重い金属が空気を掻き分けて進む音が聞こえる度に身を竦ませ、鋭い切っ先が相手の剣に弾かれて空気が震える度に胸を撫で下ろす。
剣を押し込み合う中、噛み合わされた刃が耳障りな音を立てた。それ以上の音量で2人の荒い呼吸が響いてきて、それに本人たち以上に息苦しくなった。
影から空間を割くような鋭さで繰り出された刃が、赤の制服を切り裂くのに息を飲み、夕日に部分部分を輝かせる鋭利な剣尖が、銀の髪を凪ぐのに心臓を凍らせる。
「……」
声をかければ均衡を乱してしまいそうな接戦は、1歩間違えば大怪我ではすまないというもので、本当に恐ろしい。なのに……奇麗、だった。
すべては自分の失態のせいだ。不謹慎極まりないし、それ以上にそんな資格はないというのに、彼らの姿に目を奪われてしまう。
そして――
「……」
いつの間にか、そのうちの1人をずっと目で追ってしまっていることに気付いて、アンリエッタは顔を歪ませた。
(どうして……)
「……カイ」
(どうして、もっと早く気付けなかったんだろう。どこまで馬鹿だったんだろう……)
傾いた日差しに髪を赤く反射させながら、カイは感情をむき出しに、キーンへと剣を躍らせる。瞳も表情も、皮肉に笑っている時より、作られた笑みを零している時より、はるかに綺麗で見蕩れてしまう。
誰よりよく知っているはずなのに、全く知らない人に見えた。
いつの間にこんなに強くなったのだろう。ちょっと前までアンリエッタとさほど変わらなかったはずだ。背だってアンリエッタより低くて、体つきもずっと華奢だった。
そんな風に感情をむき出しにすることがあるなんて、知らなかった。ずっと一緒にいたのに……。
『誰にも渡さない』そんな風に言うなんて思ってもみなかった。1度だってそんなこと口にしなかったのに……。
騒動に気がついたらしく、人が集まってきた。ざわめきが大きくなっていく。
「あれ、殿下とオルッセンの長男じゃないか……何をしてるんだ?」
「稽古、か? 昔はよくここでやってたけど、何だって今」
好奇と訝りの目線を感じるのに、このままじゃまずい、ひどい醜聞になってしまう、なんとかしなきゃ、とも頭の片隅で思うのに、それでもカイから目が離せない。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
周囲から溜息が零れるほどにカイはキーン相手に善戦していた。互角に見える。だが、あくまで“善戦”だった。
違いは本当に些細なことで、わずかな1手でカイが完全な防戦に回るだけ。対するキーンは、どんな手でも必ずどこかに次の攻撃に繋げられる余地を残していて……きっとその小さな差は大きいのだろう。勝負が長引くにつれて徐々にカイが押されていく。
(ああ、やっぱりキーン、すごいのね。本職だし、近衛の中でも有数の使い手って言われているくらいだし、当たり前か……)
「…………馬鹿、ね。知ってるはずじゃない」
カイだってわかっていないはずはない。それでも1歩も引こうとしない、彼の紫の瞳を見つめているうちに、無意識に彼の名が唇の間から漏れた。
「……っ」
自分の耳に届いたその音に顔を歪ませる。
(これでキーンが勝ったら……? その時は……)
「……」
不意に全身が冷えた。
聞こえていた剣の交わる音も、激しい息遣いも、彼らの動きの度に生じている周囲のどよめきも全てが遠ざかる。
『私が勝ったら、アンリエッタを貰い受けます』
(そういうことになる、の……?)
(それ、は……)
『この先の一生を共にしていただきたい』
『ずっと一緒だ、アンリエッタ』
『そのまま想っていていい。それでも必ず幸せにする』
『アンリエッタがいれば、それだけで十分なんだ、俺は』
記憶の中、2人の顔が思い浮かんでは消えていく。
繰り出されたカイの剣へと自らの剣をかち合わせ、押し込んだ直後、キーンは力の軌道を脇に逸らした。カイの重心が狂う。
キーンは即座に間合いを詰め、剣をカイの頭上へと振り上げる。
(っ、速い……っ)
顔を歪めたカイが膝を落とす。剣を上へまわし、迫り来る刃を受け止めようとするが、間に合わない――そうわかった。
――ジャア、ワタシハ、キーンノモノ……?
「っ」
世界が真っ白になった。
その中に真っ先に浮かんだのは、泣きたくなるくらい情けないことにいつもと同じ――。
『ずっと一緒だ、アンリエッタ』
『当たり前じゃない、ずっと一緒よ、』
(そう言って一緒に笑ったじゃない、約束したじゃない……っ)
「……っ、カイ……っ!!」




