第3話
結局何事もなく調印式は終わった。というか終わらせた。
カンゼルク外務大臣とアンリエッタが計画を練り、苦心して根回しして、神経をすり減らしつつ、関係者と渡り合って合意に持ち込んだのだ。間違っても今更ごねるなと他国の外交大臣たちを脅し……念押しして回った。当たり前だ。外交に力を尽くし、ミドガルドを守ってきてくれた老外務大臣の花道を汚そうというなら、絶対に許さない。
ちなみに、王子とはこの10日ほどほとんど話をしていない。王子は今通常の仕事をほとんどしていないし、今回も四六時中シャイライン王女が彼の側にいるらしいから。
「……そんなものよね、普通」
ふと彼が望まない限り、仕事がない限り、一緒にいることが出来る時間はとっくに終わっていたのだと実感させられた。それに今更気付いた自分に笑いが零れる。
渡り廊下を歩いていたアンリエッタは足を止めた。
瑞々しい午前の日差しが柱の影と交互になって、光のカーテンのように見える。
陽光の中に立つシャイライン王女が、アンリエッタには表情が見えない影の中のカ……王子へと輝かしい笑顔を向けている。
* * *
鬱々とした気分のまま、アンリエッタは今、今夜開かれる協定成立を祝う夜会の準備中だ。
「やることやったんだから、さっさと帰れっての。滞在費だって式典の費用だって馬鹿になんないのに、その上めんどくさいって最悪だわ。お金に時間、加えて手間の浪費、大罪そのものね」
国庫から見ても個人的にもそりゃあもう迷惑極まりない、と顔を顰める。
「あら、その割にコルセットを新しくなさったのでは?」
「……なんで知ってるのよ?」
シャイライン王女を嫌い、彼女が来てからずっとアンリエッタのところにいるマーガレットは、睨まれているというのに、欠片も動じずにっこり微笑む。
(くっ、大抵はこれで目線を逸らすのに……その神経の太さ、誰かを思い出してほんっと嫌になるわ、マーガレット……!)
「色気は相変わらずのようですが」
「うぐ」
しかもコルセットの締め付けをぎゅっと厳しくしながら、ため息と共に彼女が視線を注いだのは……。
「……」
(……うふふ、ルーディ、姉さんの残りわずかな乙女心は今日もずたずたよ?)
「二重の意味で無駄な出費ですね」
「……」
含みで一杯の輝かしい笑みも憎たらしいなら、この私、アンリエッタ・スタフォードにむかって「無駄」と説くその性根も……ああ、でもそんなことは今大して問題じゃない――マーガレットが首を傾げた拍子に、あてつけのように揺れた彼女の胸に比べれば!
「新しいコルセットも効果がないようですし、いっそ詰め物でも入れてみますか?」
「……近々訴えてやるわ、マーガレット」
眉間にはっきり青筋を立てて返した答えにすら、マーガレットは「うふふふ」と可憐に笑い、化粧箱をしまった。
間違いない――彼女とやつの間には、血よりよほど濃い繋がりがある。
マーガレットが室外に出て行って、周囲が静まりかえった。そうなると、他に特にすることもなくて、アンリエッタは鏡の中の自分を見つめる。
「……」
いつもの事ながらマーガレットの腕はおそろしくいい。性格はあんなだけど。毎回別人に見えるくらい美人にしてくれる。
「やっぱりきれいな色……」
今アンリエッタの身を包んでいるのは、以前何を思ったか王子がくれた、けれど一度も袖を通していなかった薄紫のドレスだ。ホートラッドの北方の少数民族が、家内工業的に細々と生産している、極めて稀少な絹で出来ている。
手触りが良くて、ドレスの作り自体はシンプルなのに、ところどころに光沢を際立たせるドレープが寄せてあって本当に豪華に見えた。
実際高いのだ。会計官を締め上げて値段を吐かせた結果はなんと15,000ソルド――1万5千! 月給3か月分!!
値切っていない金持ち然とした神経にもむかついたけれど、「どうせなら現金で……!」とその場に崩れ落ちて悔し泣きに泣いたことを思い出す。
そんなこんななムカつきと、本人には口が裂けても言わないけれど、実はものすごく好きな色だったということもあって、もったいなくてなんとなく着れないままクローゼットの肥やし状態になっていたわけだが……。
「でもまあせっかくだし」
大きな仕事をまとめた後なのだ。太子からの贈り物を一度も着ていないというのも、考えてみれば無礼な話だし。
「……そうよね、大体使わなかったら無駄だもの。無駄! なんて嫌な言葉!」
そう結論付けると、アンリエッタは両手で頬をパシパシ叩いた。辛気臭い顔が少しマシになればいい。
「アンリエッタさま、これを」
マーガレットが革張りの箱を手に戻ってきて、そこから大小とりどりのアメジストとエメラルドで彩られた華奢な銀鎖の首飾りを取り出す。そして、丁寧な仕草でそれを首周りに付けてくれた。
「……」
あつらえて作ったかのように、完璧にドレスに合う。が、ものすごく高価なことが一瞬でわかって、アンリエッタは顔を引きつらせた。
石はそんなに大きくはないが、それぞれがひどく上質だし、全体の細工だってありえないくらい細かい。
「これ、どうしたの……」
「カイエンフォール殿下からです」
「……え?」
「その緑の石、アンリエッタさまの瞳にもドレスにもよくお似合いですよ」
そう言ってマーガレットは、再び鏡の中で微笑んだ。
(なに、よ、それ……? このドレスを私が選ぶってわかってたってわけ?)
胸元で光る、繊細なのにひどく存在感のある首飾りを見つめた。
「……」
(私のというより、紫の宝石がカイの瞳そっくり……)
そう思ってしまって、眉をひそめた。
(こんなのより現金の方がずっといいって、前も言ったのに、馬鹿王子め。お金さえ溜まったら、こんなところさっさと見切りをつけて、リバーズとか郊外の都市でそれなりの大きさの農園を買って、小麦を育てて、鶏も飼って、トマトも作って、品種改良しながら、ルーディや父さんと平和に暮らせるんだから)
そうなったらあんな性悪に悩まされることも、こんな風に色々考えることもなくなる。
「……」
確かにそう思っているのに、なぜ鏡の中の首飾りから目が離せないのだろう――。
「アンリエッタ、迎えに来たよ」
今日のエスコートを頼んだキーンの声に我に返った。
王子は当然と言えば当然、シャイライン王女のエスコートをする。
(ずっと会うのを避けていたけど、今日はさすがに無理ね……)
そう思った瞬間に、鏡の中の自分の顔が歪んだのが見えた。
誰を避けていたのだろう? シャイライン王女だろうか。王子? それとも……。
――カンガエテハイケナイ
アンリエッタは咄嗟に思考を停止する。答えが出てしまえば、引き返せなくなると頭のどこかが叫んでいる。
ゆるゆると立ち上がって、キーンの待つ入り口へと歩く。
「キーン?」
その場所でキーンが目を見張り、口を押さえてこっちを見ていることに気付き、首を傾げた。
「あ、ごめん、ちょっとびっくりして……うん、本当に奇麗だ」
気を取り直したらしいキーンがアンリエッタへと歩み寄って来た。その彼に、「とても奇麗だよ」ともう一度微笑まれて頬を撫でられ、思わず真っ赤になった。
「あ、ありがとうって言うべきなのよね、これ」
相変わらず天然でたらしだ。こんなに気が利くのに、なぜ婚約話が次々に消えていくのか、さっぱり理解できない。
それから彼はアンリエッタの胸元の首飾り、そしてドレスへと目を移した。
「……それ」
「?」
低い声に彼の顔を見上げれば、キーンは珍しく複雑な表情をしている。
「どうかした?」
「……いや。さて、そろそろ行こうか?」
すぐにいつもの雰囲気に戻った彼の笑顔は、相変わらずひどく優しくて、なんだかほっとした。
「ごめんね、忙しいのに無理言っちゃって」
キーンは王都での任務を今日の午後で終えていて、今晩中に赴任地のリバーズに戻る予定だった。それを引き止めたのはアンリエッタだ。
「他ならぬアンリエッタの頼みであればなんなりと。むしろ誘ってくれて嬉しかったよ」
そう言ったキーンが繋いだ手の甲に口付けを落とし、茶目っ気一杯に笑うのにつられて、アンリエッタも微笑みを零す。
キーンには悪いけれど、無理を言ってよかった、と思ってしまった。色々なことを察していながら、こんな風でいてくれるキーンが一緒にいてくれれば、今日を何とか乗り切れる気がする。
正直に認めよう。今日の夜会を無難に乗り切れるか、アンリエッタにはいまいち自信がない。我ながら情けないぐらい弱気だが、そういう時に無理したり意地張ったりした挙句、無様に失敗するなどという失態は、王太子付き執務補佐官に許されることではないのだ。
いつだって冷静に自分のことを量って、弱点があるなら、それをフォロー出来るように可能な手を打っておく――
(そうじゃなきゃ、こんなとこで生き残っていけないもの)
だからこの先の数時間だけ、それだけでいいのだ。気合を入れて隙を作らず見せず、完璧にすべきことをまっとうする。
「……よし、ちゃちゃっと行って、やることやって、とっとと帰ってきましょう、キーン」
彼に絡ませる腕に知らず力が入った。




