【猫の化け方】第1話
呼び出されて訪れたセイルトン国王補佐官の部屋は、本宮殿の国王執務室の横にある。奥の大きな窓の向こうに、混沌とした古い町並みが広がっているのが見える。東寄りの場所にある首都ミドガルドの象徴である人造湖が秋の終わりの日差しを照り返し、目にまぶしい。
交易の要衝として始まり、1,000年以上の歴史のある町だ。計画立って見えるのは、当時から続く幾条かの街道だけ。そろそろ区画整理をしなくてはいけないかも、なんて話をカ……王子としていたことを思うともなしに思い出した。
「今更調印式に向けてすべき事務などありません」
代わり映えのしない挨拶を交わした後、この部屋の主に、ジュリアード補佐官補に王子の補佐を任せ、そちらに集中するよう告げられ、アンリエッタは間髪をいれず返す。
「……」
(言いたいのは別事のくせに)
セイルトンが白くなった眉を寄せるのを白けた気分で、けれど表には出さず見つめた。もっとも相手が相手だ。絶対に気づいている。
「……スタフォード王太子補佐官。君はこの命令の意図を理解できるはずだ」
ホートラッド国シャイライン王女との縁談に向けて、彼女が目障りにしているアンリエッタ・スタフォードをミドガルド国カイエンフォール王太子から引き離しておく――。
「さて」
アンリエッタはとぼけて見せつつ、乾いた笑いを口の端に載せた。
理由を明確にしないまま、相手に意図を察するよう仕向けた上で、自分が権力を持っていることをちらつかせて暗に相手を脅し、意図に従わせる。何の言質も与えていない以上、万が一の場合、自分に火の粉が飛ぶこともない――アンリエッタにこのやり方を教えたのは、他ならぬ彼だ。だからこそ自分がその対象にされるのは癇に障る。
「理解と納得は別物だとご存じなのでは?」
意趣返しを試みたアンリエッタに、セイルトンの元々険しい顔のあちらこちらに皺が寄り、さらに厳しい表情となった。何十年と国政に携わってきた者の持つ威圧的な雰囲気が肌を打つ。
(でも、お生憎さま。そんなことぐらいで萎縮できるほど、か弱い神経してないのよ。それこそ知っているでしょうに)
アンリエッタは彼の灰色の瞳を傲然と見返した。アンリエッタとて、こういう駆け引きをどうこなすかぐらい、とうの昔に学んでいる。
「……一部からそう言った要望が強く上がっている」
「その一部とは?」
『故意ににごした言い様の部分は必ず追及して、どこまでも発言の責と意図を突き詰める。こちらに正当性がある限りはそれでいい』
(――そう言ったのもあなたじゃなかったかしら?)
無表情に訊ねたアンリエッタを前に、セイルトンは目を眇めた。
アンリエッタはもちろん答えを知っている。ホートラッド国と、かの国とのつながりを求める者たちがそう要望しているのだろう。カ……ミドガルド国太子に執着するシャイライン王女のご機嫌取りのために。
「……」
そのまま沈黙が降りた。
いつも余裕風を吹かせているセイルトンの顔が、ついに苦々しく歪んだ。その辺の政治家ならば裸足で逃げ出すと評判のその顔を、怯むことなく見返す。
アンリエッタには自分のすべきことをしているという自負がある。
(ミドガルド太子の補佐官が女で、他国の王女がそれを気に入らないから、なんて人を馬鹿にした理由で仕事の責から退けと言われるのであれば、引き下がる道理は、)
「――アンリエッタ」
「っ」
大きく息を吐き出した彼に、役職ではなく名を呼ばれた瞬間、身体が震えた。失態以外の何物でもない。セイルトンは絶対に気付いたはずだ。
――ヤメテ、ミツケナイデ
体表から血液がひいていく。
「私がこんなことを言うのは、殿下の補佐官に君が相応しくないと思うからでもなければ、一部の者たちが言うように君が女性だからでもない。圧力に屈したわけでもない」
「っ」
膝の上で握ったこぶしが痙攣し始める。
――ヤメテ、アバカナイデ
「アンリエッタ、君はこの要求を受けるだろうよ。国のために、何より……カイエンフォール殿下のために」
「……」
――ソンナキヅカウヨウナコエデイワナイデ……
* * *
「どういうことだ?」
王子の声はひどく平坦だった。本気で不機嫌な時の声音だと分かってしまって、アンリエッタは内心で苦笑を零す。滅多にないことだと知っている。
「申し上げたとおりです。当座、私は調印式の準備にかかりますので、明日からジュリアード補佐官補が殿下にお力添え申し上げます」
「今更調印式に向けてすべき事務などないだろう」
(……長い付き合いってほんと嫌、まったく同じ台詞じゃない)
「事前の外務大臣折衝で大分無理を通しましたから、不満を持つ国もあるようです。完璧に根回しをしておこうかと」
しれっと嘘をつけば、王子の右足のつま先が床を叩いた。それの意味が分かってしまうという事実もまた胸を刺す。
「誰に何を言われた?」
「誰にも何も」
視線を感じる。だけど、目を合わすわけにはいかない。長い付き合いなのだ、目線から読み取れてしまうことは互いにたくさんある。
ホートラッド王室、中でも正妃の娘であるシャイライン王女との縁組はミドガルドを、そして、王子その人の立場を強化する。
ホートラッドでは三年前、妾妃に太子が生まれたが、彼女の実家にはその子を支えきるだけのものがないという。
対するホートラッド正妃の実家は古い公爵家だ。内証が豊かなこともあって、奪われそうな権力を手元に置くために、今回の縁談を是が非でも成功させたいらしい。既にうちの国の貴族たちにかなりの便宜を図っているようだ。
成就すれば、その援助はすべて王子に向くだろう。ホートラッド国の後ろ盾とあわせて、現時点で王子にとって最良の縁談相手の1人であることに間違いはない。
「話せ、なんとでもしてやる」
「……っ」
弱まった声音につい顔を上げてしまった。彼の顔に浮かぶ気遣いに気付いてしまい、アンリエッタは自分の迂闊さを激しく呪った。
本当はずっと知っているのだ。根本は昔から変わってない。カイは優しいままだ。アンリエッタが困った時は、こうしていつも手を差し伸べてくれた。一緒にいてくれた。
だからこそ、それに気づいていないふりをしなくてはならない。
(だってそうでもしないとカイは、いつまでも誰かに狙われ、何かに追われなくてはいけない――)
「お話しすることは特に何も」
慣れきった感覚で表情を作って、敢えて興味なさ気にそう言い切った。
「意味を分かっていてやっているのか」
「……」
王子の顔から表情が消えた。彼がどういう心境の時にその顔を見せるか、知っている。
アンリエッタは勝手に戦慄き出そうとする唇を抑えるため、その場所を引き結んだ。
「よく分かっています」
アンリエッタの行動は、王子とシャイライン王女の縁談を薦めるものだ。そして、そのつもりでやっていると、今はっきり王子に伝わった――。
今回だけじゃない。次の縁談は、国内で最も有力な貴族であり、王子の強力な支援者であるマロール公爵の孫娘だろうか。その次はホートラッド以外の国の、王家より少し格下の娘あたり……。そうしてずっと続いていくのだ。彼が王太子、そして国王であるかぎり。
そうしなくてはならないとアンリエッタは誰より知っている。だってそうして後ろ盾を強化していかない限り、カイはいつか死んでしまうかもしれないから。
「……いいのか」
「仰る意味が分かりません」
声が震えそうになった。それに焦っていることにして、彼の問いの意味を考えないようにした。なのに――。
「アンリエッタ」
「っ、しごと、ですから」
(なんで……なんでこういう時だけ、名前を呼ぶの――)
アンリエッタは両脇に下した拳を痛いほど握り締めつつ、王子から顔を背ける。
「そうか。なら、もう今日からそっちの仕事に専念していい」
その声はこれまで聞いたことがないほどの怒りと失望を含んでいた。




