第2話
王子と連れ立って、王都で一、二を競う広大な敷地のマロール公爵邸を訪れた。
「いつもながらあの腹黒狸親父の根城とは思えない。普通にちゃんとしてる……」
「仕える相手があれだからこそ、下が常識を意識せざるを得ないんだろう。俺のような主君でよかったな、アンリ」
「アンリエッタ!です。それはそうと、今まるで殿下が常識人であるかのように聞こえました」
「これは失礼。非常識な人間には常識ある人間こそが理解できないのだった」
「うふふふふふ、“常識”の意味を辞書でお調べになっては? それこそ常識を疑われましてよ?」
「うふふふふふ、君に“常識”を説かれるとかあり得ない。なるほど、辞書に頼ったほうがよさそうだ」
などと眉間に青筋を立てつつこそこそ会話し、会場である広間へと案内を受ける。
「カイエンフォール・ミドガルド殿下、ご到着です」
会場入りを告げる声と同時に、人々の目が一斉に王子に集まった。
手始めにアンリエッタは、王子めがけてわらわらとやってきた、下心すらまともに隠せない、つまりは利用のし甲斐がなさそうな連中を適当に煙に巻く。次にいい値がつきそうな花瓶に目をつけ、さっきの人たちより少し頭の切れる面倒な相手をにこにこと笑いながら牽制する。
続いて、頭上に輝くガラス製の燭台の質の高さに目を留め、それがいくらぐらいかざっと計算し、マロール公爵とその息子の伯爵夫妻に作法に則って挨拶をしたその後――。
「まいりましょうか、アリアンヌ嬢」
「はい、カイエンフォール殿下」
公爵の息子の申し出で、彼の娘が王子に手を取られ、ダンスへと誘われて行った。
「……怖すぎ」
彼女の美しく上気した頬、うっとりと王子を見つめる潤んだ瞳、口元にほのかに浮かんだ少女らしい笑みを見ながら、アンリエッタはぼそりと呟く。
「完全に別人じゃない」
さっき王子と一緒にいたアンリエッタを刺すように睨んだ子と彼女が同一人物だとはとても思えない。
「お前さんにはできん芸当だなあ、チビ」
昔宮殿で出会った時のまま人を呼び、にっと笑って近寄ってきたのが、古狸を地で行くマロール公爵だ。
「……さっき挨拶した時の礼儀と威厳はどこにやったのよ?」
「もう使い果たした。ほんとやってられん、お前も付き合え」
「やっぱりそれが目的なわけね」
「おう、お前ぐらいだからな、“公爵さま”からの夜会の招待状を嫌っそーな顔して受け取るのは。俺はそれを見るのだけが楽しみで」
睨むアンリエッタに臆面もなくそう言い切る図太さが、返す返すも憎ったらしい。
「それで、先の短い老いぼれに息抜きぐらいさせてやろうとは思わないかね、見た目だけは可憐になったアンリエッタ嬢?」
「まあ、新手のダンスのお誘いですわね、世に憚ること間違いなしなマロール公爵?」
お互いにっこり作り笑いを向け合って、でも数拍の後にげらげら笑い出すあたりは、まあやりやすい相手だ。
(私も息が抜けるわ。けど……)
「足は踏まないでくれると、ありがたいんだがな」
「……うふふ、外聞の悪いことを仰らないでくださる?」
「外聞なんか気にする殊勝な性格してねえだろ」
(ちっ、やっぱり読まれてるか)
こういう所がほんと侮れないのよね、とアンリエッタは片眉を顰めた。
「カイ殿下、ますます男前になったな。見ろ、あのアリアンヌの視線といい、周囲の女どもの視線といい……お前ぐらいだぞ、横にいて良からぬことを考えられるようなやつは」
「中は反比例してひねくれてってるわよ」
大体、良からぬことって何よ、人聞きの悪い、とアンリエッタは口を尖らせる。
アンリエッタがしたのは、面倒くさそうな相手をチェックして、次の春の任官や領地換えの話をちらつかせただけだ。それでお互いの牽制に必死になるのは彼らの勝手、知った話じゃない。
あとは、「花も挿さないで置いとく花瓶なら売り払わせてよ。市価の1.34倍くらいにはするから手数料頂戴」と思ったぐらい? ――どの道、可愛いものだ。
「ばっか、真っ直ぐなばっかりが男の魅力じゃないだろう。だからこそますます良い男になるって言ってるんだ、俺みたいに」
「つまり今の捻くれに加えて、性格の悪さとその自覚と開き直りが足される――人として終わりってことね、公爵?」
「……昔からそうだったけど、口、わりぃよなあ、チビ……」
つまりはついに悪魔が完成――その前に、なんとしてでも農園を手に入れなくては。
「それにしてもアリアンヌとかの“恋する乙女”みたいな目を見てて思うところはないのか?」
(……この狸は)
「……」
踊りのターンに合わせて、仕方なくそちらへと視線を向ければ、王子はお年頃の可憐な彼女に優しく笑いかけている。
(そうよね、まさに理想の王子さまだわ。……一皮向いたらひどいもんだけど)
気品あり(性格悪いけど)、紳士で(私以外には)、金持ち(ケチだけど)、見た目良し(それだけは認める)――あの子のはごく普通の反応だ。
「やっぱり詐欺はお手の物ってことかしら? 完全に騙してるわ、さすが悪魔」
「わははは、詐欺、ほんとにな。カイ殿下も抜かりねえよなあ、あんな風に笑いかけられたら大抵勘違いするっての。で、また婚約婚約うるさく言い出して、そのために王子の印象上げようって、うちの息子があほみたいに奔走するんだ」
うんざりした顔で、「今度は何を引き出されんのかねえ」とぼやくマロール公爵を見るともなしに見上げる。
(婚約……まあ、そうなるか。カイにとっても悪い選択じゃないわよね、マロール公爵なら強力な後ろ盾になるし、こんな性格だけど、人品は悪くないし。でも問題は……)
「……少し気を払ってあげるほうがいいんじゃない? ジメテル侯爵の二の舞になりかねないわよ。言っちゃなんだけど、ご子息、ちょっと短絡的でいらっしゃるから」
(でも、そうしたら、ずっとあんな風に胡散臭く笑って暮らすことになるのかしら――)
「他に気にするところがあるだろうが、チビ」
「……」
(……やっぱり本題はそれなのね、ほんとに狸)
公爵の台詞を敢えて聞こえないふりをすれば、そのカイと視線が絡んだ。
紫色とその強さに惹き付けられるのは、最初に会った時から。何かを言いたいんだと分かるようになったのは、一緒に居るようになってしばらくしてから。そのうち言いたいことが目線だけでわかるようになって、でもいつからか分からなくなった――。
「……」
紫玉を包む目が端だけで微かに笑う。
あの笑い方は昔から変わらないのに、知らない人のように見えた。
「なあ、チビ、俺は自分の立場ってもんをよく知ってるんだが、個人的な考えはまた別なんだ」
珍しく黙って踊っていた公爵が、何かを含んだ笑いを見せてくる。
「……」
その彼へと顔を向け直して、アンリエッタはにこりと笑い返した。
――甘いわね、こういう相手がこういう顔で持ちかけて来る話を聞くべきじゃないって分からないほど、私、馬鹿じゃないのよ?
「い゛っ、……てめ、チビ」
「まあ、大丈夫ですか、いきなり屈まれるなんて。ああ、何とかの冷や水ってありましたものね、ゆっくり休まれますか、マロール公爵?」
あら、だって足を踏むなとは言われたけど、脛を蹴るなとは言われなかったから。
馬鹿みたいに高い、ぞろぞろと長いドレス、ちょっとだけ評価し直すことにするわ。周囲に見られないですむの、結構便利だもの。