・素早さのサーモンサンド - お母さんと赤い屋根 -
あの赤い屋根を見上げると思い出す。
お母さんがうちの屋根から落ちて、頭を打って死んでしまった日のことを。
あたしのお母さんはカラシナと名乗っていた。
でもそれは本名じゃないんだって、1度だけ幼い頃のあたしに本当の名前を教えてくれた。
名前が2つあるなんて、カッコイイなって幼心に思った。
もう、それがどんな名前だったのか、覚えてなんていないけれど……。
うちのお母さんはアッシュヒルの生まれじゃない。
もう戻れない、遠い世界からやってきたって言っていた。
村のみんながお母さんのパンのファンだった。
あたしもそれが何よりもの自慢だった。
だからあたしは、お母さんの代わりにパンを作り続けなきゃいけない。
お母さんが愛したアッシュヒルと、村のみんなをこれからも守りたい。
みんないい人ばかりなのに、物語の都合で皆殺しにされちゃうだなんて、そんなのあんまりだ。
そんなの絶対にダメ。
命燃やし尽くした勇者のなれの果て――
攻略本さんに、あたしはハッピーエンドを迎えた新しい世界を見せてあげたい。
誰1人欠けることのない、完全勝利のハッピーエンドを。
そのためにあたしは、毎日地道にパンを捏ねている。
少しずつ村のみんなを強くしている。
アッシュヒルが無惨に滅び去る運命の日に、パンで育てた最強の村人で魔物を返り討ちにする。
未来を勝ち取るために、あたしは休むわけにはいかなかった。
・
その日は、空一面が明るい銀色の曇り空だった。
昨日までは暖かったのに、今日は朝から少し寒い。
午後に入ってからも、空はちっとも晴れてくれなかった。
こんな日はパンの発酵が鈍い。
予定を狂わされたあたしは憎たらしい曇り空を見上げて、いつもより時間を遅らせてパンを焼いた。
「むぅ、今日はまだ焼けてないのか……」
「ごめんなさい村長さん、もう少し待ってくれたら、焼き立てを渡せるのだけど……」
村長さんみたいに焼き立てを狙ってきてくれる人も多い。
きてくれたみんなに謝ることになった。
「いいんじゃいいんじゃ、ムギちゃんが謝ることじゃないわい」
「でも、お母さんはもっとちゃんとしてたし……」
「カラシナさんは特別じゃ。何せワシが生まれる前から、ここでパン屋をしている人じゃったからのぅ」
「えっ、お母さん、そんな昔からパン屋さんだったの……っ!?」
「うむ、懐かしいのぅ……。はぁ、あの味が恋しいのぅ……」
「うん、そうだね……。もう食べられないなんて、残念……」
村長さんはパンが焼けるまで話し相手になってくれた。
予定が狂って少しカリカリとしていた気分が、元気な村長さんのおかげでカラッと晴れた。
「カラシナさんへの土産話が増えたわい」
「そんな寂しいこと言わないで下さい! もっともっと長生きして下さいよっ!」
「うむっ、ムギちゃんのおかげで、もう50年は生きられそうじゃわいっ! ガハハッ、見よこの筋肉っ!」
「あ、あはは……。今の村長さんなら、それくらいあり得るかも……」
その後、やっとお昼のパンが焼けた。
村長さんは焼き立てのパンを布に包んで、うちのお店を大股で出ていった。
うちのお母さんを懐かしみながら、元気な全力疾走で風車の方に飛んでいった。
ヨブ村長さんは、孫に焼き立てのパンを差し入れてくれる、とってもいいお爺ちゃんだった。