・或る王の追憶、風の巡る丘にて - 理想郷アッシュヒル -
朝、目を覚ますたびに潮風の香りを探す。
そして故郷の香りがそこにないことを確認すると、私は深く安堵して二度目の眠りにつく。
ここはアッシュヒル。
あの不思議な女性、カラシナさんに導かれてやってきた山上湖に根付く里。
丘では青青とした小麦畑が海のようにそよぎ、その彼方の森林では木々が風にざわめいて、山々が薄霞に包まれる風光明媚な土地。それがこのアッシュヒルだ。
私はこの地がとても気に入ってしまっていった。
それは土地の美しさもあったが、最も感動したのは人々の心根の温かさだった。
ここの人たちは、欲に溺れるサマンサの民とは大違いだ。
裏切りと政争に頭を悩ませて生きてきた私には、この地こそが人のあるべき姿を体現しているように感じられた。
「ロランッ、そろそろ起きておいでよ! 今日は店番してくれる約束じゃないかっ!」
ここは村でたった1つの酒場宿。
その女主人であるゲルタに呼ばれて2階の客室から酒場に下りると、美しい赤毛の女が私を待っていた。
「すみません、朝はどうも苦手なものでして……」
「はっ、貴族様みたいなこと言ってんじゃないよ。じゃ、店は任せたからね」
「ええ、どうかお任せを」
30歳半ばとの話だが、ゲルタの美貌には全く陰りというものが見られない。
私は酒場の掃除をしつつ、厨房の材料を使って自分の朝食を作った。
するとそこに、店の宿泊客が下りてきた。
「おおロラン、昨日は楽しかったよ」
「私もです。今日で町に戻るのですか?」
「うん、そうだが昼過ぎまで遅らせるよ。ゲルタさんと居られる時間は、長い方が良い!」
「わかります。彼女はさっぱりとしていて気持ちが良い人だ」
「ははは、カラシナさん派がよく言うよ」
「カラシナさんは美しいだけではありません。彼女は温かな心をした理想的な女性ですから」
「俺はゲルタさんの方がいいね!」
注文された朝食を作り、私は彼と共にゲルタの帰宅を待った。
ところが宿の扉を鳴らしてやってきたのは、村外れに暮らす素朴な少年だった。
「やあ、ダン。きてくれたのかい?」
「う、うん……。お、俺、海の外の、話、もっと聞きたい……」
「そう言ってもらえて私も嬉しいです。さあダン、そこに座って」
「ロラン様、ありがとう。俺、ロラン様の話、好き。勇気のない、俺でも、冒険ができる……」
「ダン、君のその気質は、私にはむしろ好ましいものに見える。人はもっと、君のように素朴でやさしくあるべきなんだ」
私はダンにブドウジュースを出してやって、お望みの海の向こうの話もしてあげた。
商人の男も興味深いようで、皿を抱えて隣にやってきた。
アッシュヒルにやってきて、私は自分の新しい取り柄に気付いた。
世界中を旅してきた私は、閉じた世界の住民にとって、なかなか魅力的な語り部のようだった。
「おやダン、また家の仕事サボってきたのかいっ!? あっはっはっ、悪い子だよぉっ!」
「ゲルタさーんっっ、おっ、おはようございますっ、今日も世界一お美しぃぃーいっ!」
そこにゲルタが荷物を抱えて帰ってきた。
「違う、仕事、した……。早起き、して、全部、言われたこと、終わらせて、きた……」
「はははっ、やるじゃないかい! そこのろくでなしどもとは大違いさね!」
私に不服はなかった。
私は先日祖国の父に手紙を出し、しばらくの長期休暇を取ると断った。
私はいつものように昼過ぎまでゲルタの酒場宿を手伝って、この村の一員としてアッシュヒルに貢献した。
・
昼過ぎになると、私はゲルタに断って宿を出る。
カラシナさんの店におもむき、そこでしばらく滞在するのが私の日常だった。
施設が集まる村中央の丘を下り、朝日に輝く湖を横目にあぜ道を歩く。
カラシナさんの店からは、今日も香ばしいパンの香りが漂っていた。
「すぅぅぅ……はぁぁぁ……っ」
店の軒先までやってくると、私は深呼吸をして自分を落ち着かせた。
彼女の前では、王子の洗練はいともたやすく瓦解してしまう。
私はもっと男らしい姿を見せて、彼女に気に入られたかった。
胸を張り、緩んだ表情を引き締めて、私は毅然として店の扉に手をかける。
「ロラン様?」
「なっっ?!」
しかしカラシナさんは私の背中の後ろに居た。
洗練の欠片もなく私は飛び上がり、扉を背にしてもたれるように驚いてしまった。
「店に入らないのかしら?」
「いっ、いつからそこにっ!?」
「ふふふっ、果たして、いつからでしょうね?」
カラシナさんは美しいその髪をしっとりと濡らしていた。
健康な男子にはそれがとても色っぽく見えて、つい姿に魅了されてしまった。
「ごめんなさい、急いで戻ってきたから、あまり髪を拭く時間がなかったの」
「そ、そうだったのですね……。あ、どうぞ、中へ……いえ、貴女のお店ですが……」
「ありがとう、王子様」
「それはご勘弁を。ここではただの暇人のロランです」
中に導かれると、私は店ではなく居間へと通された。
そこには既に昼食の準備ができていて、カラシナさんは私に水出しのお茶を入れてくれた。
「どうぞ、ロラン様」
「ありがとう、君のお茶はやはり最高だ」
それが私たちの日常だった。
「ふふ、昨晩の酒場はどうだったの?」
「ああ、昨日は熱心なゲルタのファンがきてね、なかなかに賑やかで楽しかった。そうそう、朝にはダンがきたよ」
カラシナさんのロールパンはふんわりとしている。
間に挟まれたハムとチーズが小麦の香りと混じり合って、とても香ばしくて幸せな風味がする。
「まあ、貴方の旅話ならわたしも気になるわ。わたしにも同じ話をしてくれる?」
「もちろん喜んで。はは、旅を仕事にしていて本当に良かったよ」
ダンにしたのと同じ話をすると、カラシナさんは表情を多彩して一言一言を楽しんでくれた。
それは穏やかでやさしく、さほど華やかではないが平凡で幸福なひとときだった。