恋の終わりに
「我々の婚約は破棄された」
通い慣れた王宮の、王太子の執務室。
やはり馴染んでしまったその部屋のソファに、普段はぴしりと伸びている背を屈めるように腰を掛ける殿下だけが異質に見えた。
「する。ではなく、された。ですのね?」
指先から熱が引き、震えが走る。それを、生まれてからこれまでの18年間で叩き込まれた淑女教育の全てを賭けて隠し切る。
された。と、既に全てが終わり覆すことの出来ない事実であることを示しつつ、まるで自らの意思は介在しない結果であると主張するような、私が今までに聞いたことのないその言い方に、胸がキシリと音を立てる。
「ああ。二人きりでお茶をするのも、これが最後だ」
「そう。残念ですわ」
まだ、私の顔をチラリとも見ない殿下は、そう言いながらもご自分の前の茶器を見つめるだけで指一本触れていない。
(殿下自身が身に纏う香りを思い起こさせる、爽やかな香りのこのお茶を、二度と口にできなくなりそうだわ)
先ほど、手の震えを誤魔化すためにそっと置いた自分のカップを見つめながら、そんなことを考える。
殿下も周りの人達も、私がこのお茶を好んでいた理由など知りもしないだろう。
こんな私の人生において1、2を争うひどい場面に、私の好きなお茶を用意する殿下の考えを、どう受け止めればよいものか。
「破棄。とは、殿下からの申し出…ということですの?」
経緯も、これからの流れも私が考えているものと大差ないだろうと確信に近い感覚があるのに、確認を止められない。
殿下がおっしゃる通り、殿下を独り占めできる最後のこの機会を少しでも延ばす術を、私は他に持ち得ないのだ。
「ああ。私が経緯を父上と伯父上に奏上し、それを受けた伯父上が正式に諸々の手続きを行った」
「最近、お父様となかなかお会い出来ないと思っていたら、こちらで忙しくされていらしたのね」
私の父は、先代の王の第一王子として生を受け、一時は立太子し婚約もしていた。しかし、成人を間近に控えた頃に病を発症、継承権も国益としての婚約も自ら返上し、公爵位を賜り臣下に降った。
立太子までしておきながら、継承権も実権も失い、ただ元王太子を置いておくためだけに用意された公爵位を得るだけの父に、ただ愛だけを理由に母は喜んで付いてきたのだ。
病の療養を名目に王の直轄領の片隅でひっそりと暮らしながら、私と妹の二人の子供が成人間近となった今も、父の病はなかなか治まりきらず一進一退を繰り返している。
それでも「私は旦那様と結婚できて、貴女たちが元気で育ってくれた、この人生が理想で1番幸せよ」と微笑みを絶やさない母は私の憧れだった。
そんな母のような人生は、私には待っていなかったようだけれど。
特殊な環境に生まれた私と、現王の第一子である殿下との婚約は生まれる前から決まっていたようなものだ。
女性でも王に立つことのできるこの国において、最も混乱を避けるのに適した婚約。ただそれだけの目的で結ばれたこの縁で、私は確かに愛を育んできたのに。
いつから?と飛び出そうになる質問をぐっと飲み込む。これは聞くまでもないことだ。
実のところ、薄々気づいてはいたのだ。殿下を愛し、見つめていた私が気づかないはずはない。
「妹を、大切にしてやってくださいませね。あの子は本当に生まれたばかりの頃から、殿下のことが1番でしたもの」
自分以外の女性を、例えそれが私の可愛い大切な妹であっても、愛してなどとは口が裂けても言えない。
胸の奥からこみ上げてくるものを、溢れそうになる涙を、抑え、微笑え、微笑え、と自分に念じる。
既に私のものではなくなった殿下に、覚えておいて欲しい私の姿は、泣き顔などではない。
「心配はいらないよ。彼女も1番大切なのは、君のはずだから」
やっと私を見てくださった殿下の顔は、ひどく顔色が悪く、やつれて見えた。
それなのに。こんなときだというのに。私を見るその目の優しさはなにも変わらないのだ。
残酷なまでに愛しいその目で私を見つめながら告げるその言葉は、やはり残酷なもので、微笑みを保てている自信などあっさりと消えてしまう。
「彼女も、私も。君のためにできることはなんでもするから」
私の最もしてほしいことは、できないくせに、と叫びそうになる。
私がしてほしくないことをしようとしている二人は、私にとっても1番大切な二人で。
それでも、私の1番の望みを叶えることは、同時に私の最も望まない結果を呼ぶことなのだとも理解している。
「ええ。私も、大切なお二人のためならなんでもできますわ」
無理やりに微笑んだ頬が、熱をもってしまった目の周りが、心の代わりとでもいうように悲鳴を上げている。
「殿下が苦しんでいらっしゃることを分かっていながら、ここまで見ぬふりをしてしまったこと、申し訳ありませんでした」
引きつる顔を見られたくなくて、頭を下げる。
私が気付いてしまったら、こうなることが分かっていたから。殿下が隠そうとしているからと言い訳をして、気づかないふりをしてしまった。
結局は自分のための愚かで最低な判断をしてしまった私には、もうおとなしく殿下のこれからの平穏と幸福を祈る道しか残されていないのだ。
「やはり、君には気づかれていたのか」
まるで自嘲するかのように、軽い口調で話す殿下に、何もかもを分かっていて全てを受け入れて覚悟を決めたのだと悟る。
「伯父と甥だからでしょうか?隠そうとしていらっしゃる様子がとてもお父様と似てらしたのよ?」
努めて軽い口調で話す殿下の様子に合わせて、私も明るい口調になるように全神経を注ぐ。
「ああ、そんなところまで伯父上に似ていたのか」
王家の血を濃く受け継ぐ、殿下とお父様は、容姿も性格も不思議なほど全く似ていない。それぞれの母親によく似ているそうだ。
つまり、これは「病」のことだろう。
抑えようとしていた感情が溢れそうになり、言葉に詰まる。
どうして。と、言っても仕方のない問いが。ぶつけようのない怒りが、私の中に渦巻く。
「…妹も、母も、お父様の対応で慣れておりますから。ご安心くださいませ」
もちろん。私だって、何度も対応してきたのだ。
一緒にいさせてさえ貰えれば。
どうして。
「ああ。君の大切な妹も、母君も。もちろん伯父上のことも、私に任せてくれ」
この状態では、頼りにならないだろうけど、と笑う殿下にはおそらく私の心情は筒抜けなのだろう。それでも、この状況を覆すような話は、私達の間に起こり得ることはない。
「ええ。お任せいたしますとも」
あなたが、私にとって頼りにならなかったことなど一度もない。と、気持ちを込めて、今ばかりは自然に微笑む。
そこで、ふと自分のこれからしなくてはならないことが浮かんできて、すぐに表情が崩れてしまった。
「私はこれから、色々と忙しくなりますものね…。新しい婚約者も探さなくてはなりませんし…」
つい、余計な一言を漏らしてしまった私に、殿下の表情もわずかに歪んだように見えたのは、私の願望なのか。
「君の選ぶ人なら、たとえ農民を連れてきても誰からも反対など出ない。君が幸せになれると思う人を選んでくれ」
「そうですわね…。この国において、今、私が誰を選ぼうとも問題ありませんわね…」
あなた以外は。という言葉を言外に隠す私の返答に、今度は殿下の表情がはっきりと歪む。
「私が言うことではなかったな…。すまない…」
「いいえ…。お気になさらないで」
おそらくは、殿下の本心からの言葉であったことは分かっている。それでも、聞きたくはない言葉ではあったけれども。
「新しい婚約者などは、後回しですわね。これからは、引き継ぎなどもいりますもの」
「君なら何も心配せずとも大丈夫だ」
沈鬱な空気を振り払うつもりで、明るく声を上げた私に合わせるように、殿下からもあっさりと返答が上がる。
「公務も、執務も。君はほぼ私と一緒に行っていたからね」
引き継ぎなどもいらないくらいだろう?と優しく微笑まれてしまっては、何も言えなくなってしまう。
小さく首を横に振る私に、子供をなだめるような微笑みを浮かべた殿下が言葉を続ける。
「この執務室も、君の好きなように変えてくれればいい。もちろん、全て置いていくから、必要なものはそのまま使ってくれ」
もう。本当に、全て終わりだ。ほんの僅かの時間すら、私達が共有することはない。と告げるその言葉に、私もさすがに返す言葉が見つからない。
「全て…そのまま使用させていただきますわ。ここにあるものは全て、私の一番好きなものですもの」
お父様や、殿下が抱える病は、穏やかに過ごしていれば多少進行を遅らせることはできる。しかし、国の頭としての激務など熟していては、あっという間に儚くなってしまうだろう病だ。
こうなってしまっては、殿下は王宮を去るしか道はないのだ。それが、私の望むことへの唯一の道でもある。
お父様の場合は、弟である現陛下がいらした。それに、お母様は、この大陸で最も強大である帝国の皇女だ。お母様の方からお父様に惚れ込んでの縁談であったため、例えお父様が臣下に降ろうとも、お母様が望んで付いてくるのならば、なんら国益は損なわれない。
そのため、ほとんど何の混乱もなく今の形に収まることができたのだ。
けれど、今は違う。
現国王には、子はお一人で、そもそも私と妹は先王の第一王子の子であり、母は帝国の皇女だ。
もともと、私達が婚約していなければ、殿下と私とを擁立した派閥で国は荒れていただろう。
こうなってしまった今。国を継ぐのは私か妹だ。
けれど、妹はこれまで大した教育はされておらず、私は既に公務に関わっている。
私までもが継承権を拒否することも、単純に国王と王配の立場を入れ替えるようなこともできない。
そうして私が国を継ぐとなれば、元王太子である殿下は臣下に降り、私の妹と婚姻をして、同じ立場である私のお父様の後を継ぐ。
つまり、これはほんのわずかな火種すら残さず、私と、国とを守るために選ばれた道なのだ。
なぜ、これほどまでに国を思って動ける方が。なんら瑕疵のないこの方が、病を得なくてはならないのか。
そんな理由で、王位を追われるなどと、なんと理不尽な世の中だ。
誰にもぶつけられない怒りが、悲しみが、私の中に渦巻き続ける。
この怒りは、この悲しみは、これからの国政に活かしてみせる。
私の誰よりも愛しいこの方が、ほんの僅かにも煩わされることのない安定した国を作ることが、今の私に許されたただ一つの道だ。
「アシュリー。最後に、一度だけ」
抱きしめさせてと、殿下が言い終わるその前に、腕の中に私から飛び込んだ。
「ルシオ様」
私の大好きな香りが鼻をくすぐって、くすぐられた鼻がツンとした痛みを呼んでくる。
まだ、駄目。
「お互いの名前を呼べるのも。これが最後だね」
これからは、王と臣下となってしまう私達に、それぞれ別の配偶者を据えなくてはならない私達に、お互いの名前を呼ぶことは許されない。
「ルシオ様」
震えそうになる声で、ただ愛しい人の名前を呼ぶことしかできない。
「アシュリー。すまない…」
この国を頼む。と、穏やかな声で告げるルシオ様の腕は、私が最も安心できるこの場所は、もう私の居場所にはならない。
この私の大好きな腕と、香りに包まれるのは、私ではなく妹なのだ。
どうあっても、この国の行く末を考えたときには。この方と妹の間にも、子供が望まれるだろう。
それこそ。今回のような事態が起きた場合には、スペアとしての家系が必要なのだ。
私達は王族である。それは。こういうことだ。
それでも。
「ルシオ様。一つだけ、お願いがございます」
「アシュリーの願いならば、いくつでも。どんなことでも」
私を抱きしめる腕に微かに力がこもる。
「香りを、変えてくださいますか?」
これは、これだけは、私達だけの思い出の残り香。
「ああ、そうしよう…」
「ありがとうございます」
ぎゅうっと、最後に力を込めて愛しい人を抱きしめる。
私達は、これでおしまい。
それでも、せめて、この香りに包まれるのは、私だけ―――。
きっと、いつか。遠い未来に。永遠に来てほしくはないその日に。
私は、思い出に縋って、一度だけ。
あのお茶を口にするだろう。