0.いつかどこかの犠牲
仄暗い道に漂う血と黴の匂い。
多くの者は不快感に顔を顰めるであろうその道を黒装束の少女は眉一つ動かさずに進んでいた。
漆黒のローブの内に黒革の鎧を着込み、下には血避けのスカートを靡かせる。腰に帯びた長刀の柄は浮き上がるように鮮烈な紅色。
暗がりにあって先も見通せぬなか、何者かの気配を感じたのか音も立てずに立ち止まると、腰の長刀に手を掛け鯉口を切る。
やがて不気味に音を立てながら少女の前に現れたのは、未完成の福笑いのような頭部と幼児が粘土で作ったような歪な四肢を持つ異形の存在。
それはどこか救いを求めるように少女の元へとにじり寄ってくる。
憐れみすら感じるかつて人であったであろうそれを目にして、少女の表情に僅かながら同情の色が混じる。
だがここは〈メイズ〉。
同情も憐れみも正義も、そのどれもが死よりも恐ろしい苦痛への誘い手となる。
メイズにて一切の情けを捨てよ。
それは世に風聞されるメイズの理。
この場に蔓延る悪意の罠は人の良心に漬け込み、挑む者達を嘲笑うかの如く他者を巻き込む。
例えるならば対人地雷。致死性を抑え、生きたままの負傷によって敵を行動不能に至らせる。負傷兵を心優しいお仲間が助けにくれば仲良く共倒れという仕組みだ。
故にメイズ攻略はそのほとんどが単独で行われる。
気心の知る者はおろか面識もない者に同情する余地などメイズでありはしない。
哀れな異形を前に少女は、
「せめて介錯だけは担ってやろう」
小さな呟きとともに少女は腰の長刀を抜き去り、眼前に一瞬の閃きが駆ける。
数瞬の間を置いてかつて人であったそれは形を崩し、ついに物言わぬ肉塊へと変じた。
鮮血を浴びながら不快感に少女は瞼をきつく閉じる。
それは浴びた鮮血が常人ではありえない浅葱の色味に不快感を催したわけでも、帯びる生暖かな感触によるものでもない。
メイズに入り常に感じる嗜虐的な悪意、何者かから感じる根拠のない意図にコズエは反吐が出そうな思いだった。
ふと頭に浮かぶのは父のこと。
そう、メイズに挑む契機となったのは父の薦めからだった。
世に克己流の存在を知らしめてやれ、と。
老いには勝てず病床に伏した父の言葉を少女は聞き届けた。
克己流は過去に遡れば実践的な、しかして現代では競技的な技術以上に持て余す殺人剣術である。
だがメイズの出現によりその前提は覆った。少なくとも少女の父はそう考えている。メイズで功を成せばその名は轟き、己の代で克己流の看板を畳まずに済むだろうと。
しかし少女にとってそんなことはどうでもよかった。
求めるのはメイズに眠るとされる不死の技術。
母のいない少女にとって唯一の肉親である父の存在はあまりにも大きかった。それは己が死地へ向かうことを躊躇わないほどに。
頭上を巡るのは父との修行の日々。一時は時間の無駄だと言って叱られて家を飛び出すこともあった。だが最後にはいつも父の元へと戻った。少女自身、父に剣を教わるのが好きだったのだろう。
ひとときの回想から離れ、顔から滴る浅葱色の血を拭う。
だが触れた額に激痛を感じ、一瞬にして現実に引き戻される。
もしやと思い少女は先程の一閃で大いに血を浴びた右腕を捲ると、そこには自分のものとは思えないほどに腫れあがった腕が溶けるように爛れてゆく様が映った。
浴びた浅葱色の血が人を人ならざる者と化す元凶であることに、少女は今更ながらに理解した。
(情けをかけてはいけないと理解しながら、私は……)
深い後悔に苛まれながら、醜く変異した部位が広がってゆくのを痛みとともにコズエは感じた。
やがて蟲が全身をのたうち蝕むような激痛に襲われる。だが死の安らぎが訪れる気配は一向にない。
やがて痛みが消えるころには思考もなくなり、少女の人生は幕を閉じた。